第157話 超高級薬「皇帝御製 黒龍九転還生散」盗難事件<四>
「これでも薬用炭に指一本触れてないって言い張る?」
凜華は、高景明を睨みつけた。
「あなたが黒龍九転還生散を盗み出し、用意したただの煤とすり替えた証拠よ」
高景明はしばらくの間、自分の影をじっと見つめていた。やがて彼の肩が小さく揺れ始めた。
「……フハハ、ハハハハハ!」
突然、高景明は大声で笑い出した。それまでの彼からは想像もつかないような、狂気と不敵さに満ちた笑い声であった。彼は景雲を真っ向から見据えた。
「見事なものですな、薬師殿。炭ではなく防腐剤から割り出すとは。ええ、認めましょう。私が黒龍九転還生散を盗みました。すべては私の仕業です」
「あれ? 随分あっさり認めたね。もっとねばると思ったのに」凜華は意外そうな顔をした。
「高景明……!」
景雲の顔が怒りで赤くなる。
「なぜだ! 監査官という重職にありながら、なぜ国を、余を裏切った!」
「なぜ、ですか?」
高景明は嘲笑うように首を傾げた。
「陛下。お言葉ですが、炭の粉に国庫の金を湯水のように使うことこそ、正気の沙汰とは思えませぬ。どこの馬の骨とも知れぬ愛妾に入れあげなされて……実に嘆かわしい。とはいえ、この薬を欲しがっている方もおられるのです。国家の無駄遣いを、私が有効に活用しようとしたまで」
「へえ、随分と立派な泥棒の言い訳ね」
凜華が冷ややかに言い放つ。
「じゃあ、盗んだ本物はどこにあるわけ?」
高景明は、ここで一段と笑みを深くした。まだ自分が敗れたわけではないという確信に満ちている。
「どこでしょうね」
高景明は両手を広げ、周囲の緊迫した空気を楽しむように言った。
「炭はまだ、宮城の外には出ておりません。どこかにはありますよ、どこかには。ですが、今日中に仲間に回収されて外に出ることでしょう」
「何だと……!」景雲の顔色が変わる。
「どこだ! どこに隠した、高景明」
景雲の怒声にも、高景明は眉一つ動かさない。それどころか、彼は完全に黙秘を決め込む姿勢に入った。
「絶対に申しません。拷問されようと、首を刎ねようとも口を割りません。あの炭の粉は、いずれしかるべき御方の手に渡り、この国に新たな変化をもたらすことでしょう。せいぜい広い宮城を、泥水をさらって探し回るがいい」
「……」
そこで景雲も理解した。
高景明は金目当てで薬用炭を盗んだわけではなく、何らかの政治的信条もしくは思想的信条に基づいて犯行に及んだのだと。
宮城内には反皇帝組織、反乱分子が存在するということであり、おそらく「しかるべき御方」とやらが親玉なのだろう。景雲の命を狙い、これまでの事件を引き起こしてきたのも彼らなのか。何にせよ、これは相当に根が深そうだ。
「さあ、どうぞ。捕まえてください」
高景明は、自ら進んで衛兵たちの方へ歩いていった。衛兵は彼を太い荒縄で縛りあげた。
犯人はわかった。しかし、莫大な予算をかけて作った薬用炭は行方不明のままである。さらには、宮城の内部に高景明の協力者がまだ潜んでいる。
「宮城のどこか……ね」
凜華はぽつりと呟いた。このままでは薬用炭は持ち去られてしまう。といっても、宮城自体がとんでもない広さである。闇雲に探し回ったところで時間と労力の無駄だ。
「どうする凜華。こやつの身内を片端から捕らえて、生木を裂くようにして吐かせるほかあるまいか」
景雲は額の青筋をピクピクと震わせ、玉座で物騒なことを言い始めた。そんな最高権力者の脅しにも、高景明は「ククク……」と不敵な鼻笑いを漏らすばかり。
「ううん」と凜華はあっさりと否定した。
「そんな野蛮なことしなくても、炭のことは炭に聞けば一発よ」
「どういう意味だ」
「もっと確実な『記憶』を、本人の身体からいただくの。拷問で絞めあげるわけじゃなくてね」
凜華が薬箱から取り出したのは、細い竹ひごの先端に、真綿をふんわりと巻き付けた一本の棒であった。
現代の医療従事者が見れば「ああ、インフルエンザの検査のとき、鼻の奥に突っ込まれて涙が出るあの綿棒ね」と一発で理解する形状だが、この世界においては未知なる道具かもしれない。
「薬師殿、悪あがきはよしなさい」
高景明が、憐れむような目を向けた。
「私をいくら痛めつけても無駄ですよ」
「痛めつけはしないよ。ちょっとばかり苦しいけどね」
凜華は高景明の前に立つと、彼の顎をグイと掴んで上を向かせた。
「壺から別の容器に炭を移し替えた際、もしくは炭をどこかに隠す際、ものすごく細かい『粉塵』が舞い上がったはずなんだよね。でもって、人間はずっと息を止めているわけにはいかないのよ」
「……何だと?」
高景明の瞳に、初めて得体の知れない恐怖が走った。
「薬用炭はナノレベルで微細なの。だから、ほんの少し呼吸をしただけでも、空気中に漂うミクロの炭粉が人間のフィルター、つまり鼻腔に吸い込まれてガッチリと捕まってしまうわけ。おまけに鼻の奥は常に湿っているから、一度張り付いた微粒子はちょっとやそっとじゃ落ちない。まさか自分の鼻の穴の奥まで、石鹸水を流し込んでゴシゴシ洗ったりはしないでしょ」
「な、何を、無礼な……! 待て、よせ!」
高景明は顔を背けようとしたが、時すでに遅し。
「李元さん、この人の頭を後ろからガッチリ固定して」
「はいっ」
李元や部下の宦官たちによって身動きを封じられた高景明の鼻の穴めがけて、凜華は容赦なく真綿の棒を突き刺した。
「ぶ、ぶふぉっ! ほ、ほげえっ!」
それまでいかなる拷問の脅しにも屈さず、エリート官吏のイメージを保ち続けていた高景明が、カエルが潰れたような悲鳴をあげた。
鼻腔の最奥、最も敏感な粘膜をクリクリと容赦なく回転させられる。彼の目からは、ボロボロと生理的な涙が溢れ出した。




