第156話 超高級薬「皇帝御製 黒龍九転還生散」盗難事件<三>
「……どうやら、しらばっくれるつもりのようだな」
景雲が呻くように言った。
このまま三人とも拷問にかけてもよいが、犯人でない者が苦痛に耐えかねて嘘を吐く可能性もあるし、逆もまたしかりだ。全員が官吏であり、一歩間違えば人材の損失にも繋がる。
変な話、拷問するにも刑吏の人件費や器具の管理・整備などで金がかかる。
薬用炭作りに大枚をはたいたのだ。
皇帝の頭の中には「なるべく安上がりでいきたい」という思いがあった。
彼は逡巡し、廷臣たちを見渡してから言った。
「凜華を呼ぶ。あれに調べさせる」
薬用炭を作った本人なら、何かいい知恵があるかもしれないと考えたのである。
しばらくして、李元に連れられた凜華が謁見の間に入って来た。
官僚たちが一斉に凜華を見る。またもや皇帝の愛妾が進出してきたことに、警戒の念を露わにした。
来る途中で、李元からことのあらましを聞いた凜華は、容疑者三人の前に立つと言った。
「薬用炭をただの煤と取り替えるなんて。舐められたもんだわ。一緒にしないで欲しいんだけど」
飄々としつつも、瞳には己の作品を愚弄された静かな怒りが宿っていた。
「薪の煤は、言ってしまえばただの不純物の塊。粒子も粗いから、水と石鹸で洗えば簡単に落ちる。でも薬用炭は違う。高温の水蒸気で微細な穴を空けた粒子は、人間の皮膚のシワ、爪の生え際のわずかな隙間、衣服の繊維の奥底……そういう肉眼では見えないミクロの隙間に潜り込む」
「それがどうしたというのです?」
高景明が涼しい顔で反論した。
「我々の手は清潔そのものだ。微細な粉が残っていると主張されるなら見せていただきたいものですな」
「ええ、見せてあげる。科学の力でね」
凜華は、李元たち宦官の方へ振り向いた。
やがて実験の準備が整った。
上座には、眉間を険しくした景雲が鎮座し、その周囲には大勢の官僚や刑部の役人が控えている。中央の卓には、水の入った三つのたらいが並べられた。
「凜華殿、ただの水ですよ。本当にこれで犯人がわかるんですか?」
李元が不安そうに言った。その視線の先には、直立した三人の容疑者がいる。
会計係の徐文亮は、自分の葬式の日取りでも考えているかのようにガタガタと震えており、武官の陸栄利は「俺の辞書に盗みの文字はない!」とばかりに肩を怒らせている。
高景明は、むっつりとした顔で目の前のたらいを見つめている。
「さて、始めましょうか」
凜華は、不敵な笑みを浮かべて卓の前に立った。
「按ずるに……犯人は今こう考えているはず。自分は手を念入りに洗ったし、服も綺麗にした。証拠なんて残っていないと」
ここで凜華は、聴衆や景雲に向けて、わかりやすく解説を始めた。
「確かに、三人の手は一見すると何もついてないように見える」
景雲が口を開く。
「身体検査した時点でそれはわかっている。目に見えない薬用炭の粒子をどうやって検出するのだ」
「薬用炭を検出するとは言ってないよ」凜華は悪戯っぽく笑った。
「どういうことだ?」
「私が注目しているのは薬用炭の保管箱の方。箱には防虫・防腐効果のある鬱金の粉を混ぜたものが塗られている」
「鬱金の粉……?」
景雲が玉座から身を乗り出す。
「犯人は薬用炭を盗み出す際、手が黒くなるのを恐れて細心の注意を払ったでしょうね。でも、箱の内側はどうかな。鬱金に触れて皮膚のシワや爪の隙間に微粒子が入り込んだ可能性がある」
「ならばなおさら意味がない」
高景明が鼻で笑った。
「手を洗えば綺麗に落ちる。見えないなら存在しないも同義だ」
「普通の汚れならね。鬱金の色素は水には絶対に溶けないし、薬用炭と同じで、爪の奥に入り込んだら簡単には落ちないよ」
凜華は卓の上のたらいを指し示した。薬箱から小瓶を取り出すと、たらいの中に注いだ。辺りにツンとした匂いが漂う。
「今、私が入れたのは濃い灰汁……強いアルカリ性の水よ。さあ、身の潔白を証明するために、この灰汁の中で手を洗って。ただし、洗い方には条件があるわ。ただ水につけるだけじゃだめ。指の股、爪の間、手のひらのシワまで、しっかりと擦り合わせること。やましいことがないなら、できるはずよね?」
凜華に煽られ、三人の男たちは生唾を呑み込んだ。
真っ先に動いたのは陸栄利だった。
彼は「おう!」と野太い声をあげ、たらいに手を突っ込むとバシャバシャと豪快に揉み洗いした。
次いで徐文亮も、震える手を水の中で擦り合わせる。二人のたらいの水はわずかに灰汁の濁りを見せるだけで透き通ったままだった。
「ほら見ろ! 何ともない!」
陸栄利が安堵の声をあげ、徐文亮もホッとした顔をする。
高景明がしぶしぶ手を入れ、擦り合わせた瞬間だった。
「なっ……!」
彼は短く叫んだ。両手をこすり合わせた指先、特に爪から、鮮血のような赤い糸状のもやが、じわりと立ちのぼったのだ。彼の動きに合わせて波打ち、手の周りの水をみるみるうちに赤褐色へと染め上げていく。
「ひっ、ああっ!」
高景明は弾かれたようにたらいから手を引き抜いた。
謁見の間に「おおっ」とどよめきが走る。
玉座の景雲も、目を細めて鮮やかな変色を見つめた。
「妖術だ……! 貴様、私の水にだけ毒を入れたな!」
叫ぶ高景明に対し、凜華は呆れたようにため息をついた。
「たらいに水や灰汁を入れるのを見てたでしょ。細工なんてできないよ。鬱金に含まれる成分はね、強いアルカリに触れると、黄色から赤へ色を変える性質があるの」
これは、鬱金に含まれる黄色い色素「クルクミン」が、強いアルカリ性の水に触れることで分子構造を劇的に変える化学反応である。
この世界においては、嘘をつく悪人の正体を白日の下に晒す「血の呪い」に見えたかもしれない。
「さあ」
凜華は赤くなった水と、顔面蒼白で固まる高景明を交互に見ながら言った。
「箱を開けて中を覗いただけなら、鬱金が手につくはずはないよね、高大人」




