第155話 超高級薬「皇帝御製 黒龍九転還生散」盗難事件<二>
皇帝が直々に作らせた薬用炭を「黒い粉」や「炭」と呼んだのでは、いかに効能があろうとも箔がつかない。
そこで官僚たちは、この超高級薬に仰々しくも威厳に満ちた名前を冠した。
その名も「皇帝御製 黒龍九転還生散」。
……黒い龍が九度転じて死の淵から生還す。
これ以上ないほどの大層な名前がつけられたものの、要するに「陛下が作らせた目玉が飛び出るほど高い炭の粉」である。
無論、その製造コストの高さゆえに、市井の民草が気軽に手を出せるような代物ではない。王侯貴族や、有り余る財力を持つ一握りの富裕層のみが「もしもの時の命綱」として、莫大な金を積んでようやく手に入れられる幻の霊薬。それが「黒龍九転還生散」であった。
「まあ、これで少しは枕を高くして眠れるか」
景雲も、薬師房に納める黒龍九転還生散の入った箱を見て、ひとまず安堵の息をついた。
これで、毒鳥騒ぎのような予測不能の毒物パニックが起きても、初動でこの炭を飲ませれば被害は最小限に食い止められるはずだ。国庫の痛みは、未来の安全のための投資である。
だが、世の中は計算通りに事は運ばない。
皇帝御製の万能解毒薬が完成し、備蓄が整い始め、安心感が漂い始めた矢先のことである。
ある朝、薬師房を管理する役人が、血相を変えて景雲の執務室へ駆け込んできたのだ。
「へ、陛下! 大変でございます。一大事でございます!」
「何事だ、朝から騒々しい」
景雲は不機嫌そうに顔をしかめ、手元の筆を止めた。
「盗まれました!」
「……何がだ?」
役人は、ガチガチと歯を鳴らし、今にも泣き出しそうな顔で言った。
「こ、黒龍九転還生散が……! 薬師房の倉庫に保管されていた薬用炭の中身が……別のものになっています」
よりにもよって厳重な警備が敷かれている宮城から黄金と同じ、いやそれ以上の価値を持つ薬用炭が盗まれた。
景雲は唖然とした。そもそも薬用炭の存在自体、知る者は限られている。超高級薬だが、その希少さゆえに市場に流通することはない。
ということは、薬用炭の価値を知っている内部の者の犯行か。それとも万能解毒薬が存在しては困る「毒殺を企む者」が盗み出したのか。
もしそうだとすれば、標的は誰なのか。解毒薬を奪った上で、誰かを毒殺しようという恐ろしい計画が水面下で進行しているのか。あるいは、全く別の目的を持った者の犯行か。
莫大な金をかけて作った希望の粉が、新たな事件を引き起こした瞬間であった。
事件が発覚したのは、暁闇の刻である。
薬師房の倉庫を管理する老薬師が、確認のため箱を開けて発覚した。箱の内側には鬱金と蜜蝋を混ぜた液が塗られており、その上に薬用炭を納めた厚い陶器の壺が置かれている。
老薬師は一日二回、確認を義務付けられていた。薬用炭の品質を維持するため、壺の蓋は蜜蝋で厳重に密閉されている。前日の夕方に確認した時は何も問題なかった。
ところが、朝倉庫前を通りがかったところ、何か胸騒ぎがして中に入った。蝋の封を解いて壺の中を確認すると、中身がすり替えられていたのである。
壺にあったのは、一見すると真っ黒な粉であったが、少しばかり薬学に通じた者が見れば一目瞭然のただの煤であった。
本物の黒龍九転還生散――薬用炭は、見た目よりも遥かに軽く、触れるとサラサラとしており無臭である。
対して残された煤は、元から湿気を吸ってボソボソとしており焦げ臭い匂いがした。
「おのれ……」
報告を受けた景雲は、怒髪天を衝く勢いで玉座から立ち上がった。
いや、怒りというよりも、国庫から絞り出した莫大な予算が文字通り煙と消えたことへの、血を吐くような悲鳴であったかもしれない。
「直ちに犯人を捜して捕らえよ! なんとしても盗まれた薬用炭を探し出せ」
皇帝の勅命に、清心殿と薬師房は上に下にと大騒ぎになった。
かくして、事件当夜に薬師房の倉庫へ立ち入る権限と機会を持っていた三人の男が引き立てられた。
怒りで目が血走った景雲の前に、三人の容疑者は並んで平伏した。
一人目は、若手官吏である徐文亮。彼は会計担当で、当夜も薬師房の薬品の数の確認のために倉庫の鍵を持ち出した。生来の気の小ささからか、小鹿のようにガタガタと震え床に額を擦り付けている。
「ひいぃぃっ! お、恐れながら申し上げます。私は帳簿の数字と実際の薬品の数を照らし合わせるために倉庫に入りました。が、決して皇帝御製の箱を開けてはおりませぬ。天地神明に誓って、炭の一粒たりとも盗んではおりませぬ」
二人目は、倉庫の警備を担当していた武官の陸栄利。
筋骨隆々たる大男で、彼は平伏しながらも己の潔白を大声で主張した。
「我が職務は扉の死守にあります。当夜、不審な者は一人たりとも通しておりません。第一、武骨者の私に高価な薬を売り捌く伝手があるはずもなく、使い方もわかりません。盗む理由が皆無であります」
そして三人目が、薬師房を含めた外廷の予算を監視する監査官の高景明である。彼は視察と称して、当夜に倉庫に入っていた。説明のために薬師が数人ついてきたが、席を外した時間があり、その間に粉だけをすり替えた可能性があった。
彼は前の二人とは対照的に落ち着き払っていた。ゆっくりと頭を上げ、冷ややかな声で言った。
「私は監査官として、莫大な予算が投じられた品が適切に保管されているか、調査をしたまで。該当の箱は開けましたが、中身には指一本触れておりません。どうぞ、私の手や衣服を隅々までお調べください。炭の汚れなど、どこにも見当たらないはずです」
高景明の言う通りだった。
三人ともに衣服から煤の匂いがするが、焚き火や火鉢で暖を取ったたためで不自然ではない。
事前の身体検査において、三人の手や爪の間、衣服の裏表、さらには靴の底に至るまで、黒い炭のような汚れは一切発見されなかった。犯人は薬用炭を慎重に扱い、犯行後に手を洗い、衣服を徹底的に払ったと思われた。
目視での判別は不可能であり、状況証拠だけでは三人のうち誰が犯人かを特定することはできなかった。




