第154話 超高級薬「皇帝御製 黒龍九転還生散」盗難事件<一>
さて、現代の薬の中で一番高価なのは、最先端の科学が詰まった「遺伝子治療薬」である。
一位が異染性白質ジストロフィー治療薬「レンメルディ」で約六億円、二位がB型血友病治療薬「ヘムジェニックス」で約五億円、三位が筋ジストロフィー治療薬「エレビジス」で約四億円もする。
当然のことながら、充実した保険制度がない場合、薬代は全額自費。薬代が払えるのなら命が助かるが、払えない場合はどうなるかわからない。まさに「ない袖は振れない」のが、創薬の世界のシビアな現実なのである。
そして薬用炭もまた、通常の木炭の百倍かそれ以上の価格で取引されている。目に見えない微細な穴を無数に空ける特殊な処理と、不純物を徹底的に排除する工程が必要だからだ。
現代においてもこうなのだから、すべてを手作業で行う異世界の薬市場においては、家が数軒建つほどの超高級薬になってしまうのだった。
壺天閣の裏庭に作られた特製窯から、濛々と黒煙が上がること数日。
とんでもない量の薪を燃やした果てに、出来上がった漆黒の粉末――薬用炭は、紫檀の箱に納められ、皇帝・景雲に献上された。
清心殿の広間に漂う、かすかな焦げ臭さ。
それは、後宮を震撼させた毒鳥騒動を乗り越えた者たちにとって、何よりも頼もしい希望の匂いでもあった。
「これが凜華殿の言っていた万能解毒薬ですか」
李元が、箱の中の真っ黒な粉を興味深げに覗き込んだ。
彼の目には、ただの炭と何ら変わらぬように見える。
だが、この微細な粉の一粒一粒に、目に見えない無数の小さな穴――細孔が空いており、その表面積たるや、わずか一掴みで清心殿の広間をすっぽりと覆い尽くすほどの広さになるのだ。
李元は興奮気味に言った。
「動物や植物由来の毒素なら、大抵のものは吸着させて外に出せるとか。なんと素晴らしい。ということは、永叔翁を毒殺した『苦杏仁』の毒も、これを飲ませていれば助かったのでしょうか」
玉座に座った景雲が答えた。
「いや、苦杏仁の毒は『酸』で『気体』ゆえ、薬用炭は効かんそうだ。凜華の言葉を借りれば『青酸配糖体』というらしいが……。この炭の穴は、分子の大きな毒素を捕まえるのには適しているが、酸や気体のように素早く揮発し、分子の小さいものは吸着できんそうだ」
「気体……? 毒が腹の中で煙になるのですか?」
「結果としてはそういうことだ。すぐに血液に溶け込んでしまうゆえ、炭が捕まえる暇がないという」
景雲は凜華から聞かされた(半分以上は理解不能な)毒物学の講義を思い出しながら、ふうと息を吐いた。
「毒と薬用炭にも相性がある。何でもかんでもこれ一つで治るという魔法の粉ではない。凜華の故郷でも、青酸やヒ素、鳥兜は即効性ゆえ救命は難しいそうだ」
「はー毒も色々あるのですねえ」
李元は感心しきりである。
和やかな医学談義が一段落したところで、景雲は箱に添えられた木簡を手に取った。
彼は先ほどから薬用炭製造に関する「請求書」が気になっていた。
木簡を開くと、表情はみるみるうちに険しくなった。
「……李元」
「はっ」
「炭を一回焼いただけで、なぜこんな額になる? 明朗会計を命じたはずだが。間違っているのではないか」
景雲の地を這うような低い声に、李元はびくっと肩を震わせ、冷や汗を拭いながら答えた。
「い、いえ、陛下。間違いではございませぬ。薬用炭を作るには、莫大な掛かりが必要です。窯を築いてただ木を燃やせばよいというものではなく……」と必死に説明を始めた。
なぜ薬用炭が高くつくのか。理由は大きく分けて三つある。
一つ目は、絶望的なほど「歩留まり」が悪いこと。
普通の炭なら木材百斤(約六十キログラム)から二十斤ほどが焼けるが、薬用炭にするにはそこからさらに高温の水蒸気で炭の表面を削り、無数の穴を開ける賦活処理が必要である。その過程で大半がガスになって消えてしまうため、最終的に手元に残るのは元の木材のわずか数%。これだけで原価が跳ね上がる。
二つ目は、莫大な燃料代。普通の炭は数百度の熱で焼けるが、薬用炭は八百度を超える超高温を何日も維持しなければならない。ふいごを四六時中引き続けて消費する薪の量は、普通の炭焼きの比ではない。
そして三つ目が、医療用ならではの洗浄コスト。焼き上がったばかりの炭には、有害な灰やタール、重金属が残っている。体内に入れるためには、酸や大量の純水を使って徹底的に洗浄し、不純物をゼロにする必要がある。
つまり薬用炭は、大量の薪を消費し、元の木材の大半を灰にして焼き上がった少量を、さらに磨き上げる「黒い宝石」なのである。
現代の工業的な化学処理を、マンパワーと力技でやってのけた代償は恐ろしく高くついた。
結果、出来上がったこの黒い粉末の単価は、高級炭の数百倍となり、下手な宝石や黄金よりも高価な代物となってしまった。家一軒が買えるという水銀入りの滑雪膏なんてメじゃない。まさに「黒いダイヤ」である。
これは一介の薬師の稼ぎでどうにかなるレベルではなく、凜華がスポンサー頼みになるのも致し方のないことだった。
景雲は木簡を握り締め、天井の絢爛な彫刻を仰ぎ見た。
「真珠をすり潰して化粧品にするよりはマシだが、なんと金のかかる女だ」
「……心中お察しいたします」
李元が深々と頭を下げる。
「とはいえ、仕方ない面もあるか……」
あまりの高額請求に驚きはしたものの、景雲も暗愚な君主ではない。
冷静に費用対効果を考えれば、薬用炭は自分や有能な廷臣たちが未知の毒で暗殺されるリスクを大幅に減らすことができる。
すでに実績もある。早速にも範の娘で、誤って毒を飲んでしまった(ということになっている)掌書の命を救ったのだ。
これは、決して高い買い物ではない。要人毒殺で国政が混乱し、結果生じる損失に比べれば、炭焼きの費用など安いものだ(と思いたい)。
「金がかかる割にちょっぴりしか作れんが、役に立つものであることは確かだ。有事に備えて備蓄しておいた方がよいな」
景雲はただちに決断した。彼は、陶工の範を呼び出すと、都の郊外に薬用炭を量産するための専用窯を極秘で幾つか築くよう命じたのである。
かくして、皇帝の肝いりで「薬用炭製造プロジェクト」が始動し、生産された薬用炭は、超一級の解毒剤として薬師房に厳重にストックされることになった。
薬用炭は湿気に弱い。そのため保管箱の内側には、天然の防虫・防腐剤である「鬱金」と水を弾く蜜蝋を混ぜたものが塗られ、その上に炭が置かれた。




