第153話 薬用炭の炉作りと墨マニアの狐憑きの女<五>
凜華は、彌娘の調合した墨を小皿に入れ、湯に溶かした。しかし、液は真っ黒でこれでは試薬の反応が目視できない。
凜華は細く切った竹の先端を黒い液に浸し、上澄みの部分に、戸棚から取り出した薬品「ドラゲンドルフ試薬」をポトリと垂らした。すると、濡れた竹の上に、鮮やかな赤褐色の沈殿物がジワリと浮かび上がった。
「やっぱりね。ドラゲンドルフ試薬が反応した。この墨の中には、アルカロイド系の毒物……ストリキニーネが含まれている」
小皿を睨みながら、凜華は腕を組んだ。
「でも、おかしいわね。墨に毒が入っていたとしても、普通は筆を浸して字を書くだけ。墨に触ったとしても皮膚から急激には吸収されないはず。どうして娘さんは、あんな重篤な急性中毒を……」
すると、範がひどくバツの悪そうな顔をして、視線を泳がせた。
「あ、あのな、薬師殿……」
「もしかして故意に毒を盛られたのかもね。エリート職だから、妬み嫉みで嫌がらせされることもあるだろうし。派閥同士の陰謀や抗争に巻き込まれた線も……」
凜華は真剣に彌娘の身を案じた。景雲が何者かに命を狙われているのと同様、官僚の暗殺も珍しいことではないだろう。
「範さん、調べてくれるかどうかわからないけど一度刑部に相談した方がいいかも。なんなら護衛もつけてもらってさ」
範は冷や汗を流しながら、首を横に振った。
「ワシは……そういうことではないと思う」
「なんで?」
「彌娘は誰かの恨みを買うような子ではないし……」
範の声はしどろもどろである。妙に歯切れが悪いのに、凜華は業を煮やした。
「もう! 娘が可愛いのはわかるけど、ちょっと親バカすぎるよ。犯罪に巻き込まれてるかもしれないのに」
「いや、違うのだ。彌娘は……その、字を書く時に筆の穂先を整えるため、筆を舐める癖があってな。墨の味も大好きでむしろ喜んで舐めていた。何度注意しても直らなくてな……」
「……は?」凜華はポカンと口を開けた。
「え、舐めてたの? ストリキニーネ入りの墨を? 猛毒だよ?」
「た、多分……」
「ええええっ~~~!」
凜華は思わず叫んでしまった。彌娘は筆を舐める癖により、猛毒ストリキニーネを自ら口にしてしまっていたのだ。
ストリキニーネは体内に蓄積しにくい毒だが、舐め続けていると常に神経が過敏な状態になり、顔の筋肉が引き攣るなどの軽い中毒症状が出る。
倒れたのは、仕事に集中するあまり、無意識のうちに何度も筆を舐めてしまったのだろう。結果、血中濃度が一気に致死量に達し、全身の硬直痙攣という急性発作を引き起こしたというわけである。
「信じられない。自分で毒を舐めてりゃ世話ないよ」
凜華は大きくため息をついた。
「す、すまん。うちの娘が迷惑をかけた……」
範がすまなそうに頭を下げる。
そこへ、のそりと寝室から顔を出した女がいた。
「んあ? あれ、ここどこ……?」
目をこすりながら現れたのは、先程まで死の淵を彷徨っていた彌娘であった。ボサボサの髪に、どこか焦点の定まらないトロンとした目つき。いかにも「自分の世界に生きているオタク」といった風情である。
「彌娘、気がついたか! よかった、本当によかった……!」
範が駆け寄って抱きしめるが、彌娘は「父ちゃん、痛いよ。ヒゲがチクチクする」と迷惑そうに顔を背けた。
「ヒゲがなんだ。どれだけ心配したと思っているんだ!」
「ごめんごめん。でも、なんで私倒れたんだろ。仕事を頑張ってただけなのに」
「あんたねえ……」凜華は呆れを通り越して苦笑いするしかない。
「あんたの作った墨に入ってた『馬銭子』の毒が原因よ。ストリキニーネ中毒。一歩間違えれば、全身の筋肉が硬直して窒息死してた」
しかし、命を救われたというのに、彌娘の反応はどこまでもズレていた。
「でもあの墨、美味しいんだよ?」
「味の問題じゃないから!」
「普通の墨は膠の味しかしないけど、馬銭子を入れると、ちょっとピリッとした苦味が出て……そこが癖になるというか。舐めると心がすごく落ち着くんだよね」
「落ち着いてる場合か! それは神経毒で脳が麻痺してるだけ!」凜華の容赦ないツッコミが炸裂する。
「同僚たちから『狐が憑いた』って気味悪がられてたのも中毒症状の引き攣り顔が原因だよ。ちょっとは気にしなよ」
「え? 狐? ああ、なんかみんな最近よそよそしいなーとは思ってた。でも私、仕事中に声かけられない方が集中できるから、ちょうどいいやって思ってて。フフフ!」
この女、鋼のメンタルである。自ら毒を舐め続けて死にかけ、周囲から狐憑き扱いされていたというのに、まったくどこ吹く風のマイペースぶりであった。
マイペースなら凜華も相当なものだが、世界は広く、宮城も広い。上には上がいる。天才とアホは紙一重で、いつも周囲が振り回される。
「そりゃ、天然素材百%の高級墨ならいくら舐めてもどうってことないよ。でも、馬銭子入りは絶対にダメ。お父さんの寿命を縮めないで。次やったら、炭の水を飲ませる程度じゃ済まないからね!」
外見上はひと回り以上年下と思われる凜華からの熱い説教に、彌娘はようやく「はーい、気をつけます」と気の抜けた返事をした。
その傍らで、範は凜華に向かって拝むように手を合わせた。
「薬師殿、すまない。そして本当にありがとう……。ワシは、周囲の噂を真に受けて娘が狐憑きだと信じ込んでしまった。最初からあんたのような薬師に診せるべきだったんだな」
老陶工の涙ながらの懺悔に、凜華は「まあ、助かったからいいですけどね」と言うしかなかった。
かくして、外廷と壺天閣を騒がせた「掌書の狐憑き騒動」は、ただの「墨オタクの筆舐め中毒」というしょうもないオチで幕を閉じたのである。
何はともあれ、この老陶工の娘は、凜華と父親が作り上げた薬用炭の素晴らしい吸着効能を、身をもって証明した第一号の患者になったのだった。
※現代の「液体墨(墨汁)」や安価な固形墨には合成界面活性剤や防腐剤、化学染料などが含まれているため、絶対に口に入れてはいけません。




