第152話 薬用炭の炉作りと墨マニアの狐憑きの女<四>
数日間にわたる、徹夜の炭焼き作業がついに最終工程を迎えていた。
壺天閣の裏庭にそびえ立つかまどは、範の卓越した火の管理により、内部温度を摂氏八〇〇度以上という超高温で安定して維持していた。
「よし、範さん。今です、一気にいくよ!」
煤だらけの顔に汗の筋を何本も作っている凜華が、手ぬぐいを口元に巻き付けながら叫んだ。凜華は、長い鉄の棒の先に水を含ませた藁束をくくりつけ、それを白熱するかまどの中へ突っ込んだ。
ジュワアアアッという凄まじい音と共に、瞬時に気化した超高温の水蒸気が窯の内部に充満する。これこそが「賦活」と呼ばれる薬用炭の最終仕上げである。
「閉じろ、熱を逃がすな!」
範が怒鳴り、弟子たちが素早く窯の扉を密閉する。
これを何度か繰り返し、ついに火が落とされた。
丸一日かけてゆっくりと窯を冷ました後、取り出されたのは、叩くとキンキンと金属のような甲高い音を立てる黒光りする極上の炭であった。
「……できた。不純物のない、純度百パーセントの薬用炭よ」
凜華は、その黒い塊を手に取り、ふうっと深い安堵の息をついた。
範もまた泥と煤にまみれた顔をほころばせ、
「ワシの陶芸人生においても、これほど美しい火の結晶を見たのは初めてかもしれん」
と満足そうに頷いた。
疲労困憊の職人たちは、支給された酒でささやかな完成祝いを済ませると自分の持ち場へと戻ったのである。
範も娘が気になるのか、挨拶もそこそこに急ぎ足で帰っていった。
――そして、事件は翌日の昼下がりに起きた。
「薬師どのおおお! 娘を助けてくれぇぇぇッ!」
壺天閣の扉が破壊されんばかりの勢いで蹴り開けられた。転がり込んできたのは、焦りと恐怖で顔をグシャグシャにした範であった。
彼の背中には、ぐったりとした意識を失った女、娘の彌娘が背負われていた。
「範さん? どうしたの!」
凜華と寿寿が慌てて駆け寄ると、範は震える手で彌娘を床に下ろした。
「昨夜は無事だったが、先ほど秘書省に様子を見に行ったら倒れておった。突然発作を起こしたらしい。……頼む、お前さんの腕でどうか娘を助けてくれ!」
凜華はすぐさま彌娘の脈を取り、瞳孔を確認した。
彌娘の顔面は不気味に引き攣り、口元はニイッと笑ったような形で固まっている。身体全体が弓なりに反り返り、小刻みに痙攣していた。
「間違いない。強力な神経毒による中毒症状だ。しかも、かなり進行している!」
原因の毒物が何であるか、現時点では特定できない。
ヒ素か、鉛か、あるいは植物性のアルカロイドか。
だが、今の凜華には毒物の種類が分からずとも、物理的にそれを体内から排除できる「切り札」があった。
「寿寿! 薬用炭をすり鉢で粉末にして、ぬるま湯に溶かして持ってきて!」
「は、はいっ!」
寿寿が猛烈な勢いで炭をゴリゴリとすり潰し、真っ黒な炭の水を作り上げた。
「……ここからが勝負」
凜華は息を呑み、精神を集中させる。
この手の神経毒の中毒患者は、光や音、あるいは体に触れるといったわずかな外部刺激だけで、呼吸停止を招くほどの大痙攣を起こす。しかも意識が朦朧としている状態で液体を無理に飲ませれば、誤って気管に入り窒息してしまう危険性もあった。
「範さん、娘さんの身体をしっかり支えて。大きな音を立てたり、強い刺激を与えたりしないでね」
凜華は細心の注意を払いながら、痙攣して歯を食いしばっている彌娘の顎をこじ開けた。
細い竹の管を口内に差し込むと、喉を刺激して嘔吐やさらなる痙攣を誘発しないよう、真っ黒な液体を少しずつ慎重に胃袋へと流し込んでいった。
「飲んで。吐かないで……!」
胃に流し込まれた超微粒子の薬用炭は、すぐさまそのナノレベルの無数の穴を開いた。彌娘の消化器官内に残留している未吸収の毒素を、強力な磁石のように次々と吸着していった。
果たして、小一時間もすると、激しかった彌娘の痙攣が嘘のようにスッと治まり、強張っていた筋肉も弛緩して、穏やかな寝息を立て始めたのである。
「おおっ……! おおおお……っ!」
それを見た範は床に崩れ落ち、声をあげて男泣きに泣いた。狐憑きの呪いと恐れられた奇病が、黒い炭の水によって劇的に打ち払われた瞬間であった。
「……で、原因の究明なんだけど」
彌娘が別室の寝台でスヤスヤと眠っている間、凜華は壺天閣の研究室の机に、範に持ってきてもらった「彌娘の私物」を並べていた。
それは、彼女が秘書省で開発していたという試作品の墨と穂先がわずかに汚れた筆であった。彌娘は倒れる直前、これらを触っていたという。
本来、東洋の伝統的な高級墨というものは、菜種油や松の木を燃やして採取した「煤」を、動物の骨や皮から煮出した「膠=ゼラチン」で練り固めて作られる。
要するに、炭素と天然のタンパク質の塊であり、人体にとっては無害である。それどころか、止血剤や腹痛の薬として、墨を削って飲むという民間療法が存在するくらいだ。では、なぜ彌娘は中毒を起こしたのか。
「範さん、娘さんはこの墨に『防虫』や『保存』の目的で何か特殊なものを混ぜていなかった?」
範は思い出すように視線を彷徨わせ、やがてハッとした。
「そういえば……『虫を寄せ付けないために、南方の種子をほんの少し混ぜている』と語っていた気がする。確か……馬なんとかという木の実だ」
「馬……馬なんとかなら『馬銭子』ね」
馬銭子は常緑樹「マチン」の種子を乾燥させた生薬であり、ごく微量が薬として使われることがある。
凜華は机の上の墨を睨みつけた。
「馬銭子は劇薬よ。種子には中枢神経を激しく興奮させ、筋肉を硬直させる猛毒『ストリキニーネ』が大量に含まれている。致死量はほんのわずか。防虫効果を高めようとして混ぜる量を間違えたのかな。いずれにせよ、その毒が体内に入って中毒を起こしたのね」




