第151話 薬用炭の炉作りと墨マニアの狐憑きの女<三>
宦官もある程度の地位になると生活に余裕ができる。養子をとって家を継がせるのは珍しいことではない。
だが、大抵は男子をもらうため娘がいるのは珍しかった。
範の語り口には、単なる家の存続を超えた娘に対する深い愛情が滲み出ていた。
「ワシは宮城暮らしゆえ、彌娘も宮城に入れた。娘は貴人の小間使いをしながら育った。時間ができると会いに行ってな。どういうわけかあの子は、墨の匂いを嗅ぐのが何より好きで……暇さえあれば、墨を嗅いでうっとりとしているような変わり者だった」
範の顔に、苦笑とも自慢ともつかない笑みが浮かぶ。
「恐ろしいほど頭のよい子でな。主人が読んでいる本を眺めているだけで文字を覚えてしまった。面白がった主人が読み書きを教えたら、難解な公文書もスラスラと読み下すようになった」
「天才だ!」
「やがて才覚が上の者の目に留まり、推薦と試験を受けて、なんと秘書省の『掌書』に採用されたんだ」
掌書とは、国の重要な文書の管理や書記を司るエリート職である。一介の小間使いから掌書になったとなれば大変な出世だ。
「へええ、すごいじゃないですか!」
感心する凜華に、範は「そうだろう、そうだろう」と深く頷いた。
「あいつはワシの誇りだ。血は繋がっておらんが、一つのことにのめり込む職人気質は間違いなくワシに似たんだろう」
そこまで語った範の顔が不意に曇った。炎をじっと見つめる老人の目に、不安の色が広がっていくのを凜華は見逃さなかった。
「……ところが、だ。最近、その彌娘の様子がどうもおかしいんだ」
範の声が、急に沈み込んだ。ふいごを引いていた寿寿も、深刻な気配を察して手を止め、心配そうに老人を見つめる。
「おかしい……と言うと?」
凜華が促すと、範は苦しげに言葉を絞り出した。
「最初は、顔の引き攣りだった。娘の口元がニイッと横に固まるようになったんだ。声をかけても、不気味な笑い顔のまま動かない。やがてそれは全身に及ぶようになった。身体が弓なりに異常な形に強張って、ピクピクと痙攣するようになった」
「顔が引き攣る……全身の硬直痙攣か」
それはただの病気や疲労ではない。中枢神経を冒す特異な毒物、あるいは特定の細菌感染においてのみ見られる教科書通りの典型的な中毒症状だが……医学の知識を持たない宮廷の人々にとって、その姿は別の恐ろしいものに映った。
「周囲の連中は、娘の不気味な笑い顔を見て『狐が乗り移った』『妖魔に憑りつかれた』と噂し始めた。気味が悪いと言って、今では誰も娘に近づこうとしない。薬師に見せても、厄介な憑き物だからと祈祷師を呼ばれる始末だ」
範は、大きな両手で自らの顔を覆った。
「ワシは窯の火のことはわかっても、娘を助ける方法はわからない。あいつは……よい墨を作ろうと日々頑張っているのに」
「……墨?」
凜華は、ピクッと眉を動かした。
「範さん。娘さんは墨を作っていたんですか?」
顔を上げた範は頷いた。
「ああ。あいつは掌書の仕事の傍ら、最高の墨を作ろうと研究に没頭していた。最近は『絶対に消えない虫も食わない究極の墨』を完成させると言って徹夜も辞さなかった。もしかすると、その執念が狐の魔物を引き寄せてしまったのかもしれん……」
「……狐憑きねえ」
凜華は暗い林の奥に視線を投げたが、少しして範に向き直った。
「範さん。それ、狐じゃないよ」
「なっ……なんだと?」範が驚いて身を乗り出す。
「顔の筋肉が引き攣って笑ったように固まる『痙笑』。身体が弓なりに強張る全身の『硬直痙攣』。それは脳や脊髄の運動神経を異常に興奮させる強力な神経毒が、体内に入って起きる中毒症状。狐の呪いでも妖魔の仕業でもない」
凜華はさらに続けた。
「娘さんが作っていたという墨。おそらく彼女は、墨の防虫効果を高めるために、強力なアルカロイド系の毒草か、あるいは重金属系の化合物を扱っていたんじゃないかな。たぶんそれが体内に入って中毒を引き起こした」
凜華の推測に、範は雷に打たれたように目をむいた。
「ほ、本当か? 呪いではないと。病気なのだと、お前さんはそう言うのか」
「うん。原因が毒なら、それを中和して排出させる治療法がある」
凜華は、ごうごうと燃え盛る灼熱のかまどを指し示した。
「ちょうどいいことに、今焼いている薬用炭は、体内に入ったあらゆる毒素を吸着して排出させる毒消しになる。身体が弓なりに反り返っているなら、いつ呼吸をするための筋肉まで固まって窒息死するかわからない。なるべく早く娘さんをここへ連れてきて」
それを聞いた瞬間、気難しい老陶工の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おお……おおっ! ありがたい。恩に着るぞ!」
範は、凜華に向かって深く頭を下げた。
「いいからいいから。ほら範さん、娘さんが来るまでに、この炭を完成させないと」
「おうっ! 任せておけ。彌娘を救う最高の炭を、ワシの命に代えても焼き上げてやるわい!」
老職人は涙を乱暴に拭い、凄まじい気迫でかまどの前に立ち、炎を睨みつけた。
壺天閣の夜は、業火の熱気と迫り来る危機、そして新たな謎を孕んでさらに熱く更けていく。




