第146話 実在した鴆毒と緋金冠の謎<二>
長楽殿の寝台に運び込まれた女官の容態は、予断を許さないものであった。
唇はチアノーゼで薄気味悪い紫色に変色し、ひゅうちゅうと喉の奥で鳴る呼吸は浅く途切れ途切れである。凜華の指先が、女官の冷えきった手首から首筋へと素早く滑る。脈診を取る彼女の横顔は、彫像のように硬く強張っていた。
「……だめだわ。血圧が急激に低下している。末梢血管への血流が完全に途絶えかけている」
女官の額には玉のような冷や汗が浮かび、四肢も硬直している。心臓の拍動は遅く微弱になっており、全身に血液を送り出すポンプとしての機能を完全に失いかけていた。
「急いで。心臓の動きが完全に止まる前に、ショックを与えて再起動させないと」
凜華が薬箱の奥底から取り出したのは、厳重に蝋で封印された小さな陶器の壺であった。
その壺を手にした瞬間、凜華の脳裏にかつて薬学の授業で学んだ恐るべき副作用の数々が浮かんだ。
これは賭けだ。一歩間違えれば、自らの手で患者の命を断ち切ることになる。救うための手が、死神の鎌へと変わってしまう恐怖が彼女を襲った。
だが、迷っている暇はない。
彼女は血が滲むほど唇を強く噛み締め、震えそうになる指先を理性の力で強引に押さえつけた。
「凜華殿!」
部屋に駆けこんできたのは李元だった。
急報を聞いて外廷から飛んできたらしい。当初は凜華が倒れたというデマが流れ、宮城の外に出ている景雲の名代としてやってきたようだ。
凜華が無事なことにホッとしつつ、横たわる女官の姿と、異様な緊迫感を漂わせる凜華の様子に足がすくんでいる。李元は青ざめた顔で凜華が持つ壺を見つめた。
「凜華殿、それはなんでしょうか。女官は助かりますか」
「これは『附子』よ。鳥兜の根を減毒処理したもの」
「鳥兜ですと? とんでもない猛毒ではありませんか」
「ええ、少しでも量を誤れば即座に命を奪うものよ」
凜華の研ぎ澄まされた声が、李元の狼狽を鋭く遮った。
凜華は壺から取り出した黒ずんだ粉末を、極めて慎重に、耳かき一杯ほどの分量だけ小さなすり鉢に落とした。
「毒と薬は表裏一体。鳥兜の主成分であるアコニチンは致死性の神経毒だけど、極微量を正確に用いれば衰弱しきった心臓を無理やり稼働させる『強心剤』になる」
凜華の目は極度の緊張で血走っていた。
「今、彼女の心臓と神経は未知の猛毒によって強制的にスイッチを切られかけている。この止まりそうな心臓を、附子の毒性という『劇薬のハンマー』で叩き起こして無理やり再起動させる。非常に危うい綱渡りの賭け。患者の生命力と毒のせめぎ合いでどちらが勝つかはわからない。でも、これしか方法がないの」
たった数ミリグラムが致死量となる。
分量を間違えれば、附子が容赦なく女官にトドメを刺すことになる。己の決断の重さに、背筋を冷たい汗が流れ落ちてゆく。
凜華は粉末を湯で溶き、細い竹の管を使って、歯を食いしばってしまっている女官の口端から一滴一滴、慎重に流し込んだ。
「さあ、動け。動け……!」
薬を流し込むや否や、凜華は即座に体重をかけて女官の胸郭を強く連続して圧迫し始めた。停止しかけた心臓へ物理的な刺激を与え、血流を無理やり回して薬を全身へ届けるためだ。
同時に女官の手首を握りしめ、脈の動きに全神経を集中させる。一刻、また一刻と、息の詰まるような時間が流れる。李元たちは壁際に立ち、美しい鳥が引き起こした惨状に目を覆いたくなりながらも、ただただ祈るように凜華の奮闘を見つめていた。
やがて、女官の脈が指先をわずかに叩き返した。薬が効き、心臓が再び自力で拍動を始めたのだ。
夜が更け、冷たい月明かりが部屋に差し込む。凜華は一睡もせず、再び心拍が落ちないか絶えず脈を取り続けながら、冷えきった女官の身体を温め、気道を確保する看病を続けた。
そして――白み始めた東の空から、一条の朝日が差し込んだ時であった。
「んっ……」
女官の喉から、かすかな呼吸の音が漏れた。
紫に染まっていた唇にわずかに赤みが戻り、指先がピクリと動く。凜華が脈を診ると、先ほどまでのバラバラで消え入りそうだった拍動が、弱々しいながらもトクントクンと一定のリズムを取り戻していた。
「……心拍が安定した。呼吸も正常に戻りつつある」
凜華は大きく息を吐き出し、そのまま寝台の脇にへなへなと座り込んだ。
「なんとか、この世に引き止めることができた」
「おお……! よかったです。本当に」
李元が駆け寄ってくる。
徹夜の治療でボロボロになった凜華は「ああ。もう、肩がバキバキ……」と苦笑するしかなかった。
「患者は助かった。ので今度は事件を調べないとね。でもその前に寝かせて……」
「ええ、ええ。ゆっくりお休みください」
「ありがとう。今日のところはこれにて失礼して爆睡させてもらいます。おやすみなさーい!」
言うが早いか、凜華は大あくびをし、薬箱を担ぐとふらふらと長楽殿を出た。
壺天閣へ帰ると自室に急行し、そのまま寝台に倒れ込んでぐうぐうと寝てしまった。




