第144話 長楽殿のもふもふ団子猫と氷を紡ぐ足<下>
「氷の魔術も、すべては理の内にあったというわけか」
景雲は、納得の吐息とともに腕の中で丸くなっている毛玉を優しく撫でた。
「お前の毛が良質すぎるせいなのだな。もう大丈夫だぞ。誰もお前を妖魔とは思わん」
皇帝の大きく温かい手のひらでゆっくりと背筋を撫でられ、恐怖で縮み上がっていた猫も次第に落ち着きを取り戻したらしい。
不機嫌そうな顔はそのままに、景雲の腕の中で目を細めると、やがて喉の奥からゴロゴロ……という音を響かせ始めた。
それは一般的な飼い猫の愛らしい鳴き声とは異なり、いかにも野生の猛獣らしい、腹の底に響くようなエンジンのごとき重低音であった。だが、その音が明確に「安心」と「甘え」を意味していることは、猫を抱く景雲にも痛いほど伝わった。
「見かけによらず、愛嬌のあるやつだ。この喉鳴りは、小さな雷のようだな」
景雲が上機嫌に口元をほころばせた。
「マヌルネコが人に懐くなんて聞いたことがないわ。警戒心が強くて、近寄ってすらこないはず」
凜華は不思議そうに、景雲の腕の中に収まる毛玉を見つめた。
「よほどお腹を空かせたのかな。人里に降りてくるくらいだから、単に好奇心旺盛な子なのか。色も白いし、この世界特有の猫なんだろうなあ」
「私の手から肉をむしり取っていくくらいには図太いぞ」
凜華が言った次の瞬間、猫はふいっと顔を上げ、隣でしゃがみ込んでいる凜華の姿をじっと見つめた。
冷たい風が吹き抜け、凜華のフードがふわりと揺れる。
マヌルネコの野生の勘で、目の前の存在を正確に吟味する。頭のてっぺんから極上の毛皮にすっぽりと包まれ、顔だけを出しているこの丸っこい生き物。自分と同じように、途方もない密度の毛を生やし、極寒の冷気から身を守っている。
(……こいつ、デカい同類だな)
猫がそう判断したかどうかは定かではないが、ニャッと短く鳴くや否や、景雲の腕からひょいと跳躍し、凜華の膝の上へ見事に着地を決めたのである。
「えっ、ちょっと……!」
不意にずしりとしたものが飛び込んできて、凜華は戸惑った。
「いきなり何よ」
と文句を言いつつも、抱きしめてしまう。
猫は人間の思惑など一切意に介する様子もなく、モコモコとした毛皮の上に器用に陣取ると、前足を胸の下に完全にしまい込み、いわゆる「香箱座り」の姿勢をとった。ただでさえ丸い猫がさらに丸まり、完全な「餅」と化した瞬間であった。
「これは傑作だな」
景雲はたまらず吹き出した。
凜華の膝の上で、白銀の団子猫が「ここが私の定位置ですが何か?」と言わんばかりの顔で、凜華の毛皮の外套に顔を埋めている。もはや、どこからが人間でどこからが猫なのか、色以外では見分けがつかない「もふもふの大渋滞」が形成されていた。
「お前たちが重なると、どちらが猫なのかわからんな。同族だと思われたんじゃないのか?」
景雲は笑いを堪えきれない様子で、凜華のフードの先を指でつついた。
「私の庭には、冬になると『丸い獣』がよく増えるようだ」
「……陛下、からかわないで」凜華はぶすっとし、唇を尖らせた。
「私は防寒対策をしているだけで、元から丸いわけじゃありません」
抗議の声を上げる凜華だが、フードの奥から覗く頬が、ほんのりと赤くなっているのが、月明かりの下でもはっきり見て取れた。
猫も凜華の膝の上から、ぶすっとした顔で景雲をじっと見上げる。二つの不機嫌な顔が並ぶ様は、奇妙なほど調和が取れていた。
(くそっ、本当にかわいいな……!)
景雲はまた、言葉にならない熱い萌えのようなものを感じつつ、深く息を吐いて天を仰ぎ、危うく顔に出そうになる煩悩を散らした。
やがて景雲は、凜華と猫の毛玉コンビを愛でる贅沢な悶絶タイムに区切りをつけるべく、すっくと立ち上がった。
「戻るぞ。団子に水をやらねばな」
普通の飲み水を用意してやらないと、この「氷の魔術師」はまた腰を抜かすだろう。そう判断した景雲の後に続こうと、凜華は膝の上の毛玉を抱きかかえて立ち上がろうとした……が。
「お、重っ……!」
思わず叫んでしまう。
「毛がフワフワなだけかと思ったら、中身もしっかり詰まってるじゃない……!」
マヌルネコの重量によろめきつつも、凜華は必死に体勢を立て直して景雲の背中を追った。
当の猫といえば、自ら歩く気など毛頭ないらしく、実におとなしく腕の中に収まっている。
「転ぶなよ」
苦笑しながら振り返り、わたわたとついてくる一人と一匹を待ちながら、景雲は密かに思った。
この手のかかる薬師も餌付けできたら良いのに……と。
その後、丸っこい迷い猫「奶団子」は、長楽殿の裏庭を己の縄張りにしてしまった。
水を飲もうとするたびに池を凍らせてしまい、そのたびにパニックを起こして逃げ回るため、決まった時刻に深皿に入れた水を与えられるようになった。
宮女たちの間では「氷の魔術を使う皇帝の猫」として親しまれ、いつしか長楽殿の名物となった。




