第143話 長楽殿のもふもふ団子猫と氷を紡ぐ足<中>
「妖術?」
「なんでも、あの猫が水を飲もうとして長楽殿の池に近づき、水面にほんの少し足や髭を触れさせた瞬間、バリバリと凄まじい音がして、一瞬にして池の表面が凍りつくらしい」
凜華の目が好奇心でキラリと光った。
「一瞬で、池が凍る?」
「そうだ。目撃した女官が悲鳴をあげて逃げ惑うものだから、すっかり氷の魔術を使う妖魔の類だと噂が立ってしまってな。だが、当の猫自身も自分の妖術(?)に驚いて『フギャッ!』と情けない声を上げて飛び退いているようだ。私は妖魔とは思わんが……少々心配だ。水を飲むたびに池を凍らせていては、そのうち肉球が凍傷になってしまうのではないか」
皇帝が迷い猫の肉球を案じるという微笑ましい絵柄に、凜華はくすりと笑いを漏らした。
「陛下。安心して。その絨団猫……マヌルネコは妖術使いじゃない」
その時である。ガサリと近くの梅の木の茂みが揺れた。
二人が振り返ると、そこには、月明かりに照らされた丸っこい毛玉――いや、一匹の猫がこちらをじっと見ていた。景雲の言った通りの見事な仏頂面。ずんぐりとした体躯に、白に近いふかふかのシルバーグレーの毛並み。その短い前足の下には、しっかりと己の太い尻尾が敷かれており、「冷たい地面は断じて歩きたくない」という強い意志が感じられた。
「わっ! マヌルネコだ。初めて見た」凜華が興奮気味に叫ぶ。
「噂をすれば奶団子ではないか。ほれ、団子。こっちへ来い。今日はとびきり上等だぞ」
景雲は猫に「奶団子」と名付けていた。白いミルク団子のことである。皿にあった生肉を地面に放る。猫は一瞬、警戒するように耳をピクッと動かしたが、肉の誘惑には抗えないらしく、のそのそと短い足で歩み寄り、モチャモチャと咀嚼し始めた。
「本当にぶすっとしてるね。かわいいな」凜華は目を細めた。
奶団子は肉を食べ終わると、のっそりと歩き始めた。
二人が後をついてゆくと、猫は庭園の小径を抜け、池の近くまで行った。水が飲みたのか、水面をじっと見ている。
空気は冷え切って吐く息は白い。極寒でありながら、御影石に囲まれた池はまったく凍っていなかった。
風はなく、水面はさざ波一つ立たない「鏡」と化している。中天に浮かぶ月と満天の星々が、そのまま水底に沈んでいるかのように鮮明に映し出されていた。
「見事な水鏡ね。少しも凍っていないわ」
池にしゃがみこんだ凜華が、感嘆の吐息を漏らす。
猫が池の水面へ、短い前足をちょんと伸ばした。ピンク色の肉球とふかふかの毛先が、冷たい水に触れる。
次の瞬間であった。
ピキピキピキィッと深夜の庭園に、ガラスが弾けるような鋭い高音が響き渡った。猫の足先が触れたその一点から、真っ白な氷の結晶が放射状に走り出したのである。
水面に広がった星空の鏡が、ほんの数秒の間に幾何学的な氷の紋様(霜花)に塗り替えられていく。一瞬にして池全体がカチンコチンの分厚い氷になってしまった。
「フギャアッ!」
当の猫は、己の足元で爆発的に広がった氷に肝を潰し、カエルのような奇声を上げて飛び退いた。
「また凍ったか。そう怖がるな、こっちへ来い」
恐怖のあまり逃げ惑う猫を、景雲が素早くしゃがみ込んで抱きとめる。猫は景雲の長靴に顔を押し付け、丸い身体をガタガタと震わせていた。
「すごい……。本当に、水に触れた瞬間に一気に相転移が起きたわ」
凜華は凍りついた池の水面を指先で撫で、その美しさに目を見張った。そして、景雲の腕の中で身をすくめている猫に近づき、その極上の毛並みを優しく撫でた。
「陛下。これは妖術でも何でもない。純粋な物理現象よ。この子が池を凍らせたのはちゃんとした『科学的な理由』がある」
凜華は、猫の分厚い毛に指を深く沈めながら解説を始めた。
「この池に注ぎ込んでいるのはゴミを濾過した清水。波一つない状態の純度の高い水は、零度を下回っても凍らずに『過冷却』――液体のままエネルギーを限界まで溜め込んだ状態になるの。でも、水分子たちは氷になりたくてうずうずしている。そこにほんの些細な刺激や、氷の核となる『不純物』が触れた瞬間、溜め込んでいたエネルギーが一気に解放されて連鎖的に氷に変わる」
「つまり、猫の毛が不純物というわけか?」
「そう。しかもただの毛じゃないわ。絨団猫……マヌルネコの毛は、ネコ科動物の中でも世界一の密度を誇っているのよ」
凜華は、もふもふの毛を見ながら真剣な顔で言った。
マヌルネコの毛の密度は一平方センチメートルあたり、約九千本である。人間の毛髪に比べると約四十五~六十倍であり、全身に緻密で極細の毛が密集している。
この圧倒的な表面積を持つ毛先が過冷却の水に触れた瞬間、無数の毛の一本一本が「結晶核」、氷が生まれるための足場となってしまう。だからこそ、一瞬にして池全体が凍りついてしまったのだ。
猫にしてみれば、ただ水を飲みたいだけなのに己の持つ防寒着が仇となって「氷の爆発」を引き起こしてしまったのである。




