第142話 長楽殿のもふもふ団子猫と氷を紡ぐ足<上>
さて、古来より猫という生き物は「寒がり」の代名詞であり、少しでも気温が下がれば人間の膝の上やかまどの傍にちゃっかりと座り込む現金な性格だが、中央アジアの高地に棲まう最古のネコ科・マヌルネコともなれば少々事情が異なる。
彼らはマイナス五十度の雪原にあっても、己の極太の尻尾を前足の下に敷き込んで「自前のもふもふ座布団」を形成し、仏頂面のまま寒気を耐え忍ぶのだ。そんな過剰な防寒装備を持った山猫が、己の体毛の異常な密度のせいで「氷の妖術使い」になってしまうのは、当猫にとってもはなはだ迷惑な話であろう。
張憲の書類すり替え事件が解決してから数日後のことである。
冬の猛威が宮城の石畳を盛んに叩いて毎晩凍らせ始めた頃、壺天閣の扉を叩く者があった。染織房の女たちである。
彼女たちの顔は、大仕事を成し遂げた名工のように達成感にあふれていた。
「凜華さま、仕上がりましたよ! 陛下から賜った極上の毛皮、凜華さまのお身体に合うように仕立てました」
差し出されたのは、景雲からもらった毛皮の外套を凜華用に仕立て直したものである。元々は男物で持ち主も背が高いため、凜華が着るとサイズが合わず「歩く毛布」のごとき有様だった。
しかし、染織房の裁縫技術はさすがである。武張った肩のラインはなだらかに落とされ、裾も切って歩きやすいように調整されている。切り落とした毛皮の端切れは縫い合わされて愛らしい「フード」となり、襟に縫いつけられていた。
「すごいね、縫い目も見えない」凜華の声は弾んだ。
「ちょっとした雨くらいならものともしませんよ。さあさあ、お羽織りくださいませ」
急かされるままに袖を通し、頭まですっぽりとフードを被った凜華は、己の身を包み込む暖かさに思わずほうっとため息を漏らした。
フードの裏地には極上の絹が張られ、表地は分厚い獣毛が冷気をしっかり遮断する。
「モコモコでふかふか……これは癖になるね。もう冬の間はこれを着たままでいいかも……」
人としての矜持が、毛皮の魔力に敗北した瞬間であった。
景雲も、凜華のとは少し色が違うだけの同じ仕立ての外套を使っている。二人が並んで立つと、図らずも「お揃いの姿」になる。
「ほう。染織房の女たちも、なかなか良い仕事をしたではないか」
景雲は外套を着た凜華を見、涼しい顔で言い放ったが、その内面では嵐のような激情が渦巻いていた。
普段は冷徹な論理で難事件をぶった斬り、男顔負けに検死までやってのける凜華が、今はもこもこ状態。フードの奥から顔を覗かせ、袖口からちょこんと指先だけを出している。
……かわいい。これはかわいい。
景雲は口元が緩みそうになるのを、奥歯を噛んで必死に堪えた。
現代の俗語で言うところの「彼シャツ」ならぬ「彼コート」とでもいうのか、己が着ていた大きめの衣服を、意中の女が着ているという破壊的な視覚効果、すなわちパッション、熱い萌えのようなものが彼の理性を激しく揺さぶった。
さらには「その頬を両手で挟んでむにむにと揉みしだきたい」という衝動がこみ上げてきたが、そこはぐっと耐え、己の煩悩を封じ込めた。
その日から、景雲は外套を着た凜華を連れて夜の散歩に出たり、長楽殿の庭で火を焚いて芋や肉を焼いたりと、デートのようなことをして楽しむようになった。
その夜、長楽殿の裏庭には、石灯籠の傍らに大きな火鉢が据えられていた。
赤々と熾る炭火の網の上には、大ぶりの甘藷(さつまいも)や塩だれにつけた肉、乾酪などが乗せられている。冬の夜のBBQである。李元たちが時折、食材や温かい飲み物を持ってくる。
二人はお揃いの外套に身を包み、並んで火鉢にあたった。
甘く焦げる芋の匂いが、冬の乾燥した空気に溶けていく。
丸っこい姿のまま、両手で焼き芋を持ってハフハフと頬張る凜華の鼻の頭には、少しだけ煤がついている。
「ふーっ、ふーっ……あっつ! 甘くてホクホクしていて美味しいね」
「……」
景雲は、もはや声を発することすら放棄し、手元の串に刺さった肉を焦げるまで炙りながら、ただひたすらに隣の「モコモコした生き物」を視界の端で愛でていた。
天下の政務の重圧など、彼女の愛らしさの前では塵芥に等しかった。
焼き芋が胃袋に収まり、熱い薬草茶で一息ついた頃。
薬用酒のお湯割りをちびちび飲んでいた景雲が、ふと思い出したように口を開いた。
「実はな、冬に入ってから、長楽殿の裏庭に奇妙な『客』が棲みついている」
「客? 刺客じゃなくて?」
「突然物騒にするな。客といっても人間ではない。北方の山岳地帯、銀玲山脈のあたりに棲まうという『絨団猫』だ」
「絨毯の猫?」
凜華が首を傾げると、景雲は大真面目にその形を手で示した。彼は皇帝業十二年目の無趣味な男であるが、実は動物がけっこう好きだった。
「ああ。やたらと丸っこくて、足が短く、耳が横に寝ていて……とにかく全身が毛深く、絨毯の塊が歩いているような猫だ。どういうわけか平地に降りてきて宮城に住み着いてしまったらしい」
その特徴を聞いて、凜華の脳裏に一つの動物の姿が浮かんだ。
「足が短くて耳が低い位置にあり、極寒の山岳地帯に棲むモフモフ……『マヌルネコ』かな?」
「マヌルネコとも言うのか? 不機嫌そうな面構えが妙に愛らしくてな。見かけると肉や魚をやっているのだが……今、宮女たちの間であの猫が『氷の妖術を使うあやかし』と恐れられているのだ」
景雲の顔に、少しばかり困惑が浮かんだ。




