第141話 水時計と時間操作のアリバイ崩し<五>
木精(メタノール)と水が引き工程の時間の遅延トリック。その全貌を目の当たりにした景雲は、神妙な顔で言った。
「見事な論証だ。……刑部にこの話を説明させるより、お前を連れていった方が早いな」
「データを揃えたら、次は現場での最終確認よ」
景雲は凜華を伴い、すぐさま外廷にある吏部の宿直室へ足を運んだ。
夜の帳が下り始めた外廷。皇帝の突然の来訪に、宿直室にいた文官たちは書類を放り出し、恐縮しながら出迎えた。
「へ、陛下! このようなむさ苦しき場に、何ごとあっての御成りでしょうか……」
平伏する文官たちをよそに、凜華は気負うことなく、興味深げに室内をぐるぐると調べて回った。
冷え込みが厳しい外とは打って変わり、宿直室の中は上着がいらないほどに暖まっていた。
凜華は部屋の隅にある焚き口と、一段高くなった床に目を留め、手のひらを床に押し当てた。
「ここは床下に熱い空気を循環させる暖房装置『炕』が夜通し焚かれているのね。室温は常に一定。完璧な温床……」
凜華は立ち上がると、満足そうに言った。
「季節性と言うのは大袈裟だけど、冬にしかできない犯罪とトリックね」
室内にさらに人が入って来た。獄舎に留め置かれていた張憲が、後ろ手に縛られた状態で部屋の中央へ引き据えられる。
凜華は彼に向かって言った。
「張憲さん、あなたが仕組んだ時間のからくりは、私たちが壺天閣で行った実験によって解明されたわ」
同僚の文官たちが息を呑んで見守る中、張憲は平然としたまま言った。
「何のことでしょうか。私にはさっぱり……」
「事件のあった日の夕刻、あなたは入手しておいた木精を水と最適な比率で混ぜ合わせ、宿直室の公用漏刻に流し込んでおいた。あなたは、戌の正刻に自分は宿直室にいたというアリバイ、現場不在証明を作る必要があった」
張憲の肩がピクリと震えた。
「木精を混ぜた漏刻の水は、強い水素結合によって高粘度となり極端に落ちるのが遅くなる。あなたが犯行を終え、悠々と宿直室に戻ってきたとき、現実の時間はすでに戌の正刻を回っていた。でも、強烈なブレーキがかかった宿直室の時計は、まだ酉の刻(午後六時頃)を指していた」
凜華は一歩、張憲へと近づいた。
「亥の刻(午後十時頃)を回った頃。遅れに遅れた漏刻が、ようやく戌の正刻(午後八時)に到達したわ。同僚の文官たちは、時計の目盛りを見てあなたと一緒に夜食を食べた。誰も時計が遅れているなんて思わない。今は冬で日照時間が短く、夕方頃から真っ暗なのだから。こうして、あなたの狙い通りにアリバイが完成したのよ」
張憲が色をなして叫ぶ。
「そんなのはおかしい。時計が遅れていたなら、夜が明けて朝になった時点で気づくはずではないか」
凜華は呆れたように小首を傾げた。
「というか、もしあなたが木精を部屋に放置したなら、朝気づく以前に部屋にいる全員がどうにかなっていたでしょうね」
凜華は冷静に言い放ち、足元の床――炕をトントンと踵で叩いた。
「炕の熱によって気化した木精が室内に充満すれば、吸い込んだ人間は急性中毒で倒れてしまう。そんな危険は冒せない。あなたは夜食の後、同僚たちが時計から離れた隙を狙って、漏刻の中身をこっそり『真水』へと入れ替えたのよ」
「そ、そんなことは……!」
張憲の顔から、完全に血の気が引いた。
「中身を入れ替えれば、朝に向けて漏刻は元の正しい滴下スピードを取り戻す。朝になって時計が遅れているのが発覚しても『夜警の誰かが水をこぼしたか管理を怠った』と他人の過失に見せかけることができる。あなたは証拠を隠滅したつもりでしょうけど、木精は青銅の底に強く吸着する性質がある。数滴でも残留成分があれば、実験は可能なのよ」
「う、嘘だ……。しょ、証拠は……」
「あるわよ。実験は陛下を始めとして、目撃者が複数人いるし。どう足掻いてもあなたの負け」
「違う。違う。私は……うああああああ――ッ!」
張憲は、床に頭を激しく打ちつけた。
それから、自らの罪をむせび泣きながら告白し始めた。
派閥の長から命令され、小金と出世の誘惑に負けて書類をすり替えたという、まことに矮小な動機であった。上長も日を跨がずに逮捕されるだろう。
「連れて行け。二度と宮廷の土を踏ませるな」
景雲の一言により、張憲は役人たちの手によって連行されていった。
再び戻って来た壺天閣。
研究室は、火鉢で燃える炭火の赤光と、窓から差し込む白い月光に照らされていた。
卓上に置かれた漏刻は何事もなかったかのように、正しい時間を刻み続けている。
「こんなにも時間操作が簡単にできてしまうとはな」
景雲は水時計を見つめ、感慨に満ちた声を漏らした。
「流体である以上、環境に左右されるのは仕方ないね。太陽が出ていないと使い物にならない日時計よりは全然ましだよ」凜華が飄々と答える。
「凜華。お前は私が贈ったこの漏刻を、これ以上ないほど価値ある形で使ってくれた。でかしたぞ。くれてやった甲斐があったというものだ」
凜華はきまり悪そうに視線を逸らし、それから微笑を浮かべた。
「謎が解けたのは陛下のおかげね。あなたが壺天閣に水時計を置いてくれなければ、宿直室のトリックには気づかなかったかも。水時計には馴染みがなかったし」
「そうか」
景雲は優しく目を細め、凜華との距離を一歩だけ縮めた。
二人の間に心地よい沈黙が流れる。パチリと炭火が爆ぜ、規則正しい澄んだ水音が辺りに響く。
今宵は少しだけ空気が甘い。なんだかちょっぴりいい雰囲気な二人であった。
軒先に吊るされた瓢箪が、夜風に吹かれてカラカラと鳴った。




