第140話 水時計と時間操作のアリバイ崩し<四>
「凜華よ、木精が漏刻に入れられていたことは還元反応でわかった。だが、具体的に宿直室の時計がどう狂ったのかは、この目で見てみないことには信じがたい」
景雲の要望に、凜華も考えた。
「そうね。科学というものは厳然たる実証データがあって初めて真実となる。では、陛下にもらった漏刻を使って、犯人が行った『時間の魔術』を再現します」
凜華は、景雲から贈られた二重構造の青銅製漏刻を卓の中央に据え置き、その前に三つの水が入った桶を置いた。寿寿が酒と木精が入った椀を持ってくる。
木精は尚方監から分けてもらったものだ。
メタノールは猛毒だが、天然樹脂やラッカー(漆に近いもの)を溶かし、美しい艶を出すための「希釈剤」として不可欠である。金属の仕上げ洗浄を行う際、表面の油分を除去する強力な脱脂剤(洗浄剤)としても使われる。表面の油分を完全に除去しないと、金銀の鍍金や彫金の質が落ちてしまうのだ。そのため、尚方監には木精が常備されている。
凜華は、桶の二番目に酒、三番目に木精を入れた。見たところ、桶に入っているのはどれも等しく無色透明な水にしか見えない。
「……よし。寿寿、まずは第一の実験、基準点となる『ただの水』を漏刻の給水壺に投入して」
「はいっ」
寿寿が第一の桶に入った水を、漏刻の上部タンクへ注ぎ込む。凜華はすぐさま、下のタンクに浮かぶ目盛り「箭」の位置を確認し、滴下数を数えながら、正確な秒単位の計測を開始した。青銅の細いノズルから、規則正しいリズムで水滴が落ちていく。
ピチャン、ピチャンと静まり返った部屋に響くその音は、一定の周期を刻んでいた。純粋な水分子は、その高い表面張力によってノズルの先端で均一な球体の雫を形成し、自重が限界に達した瞬間に正確にちぎれ落ちる。
下のタンクの水位は一定の速度で上昇し、高密度の白檀で作られた浮子が、一分の狂いもなく、箭の目盛りを静かにせり上げていく。
「うん、さすがは特製品。ただの水であれば、一厘(約九秒)の狂いもなく正確な時間を刻むわね。これがすべての基準よ。……では寿寿、一度水を抜いて、第二の桶『酒を混ぜた水』を投入して」
給水壺の底の弁が抜かれ、手際よく空にされると、今度は宮廷で冬場に使われる「凍結防止の酒水」がなみなみと注ぎ込まれた。再び滴下が始まる。その音を聞いた瞬間、景雲の耳にも明らかな変化が感じ取れた。先ほどまで軽快だった滴下音が、どこか重く間伸びした響きに変わったのだ。
「水滴の落ちる間隔が、先ほどよりも遅くなっているな」
景雲が指摘すると、凜華は満足げに頷いた。
「その通り。酒を水に混ぜると、水分子とアルコール分子が互いに結びつき、液体全体の『粘性』つまり、目に見えないドロリとした粘り気が出る。分子同士が手を繋ぎ合って、細い穴を通り抜けるのを互いに邪魔し合う。小さな穴から流れ落ちる際、この粘り気がブレーキとなって摩擦を生み、滴下速度が平時よりも遅くなる。だから冬場に酒を混ぜた水時計は、少しだけ時間が遅れがちになるのよね。液体の温度や配合比率によって、その遅延幅は厳密に変化するわ」
「酒を入れた時点で時間はずれてゆくのか。肉眼ではただの水にしか見えぬというのに……」
「さあ、ここからが本番よ。第三の桶『木精を混ぜた水』を投入して」
寿寿が慎重に、あの目を刺すような不気味な臭いを放つ混合液を注ぎ込んだ。次の瞬間、滴下のリズムは驚くほど鈍くなった。一滴が落ちてから、次の雫がノズルの先端に膨らみ、重力に負けて落下するまでに、気の遠くなるような「間」が生じる。
「……遅い! 先ほどの酒水よりもさらに際立って遅いではないか。これでは時計の役目を果たさぬ」
景雲は驚きを隠せない。凜華は、劇的な変化を楽しむように目を輝かせて解説を始めた。
「これが、水と木精が混ざり合った時に起きる『水素結合』の恐るべき力よ。メタノールはエタノールよりも分子のサイズがさらに小さくて軽いの。そのため、水分子の隙間に狂いなく完璧に入り込んで、信じられないほど強固で高密度な水素結合のネットワークを形成してしまう。水と木精を混ぜ合わせると、液体全体の粘性が最大化し、見た目はサラサラの水のように見えても、内部では驚くほどドロリとした高粘度の流体に変質してしまっている」
「木精のみだと、逆に速くなると言ったな。どのくらい速くなるのだ。倍速か?」
「そこまで劇的じゃない。せいぜい一・三倍から一・四倍……三割から四割増しってところね」
「なんだ、それほどでもないな」
「ここが物理法則の面白い引っかけなのよ」
凜華は青銅のノズルを指先でトントンと叩いた。
「木精は水より低粘度な代わりに水よりも軽い。要するに低密度なの。漏刻は重力で液体を下へ引っ張る装置だから、液体自体が軽いと、下に落ちようとする力そのものが弱まってしまう。『サラサラだから進みやすい』というプラス要因を『軽いから下に引っ張られにくい』というマイナス要因が引っ張るせいで、加速は三、四割増しに落ち着くのよ」
景雲はほう、と感心したように息を漏らした。
「しかも厄介なことに木精は『表面張力』が水の三分の一しかないから、水みたいな大きな雫を作れず、細かい粒になってチロチロと忙しなく落ちるの。パッと見たら『うわっ、三倍くらいの速さで落ちてる!』って錯覚するんだけど、実際に下の壺に溜まる体積のペースを測ると、一・三倍にしかなっていないという視覚の罠つきね」
「落ちる雫の『数』と、溜まる『量』は同じではないのだな」
「その通り。だから犯人は、木精と水の混合液を使ったの。三、四割程度の加速じゃ、狙った時刻との大きなズレを作るのに何時間も前から仕込まなきゃいけないから。犯人はあえて『水』を介在させた。水素結合によって液体全体の粘度を跳ね上がらせ、時計の歩みを劇的に遅らせるという、もっとも効率のいい仕掛けを選んだのよ。宿直室の環境温度における粘度変化まで完璧に把握した上でね」
「……敵ながらたいしたものだ」
景雲は深く息を吐き、卓上の漏刻を見つめた。
「時計の進みを遅らせることで、現実の時間を先食いしたわけか。文官たちは、自分たちの目が時計の『戌の正刻』を確認したからこそ、その瞬間に張憲が目の前にいたと確信した。彼らが信じた時間そのものが、木精という見えない魔術によって、後ろへ歪められていたのだな」




