第139話 水時計と時間操作のアリバイ崩し<三>
景雲は恐る恐る匂いを嗅いだ。
「うおっ!」
思わず叫び、激しく咳き込んだ。
米や麦を発酵させた酒が持つ、芳醇で甘い香りは微塵もない。鼻の粘膜を刃物で削り取るような、あるいは目がチカチカするような、ツンとした「揮発臭」であった。
「な、なんだこの臭いは……! これが酒だと? いや、酒のような気配はあるが、もっとこう……不気味で有害そうな……」
「そう。この漏刻に入っていたのは、酒と水の混合液ではないわ。酒とは似て非なる別のものが混入されている」
凜華の瞳に、理知的な化学の光が宿る。
「犯人が使った妖術の正体が見えてきた。さあ、実験の始まり始まり」
作業台の上には、漏刻から回収された謎の液体が入った浅い陶器の皿が置かれた。寿寿が炭火の入った火鉢を持ってきて、作業台の傍に置いた。
「さて、これから行うのは、この液体の中に含まれているアルコール類の種類を特定するためのテストよ」
凜華は、棚から一本の「細い銅線」を取り出した。銅線は銅特有の美しい赤褐色の輝きを放っている。
「よく見ていてね」
凜華はトングで銅線を掴むと、火鉢の真っ赤な炭火の中に突っ込んだ。
シューッというかすかな音と共に、炎に炙られた銅線はみるみるうちにその輝きを失い、表面がドス黒い煤のようなものに覆われていく。数分もすると、赤褐色だった銅線は真っ黒な金属の塊に変貌してしまった。
「ああ、黒こげになってしまったではないか」
景雲が残念そうに呟く。
「これは焦げたわけじゃないわ。空気中の酸素と銅が熱によって激しく結びつき、『酸化銅』という別の物質に変化したのよ」
凜華は、真っ黒になった酸化銅のワイヤーを引き上げると、その熱が逃げないうちにすぐさま回収した液体へ突き入れた。
ジュオオという激しい音と共に、液体から白煙が立ち上った。
白煙が晴れた直後、陶器の皿から引き上げられた銅線を見て、景雲と寿寿は同時に「あっ!」と驚きの声を上げた。
真っ黒だったはずの銅線が、液体に浸かった部分だけ、元の美しい赤褐色の輝きを取り戻していたのである。
「見事な『還元反応』でしょ」
凜華が自慢げに胸を張った次の瞬間。
「うわっ? な、なんだこの匂いは!」
「けほっ! けほっ! 凜華さん、目が……目が痛いです」
研究室に充満した強烈な刺激臭に、景雲と寿寿は鼻と口を覆い、涙目になって後ずさった。
「あっ、いけない。換気換気! あ、ちょっと吸ったくらいなら大丈夫だから」
凜華は窓を開け放ちながら、慌てて言った。
「これが答えよ、陛下。もしこの液体が酒、ただのエタノールなら、酸化銅の酸素を奪って還元させた際に『アセトアルデヒド』という物質に変わるの。林檎が腐ったような甘酸っぱい匂いか、二日酔いの時のような酒臭い匂いになるはず」
凜華は、陶器の皿を指差した。
「でも、今あなたたちが嗅いだのは、そんな生易しい匂いじゃなかった。目を刺し、粘膜を焼くような強烈な刺激臭、これは『ホルムアルデヒド』の匂い。この液体が酒ではなく『木精』であることを決定的に証明している」
「木精……? 初めて聞く名だな」
景雲が涙を拭いながら尋ねる。
「メタノールよ。普通の酒は穀物を発酵させて作るけれど、この木精は違う。炭焼き職人が木材を密閉して蒸し焼きにする時に出る強烈な煙。あれを冷やして集めた『木酢液』から、さらに不純物を取り除いて精製される極めて有害なアルコールの一種。飲めば目を潰し、命を奪う猛毒でもあるわ」
凜華の説明に、研究室の空気が一気に冷え込んだ。
「毒液なのか?」
「うん」景雲の問いに、凜華はあっさり頷いた。
「つまり、犯人は凍結防止の酒の代わりに、猛毒である木精を漏刻に混入した?」
「その通り」
凜華は、赤褐色に戻った銅線をいじりながら続けた。
「なぜそんな危険なものをわざわざ入れたのか。酒も木精も見た目は同じで透明。でも、水と混ざり合った時に起きる『決定的な化学変化』があるの」
凜華の瞳が悪戯っぽく輝いた。
「ミクロの世界の話よ。水分子と木精の分子が出会うと、お互いにガッチリと手をつなぎ合って、離れなくなってしまうの。これを『水素結合』っていうわ」
「手をつなぐ……?」
景雲が眉をひそめた。
「それが時計とどう関係するのだ?」
「大ありよ。分子同士が強く結びついた液体は、全体が目に見えないレベルで『ドロリとした高粘度』……つまり、ネバネバした状態に変質するの。普通の水ならそのまま流れる細いノズルの穴も、手をつなぎ合って巨大化した分子の集団は、内部で強いブレーキがかかってスムーズに通れなくなる」
景雲の目がハッと見開かれた。
「穴を通りにくくなる……ということは、水滴が落ちる速度は遅くなるのか!」
「そう。しかも面白いことにね、もし木精を水と混ぜずに『原液のまま』投入していたら、木精は水よりずっとサラサラだから、時計は逆に加速していたはず。……でも犯人は、あえてそこに水を介在させた。水との結合を利用して液体に強烈なブレーキをかけ、滴下速度を平時よりもずっと『遅く』仕立て上げたの」
凜華は水時計を指差し、冷徹に宣言した。
「水素結合によって内部からブレーキをかけられた漏刻は、時間が経てば経つほど普通の時計よりも時間が遅れていく。犯人はあらかじめ木精を時計の水に混入し、犯行を終えた後、宿直室に戻って同僚たちと夜食を囲んだ。遅れて進むこの漏刻が、狙い通りに『戌の正刻』を指し示した瞬間にね」
木精という化学物質の分子結合を利用し、大勢の人間の「時間感覚」そのものを狂わせるタイム・トリック。
人間の悪知恵と、科学の冷徹な法則が交差した事件の核心が、還元反応によって白日の下に晒されたのである。




