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宸眷薬師の異世界調剤事件簿 ~ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない~   作者: kiyoaki
第二部 広がる世界、複雑化する事件

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第138話 水時計と時間操作のアリバイ崩し<二>

 暗く湿った空気が澱む刑部の尋問室。

 壁には赤黒い染みがこびりつき、過去の罪人たちを苦しめた拷問器具が吊るされ、鈍い光を放っている。

 尋問官は、吏部の文官たちを一人ずつこの部屋へ呼び出し、木の机を激しく叩きながら「張憲を庇い、偽証をすれば反逆罪で首を飛ばすぞ」と容赦ない恫喝を加えた。


 しかし、尋問された文官たちは威嚇に震え上がるどころか、みな一様に呆れたような顔をして言った。

「間違いありません。先日の戌の正刻、張憲殿は確かに我々と一緒に宿直室にいました。夜食の干し肉や饅頭を火鉢で炙り、漬物や白湯と食べました。火をがんがん焚いて室内は暑いくらいでしたが、焼き饅頭は冬の醍醐味ですしね」

「なぜ時間がわかるのか、ですか? 我々吏部の人間は時間に厳しいのです。宿直室には漏刻が置かれており、我々は毎晩、漏刻の目盛りがピタリと『戌の正刻』を指すと全員で夜食をとるという決まりになっています」

「当番の者が漏刻を確認し、『戌の正刻です』と声をかけました。その時、私の真正面の席には、間違いなく張憲殿が座っておられました。嘘だと思うなら、他の者にも聞いてみてください」


 十数名の文官たちが、一人の例外もなく、全く同じ証言をしたのである。尋問官は供述の矛盾を突こうと、座っていた位置や食べていた夜食の具材、交わした会話の内容まで執拗に問い詰めたが、彼らの証言は寸分の狂いもなく一致していた。しかも彼らは、派閥も出身地も年齢もバラバラであり、張憲をかばって共に罪に問われるような義理のある者たちではない。全員を買収し、口裏を合わせることは不可能に近い。


「ば、馬鹿な……」

 尋問官は頭を抱えた。彼は自らの足と刑部の捜査官たちを使って、犯行現場である公文書保管庫から、彼らが夜食をとった宿直室までの距離を実際に走って検証させた。

 提灯の明かりを頼りに、入り組んだ宮中の回廊を全力疾走しても、片道で四半時(十五分)はかかる。文書の封蝋を丁寧に剥がし、精巧に偽造された文書とすり替え、再び封印を施す作業時間を加味すれば、往復と犯行でゆうに一時間近く消える。もし張憲が保管庫で文書をすり替えていたなら、「戌の正刻」に宿直室で仲間たちと夜食を食べることはできない。


 客観的な機械である漏刻が示した時刻。その時計を同時に確認したという十数名もの目撃証言。

 この二つの事実が組み合わさった結果、張憲のアリバイは完成してしまったのである。鍵を持っていたのは張憲しかいない。だが、張憲には物理的に犯行が不可能である。

 この矛盾する事実に、捜査は暗礁に乗り上げ、宮廷内には「幽霊が文書をすり替えたのだ」「張憲は分身の妖術を使ったに違いない」という不気味な噂すら流れ始めた。


 事件の噂が後宮の奥深く、壺天閣にまで届いたのはそれから数日後のことであった。

「ふーん。複数の人間の目と、水時計という『物理装置』が証明する完全なるアリバイか……」

 研究室に置かれた漏刻の目盛りを見つめながら、凜華は思わず笑みをこぼした。

「人間の記憶なんてものは、疲労と暗示でいくらでも書き換えられる。そして『機械』もまた絶対ではないのに」


 景雲は、いかにも疲労困憊といった体で額を押さえながら言った。

「『張憲は妖術でも使って、同時に二つの場所に存在したに違いない』などと、役人どもが真顔で上奏してくる始末だ。まったく頭が痛くなる」

 外廷を揺るがしている吏部の公文書偽造事件と、容疑者である張憲が主張する「鉄壁のアリバイ」。これを崩さない限り、解決には程遠いと景雲は考えていた。


 凜華は、手元の乳鉢で乾燥した薬根をゴリゴリとすり潰しながら、どこか楽しそうに言った。

「妖術ねえ……。私だったら、ただちに『前提条件』を疑うわ」

「前提条件、だと?」景雲が眉をひそめる。

「十数名の目撃者が嘘をついていないと仮定する。ならば、疑うべき対象はただ一つ。彼らが絶対だと信じて疑わない『時計が間違っていた』と考えるのが、最も論理的でエレガントな帰納法よ」

 凜華は乳棒を置くと、おもむろに立ち上がった。

「陛下。その宿直室にあるという漏刻を見せて。壺天閣に持ってきてくれればすぐに調べる」


 皇帝の勅命により、ほどなくして刑部の役人たちが、重そうな青銅製の巨大な漏刻を壺天閣に担ぎ込んだ。それは、宮廷の至る所に配備されている標準的な規格の二重水時計であった。

「ここに置いて。中の液体を絶対にこぼさないようにね」と凜華が指示を出し、役人たちが漏刻を床に降ろす。

 凜華はすぐさま腕をまくり、漏刻を慎重に調べ始めた。

「外装には細工された形跡はないわね。目盛りの削り直しも浮きの細工もない。至って正常な時計だわ」

 凜華は漏刻の周囲をぐるぐると回りながら、その構造を舐めるように観察した。そして、彼女の視線は上部の「給水壺」に注がれた。


「……事件当夜から、この中の水は入れ替えてないわね?」

 凜華の問いに、付き添ってきた役人が慌てて頷く。

「は、はい。事件発覚後、ただちに現場の保全を命じられましたゆえ、給水壺には当日入っていた水が残ったままになっております。凍結を防ぐために、水には酒を混ぜるのが慣例となっておりますが……」

「酒、ね」

 凜華は踏み台に乗り、給水壺の縁に顔を近づけた。

 底に溜まった残液に向かって、手で風を送るようにして慎重に匂いを嗅いだ。

 鼻孔を膨らませた直後、凜華の眉間にシワが刻まれた。

「んん?」

 彼女は顔をしかめて壺から身を引くと、部屋の隅に控えていた寿寿に言った。

「寿寿、細い竹の管と瓶を持ってきて。底の液体を回収するわ」

「はい、今すぐ!」


 ただちに回収された液体を、凜華はじっと見つめた。一見すると、何の変哲もない水である。

「どうした、凜華。何かわかったのか?」

 景雲が背後から覗き込む。凜華は首だけ振り返って言った。

「陛下。先日私に水時計をくれた時、『凍結防止のために酒を混ぜるといい』と言ったよね」

「ああ。強い酒精を混ぜれば氷点下でも凍らないそうだ」

「それは正しいんだけど。でも、陛下……」

 凜華は、持っていた瓶を景雲の鼻先に突きつけた。

「この液体からお酒の匂い、する?」


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