第137話 水時計と時間操作のアリバイ崩し<一>
さて、人類が発明した時間を測る仕掛けといえば、太陽の影を追う日時計に始まり、香の尽きる長さを測る火時計(香盤時計)、砂の落下を利用した砂時計、そして今回登場する水の滴りを利用した漏刻(水時計)などがあるが、いずれも「自然界の一定の規則性」を頼りにしている点で共通している。
しかしながら、日時計は太陽が出ていなければ役に立たず、火時計は風が吹けば燃焼速度が狂い、水時計に至っては冬の到来とともにカチコチに凍りついて機能停止してしまうという、自然の気まぐれに振り回される脆弱な代物でもある。だからこそ物理的な弱点を逆手に取り、時間を己の都合の良いように歪曲しようと企む小賢しい悪党が出てくるのである。
吐く息が白濁し、空中の水分すらも凍りつきそうな冬のある日のこと。
壺天閣に、景雲がふらりと姿を現した。彼が昼間から後宮に姿を見せるのは珍しい。
景雲の背後には、凍えるような寒気の中にあって大事そうに「青銅製の奇妙な筒」を抱えた宦官が付き従っていた。
「今日はいい天気だ。引きこもってないで外に出たらどうだ」
景雲は、研究室の薬壺や器具がぎっしりと詰まった棚を見渡しながら愉快そうに笑った。
「だって寒いもの」凜華は拗ねた子供のように言った。
「外套をやったではないか」
「あれは今仕立て直し中です」
凜華は先日もらった景雲の毛皮の外套を、染織房の女たちに預けていた。たまたま薬を貰いに来た染織女たちが、外套を見て診察代代わりに仕立て直しを引き受けてくれたのである。凜華の体型に合わせて、切り落とす生地や毛皮を縫い合わせて帽子を作るという。凜華はフード付きのコートの完成を楽しみに待っていた。
「ならばその外套が仕上がったら散歩に付き合え」
「はーい。陛下、ご機嫌麗しいのは結構ですが、私は薄荷と麻黄の抽出実験で忙しくて……」
「そう言うな。今日はお前が喜ぶものを持ってきた。壺天閣には、時間を測るものが一つも置いてないだろう。 ここへ来た際、正確な刻限を知りたい時に不便でな。『小型の漏刻』をくれてやろう」
宦官が卓の上にうやうやしく置いたのは、高さ二尺(約六十センチ)ほどの、見事な透かし彫りが施された青銅製の漏刻であった。
それは、水圧の変化によって滴下の速度が狂うのを防ぐため、三段の器を階段状に組み合わせた「多級式」と呼ばれる精緻な二重構造をしていた。
最上段の「播水壺」から注がれた水は、細い管を伝って中段の「平壺」へと滴り落ちる。この平壺の側面には余分な水を排出する溢流口が設けられており、ここから常に水が溢れ出ることで、中段の水位は常に一定に保たれる。
すなわち、最下段の「受水壺」へ注ぎ込まれる水圧が、中の水量が減っても均一に固定されるという流体力学の結晶であった。
受水壺の内部には、高密度の白檀で作られた浮子が仕込まれており、そこから垂直に立ち上がった「箭」と呼ばれる細長い銅板の目盛りが、水位の上昇とともに浮き上がってくる。時間を測定する際は、この箭に刻まれた百の目盛りを、指標の横木が指し示す位置を目視で読み取るという仕組みであった。
「……へえ」
凜華はすぐさま漏刻に近寄り、目盛りの幅と滴り落ちる水滴の体積をじっと観察し始めた。
「なるほど、溢流口で水頭圧を一定にしているのね。一日に受水壺に溜まる水の総容積から、この箭の目盛り幅を逆算するわけか……」
この世界の時間の単位は、刻単位でさらに細かく分かれている。現代の基準で計算すると、漏刻の目盛りの「一分」は現代の約一分半(九十秒)、そしてさらに細かい「一厘」は約九秒に相当する。
凜華は脳内で時計の目盛りを、前世の使い慣れた「秒針」へ変換していく。
「ということは……計算上は『目盛りの二分が浮く瞬間』が、現代の三分に合致するわけだ」
凜華は満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしいわ、陛下! これまでは、薬草を煎じる際の火加減と抽出時間を、自分の脈拍や呼吸の数で計るしかなかった。けれど、この精密な目盛りがあれば話は別。熱に弱い揮発性の薬効成分は、長時間煮沸すると完全に飛んでしまう。でも水時計の目盛りで測れば、有効成分を壊さずに薬が作れる」
「気に入ったのなら何よりだ。ちなみに漏刻は二重構造になっているが、真冬の夜は水が凍結して止まってしまう恐れがある。だから、上の段に少しばかり酒を混ぜておくといい。そうすれば氷点下でも水は凍らない」
「……エタノールによる凝固点降下ね。理にかなっているわ。素晴らしい知恵よ」
凜華は感心しながら、早速、高濃度の蒸留酒をタンクに注ぎ込んだ。
それからというもの、壺天閣からは「二分上がった! 鍋を降ろして!」という凜華の指示と「はいっ」と応じる寿寿の声が聞こえるようになった。
秒単位で時間を測ることで抽出精度が向上し、さらに薬効の上がった煎じ薬が生み出されることになった。
凜華は、漏刻を使った精密な調薬の世界へと没頭するようになった。
さて、壺天閣の薬師が「水時計」という名の便利な機械を得て歓喜に打ち震えている頃。
国家の行政を司る外廷の吏部(人事)において、宮廷の根幹を揺るがしかねない極めて重大な事件が発覚した。
春に行われる大規模な人事異動を前に、官僚たちの評価を記した極秘の「考課文書」が、何者かの手によって偽造され、保管庫の中でこっそりとすり替えられていたのである。
もしこの偽造文書がそのまま通っていれば、ある特定の派閥の者たちがこぞって要職に就き、対立派閥が軒並み左遷されるというまさにクーデターに等しい事件であった。
内部調査により、ほどなくして一人の容疑者が浮上した。
吏部の文官であり、公文書保管庫の「鍵」を管理する責任者、張憲という男である。厳重な警備が敷かれた保管庫に出入りできたのは鍵を持つ彼一人。
しかも、文書の封蝋が剥がされ、新しく偽造された形跡から、すり替えが行われた犯行時刻は夜警の交代の隙を突いた「戌の正刻(午後八時頃)」であると推定された。
刑部の尋問官は、即座に張憲を捕縛し、激しい追及を行った。ところが、牢に放り込まれた張憲は怯えるどころか、薄ら笑いを浮かべてこう主張したのである。
「私が犯人なわけがありません。すり替えがあった時間、私は吏部の『宿直室』におりました。しかも一人ではありませんよ。同僚たち十数名と卓を囲み、一緒に夜食を食べていたのです」
尋問官は鼻で笑った。身内の役人同士が口裏を合わせることなど日常茶飯事だからだ。
刑部はその場にいた同僚の文官たち十数名を個別に呼び出し、別々に尋問を行った。その結果、事態は厄介な様相を呈し始めた。




