第136話 紺青の入れ墨遺言殺人事件<九>
「いやあ、恐れ入ったぜ。お嬢ちゃん」
先ほどの狂騒が嘘のように静まり返った中庭で、隆壬は感嘆の息を漏らした。
「検死で死因を特定し、宿老の背中から財宝を探し当てちまうとはな」
「宝玉を見つけ出したのは由宇さんだよ。これは、職人の知識がないと見つけられないようになっていた。私にはわからなかったと思う」
「つっても暗号文が見つからなきゃ何も始まらなかっただろ。刑部にも、あんたみたいな切れるアタマが欲しいもんだ」
「お褒めにあずかり光栄だけど、私はただの薬師。刑部は刑部で頑張ってよ」
凜華が苦笑しながら言うと、由宇の方に視線を移した。
由宇はすでに泣き止み、手に持ったサファイアをじっと見つめている。
「由宇さん、どうしたの?」
「あ、ああ……。ちょっと困っていました。この宝石は一体どうしたもんかなと思って。割るわけにはいかないし、かといってこの大きさを生かした宝飾品は思いつかなくて。親方も、先帝に貰ったのはいいけど、おそらくは持て余していたんじゃないかと」
「んー」
凜華は顎に手を当てて、少し考えてから言った。
「王冠や王笏につけるとか? めちゃくちゃ重そうだけど」
「王笏? 杖に、ですか?」
「ああ、そういう文化はないんだね。だったら気にしないで。私の故郷にもないし」
凜華の提案は西欧風の宮廷の価値観であり、この国にはそぐわないようだった。
「手に余るなら売ってしまえばいいだろ。一生遊んで暮らせるぜ。羨ましいこった」隆壬が豪快に笑った。
由宇も釣られたように笑みを浮かべたが、首を横に振った。
「いいえ、師匠はどんな高価な褒美を賜っても工匠でいました。引退もせず、生涯現役で石を彫り続けたんです。俺もそうしようと思います」
凜華は由宇のどこか憑き物が落ちたような顔を見、声のトーンを落とした。
「由宇さんは本当に何も知らなかったの? あなたも控室にいたんでしょ。宿老と郭誠さんが二人きりだった時もあったのに何も言わなかった。もしかして……郭誠さんを庇ってた?」
「あの時、俺は奥の部屋にいたんです。郭誠さんが入ってきて親方に話があるからと席を外すように言われて。俺は外に出て、しばらくぶらぶらしていました。戻ったら、親方は謁見の間に行った後で、その後はご存知の通りです。毒針に刺されたと聞いてまさかと思ったけど、他に出入りしていた者もいるし、証拠もなく兄弟子を疑うのはどうかと……」
「宿老の遺言のことも?」
「……それは」と由宇は声を詰まらせ、迷うような素振りを見せた。つかえていた胸の石を吐き出すかのように、大きく息を吐いた。
「以前、親方に言われたことがあります。『由宇、わしが死んだら、海藻を焼き尽くした灰のその上澄み水を取れ。そこに鉄の赤錆と古酢を混ぜて背中に塗るがよい』と。お酒が入っていたので、酔った上での戯言だと思っていました。まさか背中の暗号文のこととは夢にも思わず……」
「ヨウ素の作り方を教えてたんだ。つまり、郭誠さんに与えられたヒントとあなたに与えられたヒントを合わせれば暗号文は見つかるようになっていた……」
「結局、俺が郭誠さんを追いつめるような形になってしまいました」
うなだれる由宇に、隆壬が無念そうに顔をしかめた。
「気にすんなよ。馬鹿が勝手な思い込みで自滅しただけなんだからよ。職人として最高位を極めたのに、息子に殺された郭の旦那の方がよっぽど気の毒だ」
「宿老のことは残念だけど、これからはあなたが尚方監の彫り師として頑張らないとね」凜華も由宇を励ました。
「はい、凜華さま。師匠の名を辱めぬよう、一生を賭けて技を磨きます」
由宇は袖口で目のあたりを乱暴に拭った。
受け継いだ原石と遺言状を胸に抱きしめ、深く頭を下げた。
その夜、清心殿の皇帝の私室。
凜華は居間で、長椅子に横たわった景雲に尚方監で起きた事件の顛末を事細かに報告した。
幻覚作用のある毒を用いた郭誠の短絡的な犯行、ヨウ素デンプン反応によって死者の背中に浮かび上がった極秘の暗号文、色彩符丁を利用した古井戸の精巧なからくり、井戸の側面に隠されていた極大のサファイアと本物の遺言状……。
磨き上げられた黒檀の床には、月明かりが四角く切り取られて落ち、卓に置かれた燭台の炎が部屋の主に深い陰影を作っている。
すべてを聞き終えた景雲は、長い睫毛をしばたかせ、切なげにため息をついた。
「皮肉なものだな。毒殺されたがゆえに背中の暗号文が見つかり、宝玉を探し当てられたとは」
「うん。宿老は自分の死後、息子と弟子が力を合わせて謎解きをすることを望んでいたんだろうけど。そうはならなかったね」
凜華が残念そうに呟くと、扉が静かに開いた。
「陛下、凜華殿。失礼いたします」
李元が、うやうやしく一礼して入室してきた。
彼の手には、郭宗が今際の際に景雲に捧げた青翡翠の香炉が捧げられている。
机の上に香炉を置くと、蓋の隙間から、一筋の白い煙が真っ直ぐに立ち上った。
「李元さん、これは……?」
「死者を弔う鎮魂香でございます。白檀に少量の沈香と丁子を合わせて調合いたしました。郭翁の功績を偲び、陛下のご下命にて用意したものです」
李元が退室すると、再び二人きりとなった。
凜華と景雲はしばらくの間、立ちのぼる幽玄な香を聞いた。
甘く、どこか湿った土の匂いを思わせる香気が、肺の奥深くまで染み渡り、ざわついていた心をゆっくりと鎮めていく。
「これは、宿老の遺作になってしまったね」
凜華は香炉を見つめながら、寂しそうに言った。
「やりきれない事件だったけれど、古井戸のからくりを見た時の感動は忘れられないわ。光のモザイクみたいな壁から、蓮の花の色をした石を引き出したら、奥からさらにきれいなサファイアが出てきたの。本当に美しかった。宿老が生きていれば、また素晴らしい作品を作り出しただろうにね」
景雲は香炉から視線を外し、どこか遠くの、決して手の届かない過去を見るような暗い瞳をした。
「ああ。折角生きのびられたのにな」
景雲の口から出た不穏な言葉に、凜華はハッとした。
「生きのびたっていうのは……?」
問い返す凜華に対し、景雲は沈黙した。やがて彼は、意を決したように口を開いた。
「以前、お前に尚方監で軟銀に沈んだ『黒蝋玉印』を拾わせたことがあっただろう」
「うん。先帝が作らせた皇位を証明する印でしょ」
「あの玉印の制作に関わった職人たちは……仕事が終わった後、みな死ぬか行方不明になった。おそらくは……父帝が連れていったのだろう」
「それって、まさか……殺したってこと?」
凜華の声がかすかに上擦った。景雲は苦い顔をしながらも慎重に言葉を選ぶ。
「全員が殺されたのかどうかはわからん。表向きは『皇帝への忠義の証に殉死した』ことになっているしな。廷臣の殉死は名誉なことゆえ、遺族には多額の弔慰金が支払われる。殉死と金は、玉印の構造を漏らさぬための最も確実な口封じだ」
玉印を作った職人たちへの報酬は、名誉という名の賜死だった。権力者の振るう鉈のあまりの冷酷さに、凜華は背筋が寒くなるのを感じた。
「……父は、玉印制作に郭宗を関わらせなかった」
景雲は目を閉じ、どこか羨むように口元を歪めた。
「冷酷無比な父帝でさえ、郭宗の圧倒的な才能は惜しんだのだろう。妻にも子にも一切容赦しなかったあの父がな……」
先帝の恩赦により死を免れ、その後も数々の芸術品を生み出し続けた郭宗。彼の最期は粛清でなく、老衰や病でもなく、背中に毒を打ち込まれるという悲惨なものだった。
「皇帝でさえ見逃した命を、一番近しい息子に奪われるとは……」
景雲の呟きは、怒りというよりも、人間の業の深さと愚かさに対する深い嘆きに満ちていた。
「浮かばれて欲しいね」凜華が祈るように言った。
青翡翠の香炉からゆらゆらと煙が上がる。
美と技巧を追い求め続けた宿老の魂を、白き龍が天へ導いてゆくかのような、厳粛な香煙が部屋に満ちていった。




