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宸眷薬師の異世界調剤事件簿 ~ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない~   作者: kiyoaki
第二部 広がる世界、複雑化する事件

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第134話 紺青の入れ墨遺言殺人事件<七>

 レンガに刻まれた鏨の傷。

 それは、幾重にも重なる「蓮華の花」の模様だった。

「蓮だ。ここに極小の蓮が彫られている……!」

 由宇は壁を這うようにして、蓮の模様を凝視した。

 息を殺し、震える指先で極小の花びらを一つ一つ数え始めた。

「……二十四。蓮華の花びらは二十四枚……」

 彼は立ち上がると後ろを振り返り、中庭の中央に鎮座する古井戸を見つめた。


 夜の闇の中では、ごつごつとした醜悪な怪物のようだった井戸は、今は清冽な朝日を浴びて、神々しいオブジェに変貌していた。

 表面に埋め込まれた無数の色石、石と石の隙間を幾何学的に埋めるニッケルや銅の金属板が、朝の光をプリズムのように乱反射している。自ら発光するかのように輝き、中庭の空間そのものを万華鏡の内部のように彩っていた。


「そうか、そういうことだったのか、親方!」

 燦然と輝く光の立体モザイクを前に、由宇の声は確信めいたものになった。

「これは……色の識別番号だ。親方が作った独自の『色彩符丁(しきさいふちょう)』を見ればわかるはず。確か二十四番は……階調式の爪紅(つまべに)色だ!」

 由宇は郭宗の工房へ駆けこんだ。棚の奥から色の見本――何十色もの美しい顔料が塗られた石板、カラーコードを持って戻ってきた。そして彼は、朝陽に照らされた古井戸に駆け寄り、その側壁に張り付いた。


「蓮は泥中から生じ、天に向かって咲く。本当の仕掛けは井戸の底ではなく、光を浴びる外壁の装飾にあったんだ」

 由宇は手にした石板の色見本とにらめっこをしながら、爪紅色の石を探した。側壁に散りばめられた赤い装飾石に触れ、顔を近づけて一つ一つ照合していく。

 ひと口に赤や紅と言っても、真紅、朱色、牡丹色など赤系統の顔料だけで数十種類ある。単なる「赤い石」という認識では辿り着けない正確な目利きが要求される。

 端が深く艶やかな血のような赤色で、中心に向かって淡く薄くなっている石が視界に入ると、彼の手は止まった。石と石板を、食い入るように何度も見比べる。


「あった……!」

 見本と全く同じ色彩とグラデーションを持つ爪紅色の装飾石。

 由宇は石に触れ、指先で強く押しこんだ。分厚い石壁の奥で、カチリと何かが噛み合い、金属の歯止めが外れるような音がした。

 直後、かすかな摩擦音と共に、石が前にせり出してくる。そのまま石の縁を掴んで引き抜くと、腕が一本すっぽりと入るほどの空洞が口を開けた。

 由宇は迷わず手を入れた。裏側が長方形の「隠し引き出し」の構造になっており、中に何か入っている。引っ張り出すと、それは上質な絹布でくるまれた重たい包みだった。


「これが、親方の遺した……?」

 由宇の声が震えた。

 急いで結び目を解き、絹布を剥ぎ取った瞬間。

 井戸の近くに集まって来た全員の目が、圧倒的な青の光彩に吸い寄せられた。

 そこにあったのは、大人のこぶし大ほどもあり、鮮烈な輝きを放つ極大のサファイアの原石であった。まるで青い炎、荒れ狂う深海に潜み、今まさに天へ昇らんとする青龍のごとき覇気を放つ石は、宿老が職人の誇りをかけて遺すにふさわしい無代の至宝だった。


「藍宝石だ。こんな大きなものは……初めて見た」

 由宇が半ば茫然としながら呟いた。

 原石を包んでいた布には、郭宗の筆跡による「本物の遺言状」が書き綴られていた。

 由宇は布も広げて周囲に見せた。

「……読みます。『皇上より賜りし至高の藍宝石はその他のすべての財産と共に、我が技術と魂を受け継ぎ、このからくり細工を楽しめる遊び心を持つ者に譲る』」

 凜華が弾んだ声で言った。

「つまり、見つけ出した由宇さんのものってことね。すごいね。麗妃さんが持っているサファイアだって、これの四分の一の大きさもなかったよ」

「へえ、大したもんだ。本当に探し当てやがった」

 隆壬が由宇の肩を叩き、それから凜華に向かって笑ってみせた。

「お嬢ちゃん、おかげで旦那の遺志は守られたな。だが、これで終わりじゃないだろ」

「うん、もちろん」凜華は由宇が持つサファイアを見つめたまま小さな声で言った。

「気づいている? 脇のあたり」

「……ああ、昨日から妙に右袖のあたりを押さえているよな」


 次の瞬間、辺りに郭誠の怒声が響き渡った。

「ふざけるな。こんな遺言、認められるか! こんなものは偽物だ。そうだ。そうに違いない。泥棒の由宇と、そのおこぼれを狙う小娘が共謀して遺言状を捏造したに決まっている」

 郭誠の形相は尚方監の若き職人というよりは、全財産をスった哀れな博徒のそれであった。このままでは、父親の遺産はすべて由宇が相続することになる。

 まばゆい輝きを放つ宝石の原石と「本物の遺言状」を突きつけられた彼の精神は、とうに限界を迎えていた。


「どんな神業よ。どう見ても一朝一夕で作れる仕掛けじゃないでしょ」凜華が呆れたように反論するが、郭誠は尚も吠えた。

「仮に筆跡が本物だとしても、こんなものは無効だ。そうだ、遺言状なんて書けるはずがないんだ。叔父上は狂っていたんだから」

「狂っていた?」

「そうだ、叔父上は歳でボケていた。正気を失っていたんだ」

「あ? ボケたじいさんが翡翠の香炉なんか彫れるかよ。苦し紛れに適当なこと言うなよ」隆壬がたまりかねたように声を荒げる。

「違う! 俺は知っている。前からそうだったんだ。由宇が来てからはずっと。昨日も背中に打たれた毒のせいで、正気を失っていたんだ!」


 郭誠は怒りから顔を真っ赤にし、口角泡を飛ばしながら両手を激しく振り回した。

「……んんん? あーれぇ?」

 凜華の声が急に大きくなった。

「郭誠さん、今なんて言った?」

「な、何って……」

「私、遺体の検死をしたときに、試薬の反応から『アルカロイド系の植物毒が使われた』とは言ったけど『正気を失う』なんて一言も言ってないよ」

「え……?」郭誠の顔から血の気が引いていく。

「てめえ……」隆壬が、地鳴りのような凄みのある声を発し、一歩前に出た。

「なんで特定されてない毒の『正気を失う』なんて効能を知ってやがる」

「あ、いや。こんなものは薬師じゃなくても、一般的な知識だろうが!」

「えっ、何が一般的なの? 植物毒自体は山ほど種類があるけど、精神錯乱を伴うものは限られているんだよね。加えて、さっきからやけに右の袖を見ているね。そこに何か入っているの?」

「ひっ……!」


 郭誠は短い悲鳴を上げ、反射的に腕を後ろに引っ込めた。

「なぜあなたが毒の作用を知っているのか。答えは一つしかないわ。あなたが宿老の背中に、毒針を突き刺した張本人だからよ。……さあ、隆壬さん」

「おうよ。お待ちかねのお楽しみ、身体検査の時間だぜ」

 隆壬は肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべると、後ずさる郭誠の首根っこを乱暴に掴み上げた。泥で汚れた官服の懐に容赦なく手を突っ込んだ。



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