第132話 紺青の入れ墨遺言殺人事件<五>
「これは一体なんだ。青いのも毒の反応なのか?」
隆壬の困惑した問いかけに、凜華は首を横に振った。
「赤いのが毒の反応。青は違うものよ」
凜華は指先で、紺青に変色した郭宗の皮膚をなぞった。
背中に塗り広げたドラゲンドルフ試薬をじっと見つめ、一つの答えを導き出した。
「そっか……『ヨウ素』だ」
「ヨウ素、だと?」
「うん。ドラゲンドルフ試薬には、多量の『ヨウ化カリウム』……つまりヨウ素という成分が含まれているの。この青い文字や図は隠し刺青。龍が持っている宝玉内の肌には、乾くと透明か白っぽくなるデンプン質の不可視溶液、いわゆる『デンプン糊』を使って刺青が彫られていた」
「は~! 隠し刺青か。墨じゃないもので刺青を彫っていたとはな」隆壬が低く唸った。
「米や芋に含まれるデンプンは、極小の分子がらせん状の長い鎖のように連なってできている。その『らせんの隙間』の大きさが、ヨウ素の分子とぴったり一致する。デンプンのらせん構造の中に、ヨウ素分子がスポッと入り込んで結合した瞬間、物質の光の吸収率が劇的に変化して、透明だったものが深い青や紫色に発色するの。これを現代の……つまり私の故郷では『ヨウ素デンプン反応』と呼ぶわ」
「な、何がなんだかさっぱりだが……ヨウ素を使った火で炙らない『炙り出し』みたいなもんか」
「そんなかんじ。宿老は、自分の身体に特殊な化学反応を利用した文字を施したのよ。背中を見られても、みんな墨で描かれた龍の方に目が行ってしまうから、隠し文字にはまず気づかない。天才の仕業だね」
郭宗が毒で亡くなったことで、凜華が証明のためにドラゲンドルフ試薬を使い、試薬のヨウ素が偶然にも背中に施された秘密を暴いてしまったのである。
「これが、叔父上の遺言……?」
郭誠が呟き、浮かび上がった文字を食い入るように見た。
龍が抱く宝玉、その円の淵には内側に向かって等間隔に短い線が引かれている。
「十二本だな」隆壬がきっちり数えた。
「なんか時計の文字盤のようにも見えるね」
凜華が、浮かび上がった文字をたどたどしく読みあげる。
「古い井戸の……頭? 底? うーん、わかんないや」
「なんだよ、嬢ちゃん。死体の声が聞けるほど頭がいいのに、文字は読めないのかよ」隆壬が拍子抜けしたように言った。
「薬関係以外の文字は鋭意勉強中です!」そこを突かれるのは痛いのか、凜華はぷうと頬を膨らませた。
「そうかよ。どれどれ。古井の底に……ん? こいつはなんだ。どうも詩みたいだな」
「詩?」
隆壬が厳粛さを感じさせる声で、皮膚に刻まれた詩を読みあげた。
古井の底に月は宿らじ
西の壁を穿つ日影に
泥を去りて蓮の刃を立つれば
清き光のたちまち顕れん
朗読を聞いた凜華は、即座に内容を吟味する。
「『月は古井の底を照らし、影は西の壁を穿つ。泥中の蓮のみが、清らかなる光を宿さん』かな? ……何かの暗号文みたいだね」
その時であった。
「あ――っ!」
突如として郭誠が叫んだ。
「わかった、わかったぞ。詩の意味が! 『古井』とは、尚方監の『古井戸』のことだ。あの古井戸の底に、先帝から賜ったというお宝が眠っているんだ」
「尚方監、か」
隆壬は、欲に目が眩んだような郭誠を見ながら立ち上がった。
「とりあえず行ってみる価値はありそうだな」
部下や外にいる兵士たちに、尚方監へ行くことを告げる。殿内はにわかに慌ただしくなった。
「裸のまま置いて行くんじゃ宿老が可哀想だ。おい、由宇さんとやら。あんた、背中の刺青を書き写しな」
「は、はい……」
由宇は紙代わりの木板と細筆を持ってくると、背中の刺青と浮かび上がった文字を素早く写し取り始めた。
簡略しつつも龍の力強い特徴を見事に捉え、流麗な筆致で絵を再現していく。
「上手だね」
覗き込んだ凜華が感嘆すると、由宇は沈んだ声で言った。
「いえ、俺なんて全然です。親方は絵師としても一流でした。この昇龍の構図も、親方自身が描いたものだと思います。龍工匠と呼ばれたくらい龍の意匠が得意で、帝室にも重宝されたと聞きました」
「確かにめちゃくちゃ強そうだしダイナミックだ。皇帝が好みそう」
「おそらくは絵を元にして、信頼できる彫り師に彫らせたんでしょうね。でもまさかデンプンの液を用いて文字を仕込んでいたなんて……」
「由宇さんは知らなかったんだ?」
「はい、まあ……」由宇はどこかぎこちなく頷いた。
「宿老の、身体を張った最後の謎かけ……か」
凜華は背中に浮かんだ文字を見つめながら呟いた。
刺青を写し終わると、郭宗の遺体は服を着せられ、元通りに仰向けにされた。
尚方監の中庭は、乾燥した冬の夜気と、刑部の役人や近衛兵が掲げる松明が放つ赤光に照らされていた。
中庭の中央に、数十年前に水源としての役目を終え、干上がって久しい名物の「古井戸」が鎮座している。
この古井戸は、言葉から連想される石積みの円筒という素朴な風情からは甚だかけ離れた外見をしていた。
井戸というよりは、井戸の形をした珍妙な芸術品といってよかった。
尚方監は、天下の奇巧や複雑なからくり細工、さらには広大な宮廷を彩るあらゆる装飾技術が、日夜試行錯誤される工房である。
歴代の監長や腕利きの工匠たちが「ちょっとした遊び」や「新技術の実験場」として井戸の側壁に持てる限りの技を刻み込み、面を隙間なく潰していった結果、一種の怪物的な造形へ進化を遂げてしまったのである。
地上に露出した外輪には、この国や大陸全土、あるいは西域の砂漠を越えて運ばれてきた多種多様な色石がびっしりと敷き詰められている。
燃え盛る炎のような真紅の瑪瑙、深海の底を思わせる孔雀石、妖しく光を放つ紫水晶、職人たちが編み出した秘伝の釉薬が乗った陶片の数々。
それら無数の色彩の断片が、一つの巨大な抽象画を描くように、あるいは天空の未知の星座の運行を示すかのように、複雑極まりないモザイク模様を形成しているのだ。
さらに目を凝らせば、石と石の隙間を縫うようにして、特殊な酸で処理され、緑青や美しい青紫色の酸化皮膜を纏ったニッケルや銅などの金属板が、精巧な象嵌の技術によって幾重にもはめ込まれている。
朝、昼、晩と、太陽の光が差し込むたびに、ある石は光を吸収して鈍く沈み、ある金属板は鏡のように陽光を跳ね返す。井戸全体の色彩が、それ自体が呼吸する生き物であるかのように、刻一刻とその表情を変化させる。
古井戸は、悪趣味なほどに贅と技術の粋を尽くした「色彩の立体迷宮」なのだった。




