第129話 紺青の入れ墨遺言殺人事件<二>
凜華たちは、内廷と外廷を隔てる垂花門をくぐり、皇帝の執務の要衝たる清心殿へ足を踏み入れた。
殿内はすでに多くの官が退出し、ひと気がなく静まり返っている。
柱の陰や回廊の随所に、警備の兵が直立不動の姿勢で立っていた。
謁見の間は、事件を受けて近衛兵が詰めかけていた。
中央に据えられた玉座。
そこに腰を下ろした景雲の顔は心もち青ざめ、双眸は床の一点を見つめたまま微動だにしない。
景雲の視線の先には、一人の老人が仰向けに倒れていた。
血に濡れた霜枯れの髭を湛え、尚方監の最高位を示す藍色の官服を纏ったその老人こそ宿老の郭宗であった。
遺体の傍らには、彼が数年の歳月を費やして彫り上げたという香炉「雲海騰龍炉」が転がっていた。
これは白と紺青が入り混じった世にも珍しい「青翡翠」の逸品で、静寂の中で冷ややかな美しさを放っていた。
下半分は深海を思わせる濃藍、中間は激しく泡立つ波飛沫のような白と青のマーブル模様、上部へ向かうにつれ、たなびく純白の霊雲へ変化する見事な階調である。
石が持つ天然の色彩を巧みに活かし、水底から天へと駆け昇る一頭の龍が、取っ手と香炉を回り込むように透かし彫りされていた。
龍の眼には、煌めく一対の黄玉が嵌め込まれ、鋭い爪や鱗の縁には精緻極まる金象嵌が施されている。天頂の蓋には龍が掴まんと欲する宝珠の如く、まばゆい大粒の真珠が鎮座していた。今にも龍が動き出しそうな躍動感にあふれている。
「……ああ、来たか」
殿内に入ってきた凜華を視認し、景雲が声を発した。
「陛下。何が起きたの?」
凜華が歩み寄ろうとすると、兵たちが一斉に剣の柄へ手をかけた。金属の擦れる不穏な音が響く。景雲が手を上げて制した。
「見ての通りだ。郭宗がこの香炉を献上しに参った。数年間に及ぶ辛苦の結晶であると誇らしげに語った。余が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、郭宗は香炉を取り落とした。自らの喉を掻きむしり……血を吐いて倒れたのだ。ほんの数呼吸の間の出来事だった」
皇帝の御前という、神聖にして絶対的な空間で起きた事件。病死か、殺人か、あるいは皇帝を狙った暗殺の巻き添えを食ったのか。
謁見の間は騒然となり、刑部や近衛兵が次々と招集される事態となった。
「驚きはしたが、お前を呼んでいたことを思い出してな。どのみち今夜は立て込んでおり、内廷には行けそうにない。郭宗は一介の工匠とはいえ、先帝の覚えもめでたく、長年朝廷に仕えてきた功労者だ。これの死因を調べてやってくれ。病死なら病死でいい」
沈痛な面持ちで告げると、景雲は立ち上がった。
別室で謁見を続ける旨を告げると、兵士たちを従えて部屋を出て行った。その後を李元が慌てて追いかける。
残された凜華は薬箱を抱えたまま、郭宗の物言わぬ遺体、傍に転がったままの香炉をじっと見つめた。
郭宗の遺体は、謁見の間に直通する離れに運ばれた。
ここには、皇帝への謁見を求める者たちが集う控室がずらりと並んでいる。貴賤関係なく目通りを願う者は多いが、皇帝に会うことはまず不可能であり、大抵は下の者が対応し処理してしまう。
謁見の申請が受理されても、数日から数週間待たされることもザラである。地方から来た者は、宮城の外に宿を取ったり親族の家に滞在したりして呼び出しを待つが、数日程度なら控室に泊まることもできた。ゆえに寝具や食べ物を持ち込んで待機する者も多い。
建物の周囲は、すでに刑部によって非常線が張られており、蟻の子一匹通さない厳粛な空気が漂っている。
夜の静寂の中、壁に沿って掲げられた松明の炎が、パチパチと乾いた音を立てて爆ぜた。
凜華が離れに足を踏み入れようとしたその時。
目の前に太く逞しい腕がニュッと突き出された。
「おいおい、お嬢ちゃん。ここは子供が入っていいような場所じゃない。大人しくおうちに帰ってお人形遊びでもしてな」
そう言い放ったのは、たまたま近くにいて一足早く現場に駆けつけた捕頭であった。
歳は三十路くらいだろうか。上背はそれほどでもないが鍛え上げられた体躯に、無精髭を蓄えたいかつい容貌をしている。
官服の隙間から覗く肌は黒く日焼けしており、全身からは修羅場をくぐり抜けてきた者だけが纏う武骨なオーラを放っていた。
刑部の中には「緝捕司」と呼ばれる、捜査を担当する部署が存在する。この男が就いている「捕頭」とは現場の総責任者である総捕頭の部下であり、個々の捜査班を率いる主任のような立場である。補頭の下に、捕快と呼ばれるヒラの捜査官がいる。
「子供じゃないよ。陛下に宿老の死因を調べるように言われて来たの」
凜華は臆する風もなく、懐から景雲に与えられた皇龍の木札を取り出して見せた。
男は木札を目にすると、ふんと鼻を鳴らし、遮っていた腕を引いた。彼は木札を松明の炎にかざし、そこに刻まれた文字を念入りに検分した。
「確かに陛下直筆の刻印が入った通行証みたいだが……これの有効範囲は『内廷』のみだ。お嬢ちゃん、ここは外廷の管轄だ」
「えっ、そうなの? 知らなかったなあ」
凜華はわざとらしく小首を傾げ、すっとぼけた顔をした。
適当に誤魔化してすり抜けるつもりだったが、この男、粗野で荒々しい外見には似合わず細部までよく見ている。
「ま、いいか……。清心殿に入れる時点であんたがただ者じゃないことは確かだ」
男はさっと身を引くと道を開けた。木札ではなく凜華が持つ別のものに気がついたのである。
「その二つとない薬箱。そうか、あんたが噂の宸眷の薬師殿か」
「そ! なんか知らない間にそう呼ばれているみたい」
凜華は胸を張ってみせた。実際、この称号でも役職でもない二つ名(?)はそこそこ気に入っている。
「俺は補頭の隆壬。口が悪いのは勘弁してくれ。生まれも育ちも上品とは縁のない貧民街でな」
「キャリア組じゃなくて叩き上げなんだ」
「きゃりあ? よくわからんことを言うお嬢ちゃんだな。俺の身分じゃ本来は清心殿には入れないんだが……うちも人手不足でなあ。もし陛下が狙われたんなら、尚書(長官)や侍郎(次官)あたりのお偉方がすっ飛んでくるだろうが」
隆壬はけらけら笑うと大股で歩き出した。どうやら捜査の現場に案内してくれるらしい。
凜華は隆壬の大きな背中を追って奥へと進んだ。




