第128話 紺青の入れ墨遺言殺人事件<一>
さて、人類が皮膚に文字や絵柄を刻み込み、秘密の伝達手段――すなわち「暗号」として利用し始めた歴史はおそろしく古い。
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが伝えるところによれば、ある僭主は最も信頼する奴隷の頭を丸刈りにし、その頭皮に密書を刺青で彫り込んだ後、髪の毛が再び生え揃うのを待ってから敵地へ派遣したという。当時から実に気の長い、しかし確実に検問をすり抜けるスパイ技術があったわけだ。
同様に、皮膚に刻まれた紋様は、本人が口を閉ざしていても過去や所属、あるいは怨念までも有弁に語ってしまう「生体遺言」になり得てしまうのである。
凜華に与えられた「壺天閣」という職住一体のスペースは、彼女にとって一種の聖域であった。何しろ、先日まで暮らしていた下女用の住居房に比べれば、文字通り天と地ほどの差がある。
その最たる贅沢が、今凜華が堪能している風呂であった。
浴室は、元々風呂場として使われていた部屋ではないが、入浴専用というだけでQOLは爆上がりである。
「あ~極楽、極楽。転生してもやっぱお風呂は外せないわ~」
真新しく木の香りが清々しい特製の湯桶に、なみなみと張られた湯。そこにどっぷりと浸かりながら、凜華は「ふいー」と、およそ十代半ばの娘とは思えぬ締まりのない吐息を漏らしていた。
住居房にいた頃も入浴はしていたが、大きなたらいは共同であったし、湯に浸かっても足から腰のあたりまでがせいぜいで、浸した手拭いで顔や身体を洗う程度だった。座ると肩まで浸かれる湯桶が持てたのはありがたい。
「凜華さん、お湯の加減はいかがですか? 湯増しを持ってきましたよ!」
バタバタと賑やかな足音と共に、寿寿が湯気の立つ大きな木桶を抱えて入ってきた。かまどで沸かした湯を桶に汲み、少しもこぼさずに運んでくる。「それっ」とたらいの端から熱い湯を注ぎ込むと、湯気が一気に膨れ上がり、室内は真っ白になった。水桶から水を汲んで入れ、湯加減を調整する。
「うーん、絶妙な温度。寿寿は良い湯守になれるよ」
「もう、私は凜華さんの助手ですよ。湯守にするのは勘弁してください」
寿寿は笑いながら言い、凜華の胸のあたりに目を留めた。熱い湯によって、凜華の肌がじんわりと赤みを帯びている。
ちょうど心臓の真上あたりに奇妙な模様が浮かび上がっていた。
「……あれ? 凜華さん。胸にそんな痣ありましたっけ?」
「痣? 何のこと?」
凜華は不思議そうに言い、自分の胸を見下ろした。
そこにはうっすらと「薄桃色の小さな花びらの形をした痣」が浮き出ていた。誰かが桃の花弁を一枚そっと貼り付けたような妙に形の整った痣である。
「何これ……。熱変性による蕁麻疹の一種かな。それとも局所的充血?」
凜華は指先で痣を押してみたが、痛くも痒くもない。
指を離すと、やはりそこには可憐な花びらが居座っている。
「特定の温度以上に加熱された時だけ、浮き上がるみたいね。まあ、健康に害がないなら放っておこう」
「なんか不思議でかわいいですね。温めると花びらが浮かぶなんて神秘的ですよ」
寿寿は喜んでいるが、凜華にとっては「ふーん」という程度の認識であった。転生先の少女の記憶は一切ないため、この身体のことは「酒にとんでもなく弱い」ということ以外は何もわからない。
「これ、陛下はご存知なんですか?」
「……知らないと思う」
そもそも胸を見せるような関係じゃないし……と言うのは、景雲の沽券に関わることのようなので黙っていたが。
やがて湯から上がり、濡れた髪を拭いて乾かしていると、壺天閣の入り口の扉が遠慮がちに叩かれた。
「凜華殿、お迎えに参りましたぞ」
声の主は李元であった。どうやらいつものように迎えに来たらしい。
「はーい、お待ちを」
凜華は手早く髪をまとめると清潔な衣類を着、厚手の上衣を羽織った。首に襟巻を巻き、薬箱を持つと寿寿に振り返る。
「じゃ、行ってくるね」
「はい。凜華さん、気をつけて」
寿寿に見送られ、凜華は李元たちと共に長楽殿に向かった。
ところが、長楽殿の敷地内に入ろうとしたところで、顔色を失った若い宦官が転がるようにして走ってきた。
「李中官、薬師さま。変更です、変更にございます!」
宦官は凜華たちの前にひざまずくと、激しく息を乱しながら告げた。
「陛下は現在、清心殿にいらっしゃいます。長楽殿には向かえないとのこと。清心殿にお向かいください」
「清心殿だと?」
李元が驚きの声をあげた。
「何があった」
「それが……尚方監の宿老であり、天下無双の彫り師と謳われた郭大人が先ほど、陛下の御前で不審死を遂げられたとか」
「郭翁が死んだ?」
李元の顔が強張った。
尚方監は、皇帝一族が使用する調度品や武器、宝飾品の製造を一手に引き受ける最高峰の工房である。
その中でも宿老の郭宗といえば、先帝の御世から仕える伝説的な工匠であり、彼の彫る玉や翡翠はこの世に二つとない精緻かつ美麗を極めた代物であった。先帝にも気に入られ、宝飾品を献ずるたびに褒美を賜っていた。「神の手を持つ」とまで言われる朝廷の宝のような老人だったのだが……。
「李元さん、急ごう」
それまで黙っていた凜華の瞳に、鋭い光が宿った。
「清心殿で起きた事件に、陛下が巻き込まれたのかも」
「ええ、そうですね」
李元は苦渋に満ちた表情で頷いた。
「郭大人は本日、陛下に数年越しで完成させた『翡翠の香炉』を納品しに来られていたはずですが……一体何が起きたのか」
とにもかくにも皇帝の在所へ来いということなので、凜華たちはくるりと踵を返し、清心殿に向かった。




