第124話 屈強な男だけを昏倒させる魔の道<三>
凜華が寝所へ入ると、景雲は氷嚢を頭に乗せ青ざめた顔で横たわっていた。
しばらくぶりに見る顔である。
眠れていないのか、目の回りにはまたうっすらと隈ができていた。忙しいのだろうと思っていたが、まさか外廷で倒れて呼ばれるとは思わず、凜華は深々と息を吐いた。
「見事にやられたわね、陛下。悪霊の障気にあてられて剣が宙を飛んだとか舞ったとか。後宮中が噂で持ちきりよ」
「……笑いに来たのなら帰れ。頭痛と吐き気がひどいのだ」
景雲は恨めしそうに凜華を睨みつけたが、その声はひどく弱々しい。目が合うと、恥ずかしそうに逸らした。
無理もない。屈強な衛兵たちを次々と薙ぎ倒してきた正体不明の怪異に、皇帝自らが突っ込んで玉砕したのだ。会いたかったが、合わせる顔がないという気分である。
「笑ってないから。詳しい状況を聞かせて。被害者に共通しているのは、『全員が男』で、なおかつ『分厚い甲冑や剣などの重装備をしていた』ということね?」
「そういうことだ。女子供や文官が通る分には何も起きない」
「てことは、私は通っても大丈夫なんだ」
「鎧や兜で武装した衛兵と、正装した私が見えざる手に首を絞められ地面に引きずり倒されたのだ」
凜華は腕を組み、ふむと顎に手を当てた。
「その『正装』っていうのが気になる」
「祭事や儀式の際に着るものだが?」景雲からすれば、着慣れた何の変哲もない衣装である。
「その服を見せてもらっていい?」
景雲は尚服局の担当官を呼ぶよう命じた。
尚服局は皇帝や皇族の衣類を管理するところで、尚服官は現代でいうところのスタイリストのようなものである。
彼らは日々、政務や年中行事に合わせて、皇帝が着る公的な衣類を揃えて持ってくる。
ほどなくして、尚服局の役人が漆塗りの箱を抱えて寝所に駆けつけてきた。箱の中には、景雲が祭祀の際に身につける豪華な祭服が納められていた。
凜華はその神聖な衣服を引っぱり出すと、裏地をひっくり返し、指でなぞって確かめた。固い芯のようなものに触れる。
「やっぱり。これは肩の張りや裾の広がりを美しく見せるために生地の裏に『鉄の芯』、ワイヤーがびっしり縫い込まれてる。これが陛下の倒れた一因ね」
途端、尚服官が血相を変える。
「なっ、無礼な! それは皇帝陛下の威厳を保つための、我が局の粋を集めた代物ですぞ。陛下の御身を害すとはとんでもない言いがかりです」
「これ自体は別に問題ないよ」
怒る役人をなだめつつ、凜華は次に寝台の脇に立てかけられていた「引きずられて石の山に張り付いた」という鋼の剣を手に取った。両手で持つとずっしりと重たく、よろけそうになる。
「凜華殿、危のうございます」
李元が駆け寄って来た。彼に片方を持ってもらい、なんとか鞘から引き抜く。
刃の輝きや重心を確かめるが、特段変わった仕掛けは見当たらない。極めて純度の高い見事な鋼の剣である。
「剣も問題もない。純粋な鉄の塊だわ。……なるほど、状況が見えてきた」
凜華の顔に、謎を解き明かす時特有の不敵な笑みが浮かんだ。
「陛下。気分が良くなったら現場に連れていって。犯人は悪霊でも妖怪でもないってことを証明するから」
「毒や病気でもないのだな」
「うん、違う。按ずるに……たぶんアレだと思う」
「按ずるにアレ?」
「現場を見ないとなんとも言えないけどね。滅多に起きないことだけど、量次第ではいけるかな……?」
凜華は腕を組んで何ごとか考えている。
頼もしすぎるセリフを聞いて、安堵したのだろうか。
それまで張り詰めた弓の弦のようだった景雲の身体からすっと力が抜けていく。
彼は瞼をゆっくりと閉じた。そのまま音一つ立てず、深い眠りへと落ちていったのである。
寝顔は、先ほどまでの気負った皇帝のそれではなく、難解な宿題から解放された子供のようであった。
「あれ、寝ちゃった。よっぽど疲れてたのね」
凜華は氷嚢の位置をそっと直すと、音を立てないように景雲の寝室を後にした。
回廊に出たところで、背後から「お待ちくだされ」という声がした。追いかけてきたのは李元だった。
彼は両手を袖の中で合わせ、心底ホッとしたような笑顔を浮かべていた。
「凜華殿、陛下と仲直りをされたようで本当にようございました。これで私どもも枕を高くして眠れます」
「仲直りって……別に喧嘩はしてないよ」
凜華はきょとんとした。
「そうなのですか? 先日は壺天閣まで行かれたのに、急にお帰りになってしまい……その後もずっと険しいお顔でご機嫌がよろしくなく。我々もどうしたものかと気を揉んでいたのです」
「確かに会ってはいなかったけどね」
李元は、しみじみとした調子で息を吐きながら続けた。
「陛下は、ここ最近はお労しいほどにお疲れで、夜もよくお眠りになれなかったご様子……。太医たちが煎じた安眠茶も退けて、ずっと塞ぎこんでおられました。今回の事件もおそらくは過労がたたってのこと。凜華殿が傍についておらねば、陛下は生きていけないのでございますよ」
「そんな大袈裟な」
凜華は思わず吹き出した。
天下の皇帝が、薬師が一人いないだけで生きてゆけないなんてどんな過保護な冗談なのだろう。
「とにかく私は壺天閣に戻るから。何かあったら呼んでね」
そう言って、凜華が歩き出そうとしたその時である。
「なりません」
李元の声から、ふにゃふにゃしたものが消えた。
その顔は、宮廷の荒波を生き抜いてきた宦官ならではの冷徹かつビジネスライクなものに変貌していた。
目の前の娘には、己の生活や出世どころか人生の存亡がかかっている。常に皇帝の傍に侍り、寵愛され、イチャコラしてもらわないと困るのである。
さらに言うなら、妃になってもらってどちゃくそに愛されまくって、子供は予備も含めて五、六人産んで、いずれは皇太子になってもらわねば困る。宦官の出世道も険しい茨の道なのだ。
「へ?」
凜華が瞬きをした瞬間、部下の宦官たちがゾロゾロと現れ行く手を遮った。統率された動きは、まるで訓練された軍隊のようである。
「陛下がお目覚めになった時、凜華殿のお姿がなければどのようなお叱りを受けるか。お帰しなぞしませんぞ。陛下が回復されるまでは、こちらにご滞在いただきます」
「えーっ!」
凜華の叫び声が、辺りに虚しく響き渡った。
結局ラボには戻れず、皇帝の寝所の隣りの部屋に軟禁されてしまったのだった。




