第123話 屈強な男だけを昏倒させる魔の道<二>
「へ、陛下ぁぁぁっ!」
景雲の身体はぐらりと傾き、そのまま白目を剥いて倒れてしまった。
だが、真の恐怖はここからであった。昏倒した景雲の腰から鋼の剣が落ちた。するとその剣は、誰も触れていないにも関わらず、ズルズルガリガリと不気味な音を立てて石畳の上を滑り出し、巨大な蛇が獲物を求めて這い進むかのように、黒い石の山へと向かって勝手に移動し始めたのである。
最終的にその剣は、黒い石の山の中腹にガァンと勢いよく張り付き動かなくなってしまった。
「ひぃぃぃっ! 剣が、剣が妖石に喰われたぁっ!」
「悪霊の仕業だ。陛下をお救いしろ」
随行していた重臣や護衛たちはパニックに陥った。
あれこれと騒いだ挙句、四つん這いになって鼻血を出して失神している皇帝の両足を掴み、安全圏へと引きずり戻したのである。
その後、清心殿の寝所で意識を取り戻した景雲を待っていたのは、太医長の顧成が右往左往する姿であった。
「へ、陛下! ご無事で何よりでございます。ご安心ください。脈拍や臓腑に異常は見られず、病魔のたぐいとは思えず……」
景雲は起き上がろうとしたが、身体が彼の意志についていかなかった。頭の中がぐわんぐわんと揺れている。目が回り、また仰向けに倒れてしまった。
「いやはや、どうにもあの魔の道の悪霊は強力なようでして……」
「黙れ」
景雲はズキズキと痛む頭を押さえながら、なんとか顧成を一喝した。
「悪霊だの呪いだの、寝言は祈祷師にでも言わせておけ」
「で、ですが……」
景雲は呻きながらも、自分が倒れた時のことを思い出した。
道を通った途端、なんらかの強大な力がのしかかり、引っ張られたのは確かだった。
「余は、あの石の山から発せられる『物理的な力』を感じた。喉や胸を押し潰し、腰の剣を強引に引き剥がした見えざる力の奔流をな」
傍に控えていた李元が歩み出た。
「陛下、これは一大事です。凜華殿をお呼びしましょう」
「……凜華を?」
景雲は目を見開いた。
冷宮の一件があって以来、景雲はしばらく後宮に足を向けていなかった。
凜華に会いたい気持ちはあったが、どうにも気まずくて仕方ない。会いたいが、顔を合わせたくないという矛盾した気持ちを抱えて悶々としていた。これ以上、自分の弱い部分を知られたくない。
絃楠に壺天閣の様子を見に行かせ、報告させるだけにとどめていた。
「馬鹿を言うな。頭痛と眩暈がしただけだ。これしきのこと、あれを呼ぶまでもない」
景雲は横になったまま、しきりに強がった。
しかし、李元は懸命に言い募る。
「兵士たちにも同じような被害が出ておりますし。今しがた陛下も『物理的な力』を感じたと仰られたではありませんか。私は『笑い死にする部屋』の事件を思い出しました。あの時も凜華殿は、幽霊の呪いだとみなが恐れおののく中、物理的な法則で怪異を暴いて解決されました」
「それはそうだが」
「お呼びしましょう。凜華殿が来れば、陛下の回復も早まります」
「だが、ここは清心殿だぞ」
「陛下がお倒れになったのです。緊急事態とあらば場所は関係ございませんよ」
結局、李元に押しきられる形で凜華が呼ばれることになった。
顧成は主従の会話を聞きながら、苦虫を噛み潰したような顔をしたが、薬師房も彼女を薬師と認めた手前入れるなとは言えなかった。
さて、清心殿とはこの国の最高意思決定機関にして、景雲の居住空間を兼ねる宮殿である。
皇帝の休息と子作りを目的とした長楽殿がプライベートな「私邸」であるとすれば、清心殿はいわば「執務室兼官邸」のようなもの。
歴代の皇帝がここで朱筆を振るい、数万の軍勢を動かし、あるいは多くの首を刎ねてきた政治の中心地だ。
ここには、後宮のような心身を刺激する過剰な装飾も、金箔を惜しげもなく貼り付けた華美さはない。
建物を構成する木材は、樹齢数百年はあろうかという深みのある黒檀や紫檀であり、蜜蝋で磨き上げられた床板は歩く者の姿を冷たく反射している。
調度品や屏風はどれも国宝級の代物だが、華やかさはなく「質実剛健」と「絶対的な権威」を体現している。
一切の無駄を省いた幾何学的な直線のレイアウトは、官僚主義という名の圧力が物理的な質量を持ってのしかかってくるような息の詰まる空間であった。
並の人間であれば足を踏み入れただけで胃が縮み上がり、冷や汗を流すような聖域に、薬箱を持った娘がせかせかとした足取りで入って来た。凜華である。
三度目の外廷行きで、とうとう本拠地たる清心殿に入ったわけだが、本人にはいささかの緊張感もなかった。
「へ〜こんなところなんだ」
李元に先導されながら、気の抜けた呟きが漏れる。
彼女は、巨大な柱の木目や壁際に置かれた硯や書物の束を、博物館の展示品でも見るように観察した。
「後宮よりは機能的でいいね。装飾の凹凸が少ないからハウスダストも溜まりにくそうだし。ただ、ちょっと墨と紙に使われてる膠の匂いが強いかな……」
「しっ! 凜華殿、お声が高い」
ブツブツと化学的な分析を垂れ流す凜華を、李元がたしなめる。凜華のマイペースすぎる態度は、周囲をヒヤヒヤさせていた。本来ならば後宮の女が立ち入ることは許されない政治の絶対領域なのである。
すれ違う外廷の役人たちや、高級官僚たちは、皆一様にピタリと足を止め、目を丸くした。
一部は手にした木簡や筆を取り落としそうになっている。凜華たちが通り過ぎた後、彼らは驚愕と混乱の大合唱となった。
「な、なんだ今の女は……!」
「ついに清心殿にまで愛妾をお入れになったのか。皇后ならともかく陛下は一体どうされてしまったのか」
「看病のためらしいが、それもこれも太医が不甲斐なさすぎるせいであろう」
以前の皇帝は、後宮へ足を運ぶことすら稀であり、外廷の人間からすれば「気難しく扱いにくい仕事の鬼」という認識だった。それがなぜか若い薬師の娘にどハマリしてしまい、公けの執務空間にまで呼び寄せている。
何がどうしてこんなことになったのか。堅物ほど恋愛にのめり込むと手に負えなくなるというが……。
「見ろ、あの泰然とした歩き方を。歴戦の猛者ですら震え上がる清心殿の空気にまったく気圧されてないぞ」
「あの怜悧な瞳、媚びのない態度。後宮を裏で牛耳り、陛下をたぶらかして外廷行きをねだったに違いない」
「まさに傾国の美女! ……と言うほどでもないな。何がよくてあの者を寵愛されておるのか」
官僚たちが勝手に妄想をインフレさせ、国家の危機すら感じてワナワナと震えていることなど、凜華は知る由もない。
役人たちの視線を背中に浴びながら、清々しいほど堂々とした顔で、皇帝が眠る奥の扉へ消えていくのであった。




