第117話 聖アントニウスの火と皇后の黒い粉<四>
翌朝、事態はさらに緊迫したものになった。
倒れた女官たちは宿舎に運び込まれたが、多くが謎の体調不良に苦しみ起き上がることができない。さらに、昨夜の深夜徘徊の記憶を失っていた。
意識が戻った者を役人が問い詰めても、ぼんやりと虚空を見つめたまま「何もわかりません」と言うばかり。
ただ、一部がぽつぽつと語った夢の内容が奇妙な尾を引いた。
「私たちは、月の女神さまが主催する芳しい花の香りがする宴に参加していたのです」
「月の女神さまは白く美しいお姿で、水で練った『黒い粉』をガリガリとかじっておいででした……」
この「黒い粉」という不気味なディテールが、後宮の古参たちの記憶の澱を激しくかき乱した。
冷宮に幽閉され、餓死したとされる趙皇后。
彼女が極限の飢えの中で、正体不明の「黒い粉」を啜りながら夜ごと泣き叫んでいたという怪談はあまりに有名だったからだ。
「趙皇后の怨念が新たな獲物を探している」
「月の女神などではない。あれは餓鬼となった皇后の怨霊だ!」
この噂は瞬く間に後宮を駆け巡り、各宮からは「一刻も早くお祓いを」「腕利きの術師を呼んで!」という要請が殺到した。
一方、女官の介抱のために呼ばれた下級の薬師たちはどうしていいかわからず、怯えきった顔で
「これは集団性の『夢遊病』だ。精神を安定させる甘麦大棗湯でも処方して様子を見るべし。あとは悪霊退散の魔除けの札を持って祈るしかない」
とお茶を濁すような診断を下していた。
そんなオカルトとことなかれ主義が混ざり合った現場に呼ばれてしまったのが凜華である。
「宸眷の薬師殿が来た!」と場は騒然となった。
薬師たちの診断を聞くと、凜華は呆れたように言った。
「夢遊病ねぇ……。まあ言いたいことはわかるけど、夢遊病という病気は存在しないよ。小説じゃないんだから」
病気そのものがないと言われた薬師たちは呆気にとられ、それから顔を真っ赤にした。
「な、何を申されるか。夢遊病は古来より伝わる厳然たる病名でありますぞ。いかに皇帝陛下の薬師といえども、無礼でありましょう」
「それを言うなら睡眠時随伴症、別名パラソムニア。より細かく言うなら『ノンレム睡眠覚醒障害』だよ」
「ぱらそむにあ? のんれむ……?」
聞き慣れない怪しげな響きに、薬師たちはぽかんとする。
「人間の脳はね、眠っている時の睡眠と、起きている時の覚醒のスイッチが明確に切り替わることで正常に機能しているの。何らかの『物理的な刺激』や『外因性の化学物質』によってその制御回路がバグを起こすと、脳の『運動出力を司る部分』だけが完全に覚醒し、逆に『意識や記憶を司る大脳皮質』は深い眠りに落ちたままという異常事態が発生する。つまり、脳の覚醒と睡眠のスイッチが同時にオンになってしまう不具合なのよ」
「はあ……」
凜華の圧倒的な知識に、誰一人として言い返せない。
真っ向から否定されてしまって悔しいが、その場でワナワナと震えるばかりだった。
しかし、当の凜華自身も額にわずかな皺を刻んでいた。
「集団で徘徊が起きたのなら睡眠時随伴症じゃない。個人の脳疾患でもない。複数人の脳のスイッチを同時にオンにさせる強烈な物理的刺激……。感染症……?」
ブツブツと独り言を言いながらも、頭は原因を特定するためフル回転を始める。
「とりあえず患者を診るわ」
凜華は女官たちが集められた広間へ足を踏み入れた。
床にはいまだに頭痛や幻覚に苦しみ、うわ言を呟く女官たちが寝かせられている。「月の女神の招待客」と呼ぶには惨憺たる有り様である。
凜華は患者のまぶたを指で押し上げ、手燭を近づけた。
「瞳孔が極端に散大しているわね」
光を当てても瞳は収縮せず、闇を呑んだように黒いままである。
さらに凜華が注目したのは、彼女たちの手足の指先であった。一部の女官の指先が不気味に赤黒く変色している。
「熱い、熱い……」
と火を押し当てられたかのような灼熱感を訴え、悶え苦しんでいる。
「少し痛いけど我慢してね」
凜華は薬箱から清潔な細い木へらを取り出すと、女官の鼻の穴に突っ込み、鼻腔の粘膜を強引にぬぐい取った。
引き抜いた木へらの先端には鼻水に混じって、ごくわずかな「黒い粉末」が付着していた。
「気管支から直接何かを吸い込んだのね」
凜華は立ち上がり、今度は室内に目を凝らした。
部屋の壁際へ移動し、窓の桟を指先でツーッと撫でる。さらに部屋の隅に置かれた水瓶の縁や、木製の家具にも触れた。
指先には、鼻腔の中にあった黒い粉がついた。
凜華は指先の粉を小さな皿の上に落とし、顔を近づけて観察した。
「普通の土埃じゃない。粒子が異様に固いし黒すぎる。植物性の油分のようなザラつきがある……」
その時、比較的症状が軽く、意識を戻した女官がとろんとした目で呟いた。
「風が……」
「風?」
凜華は駆け寄ると身を乗り出した。
「教えて。昨晩、何が起きたの?」
「ものすごく強い風が吹いて……。そうしたら、窓の隙間から黒い煙がヒューッと部屋の中に吹き込んできて……。吸い込んだ途端、頭の中にドンドンって太鼓の音が鳴り響いてそこから宴が始まって……」
「黒い煙ね」
凜華は手元の粉を再び見つめた。
窓の外から、風に乗って未知の粉が飛来した。粉を吸いこんだ女官たちは錯乱し、一斉に深夜徘徊を始めた。これは一体なんなのか。
凜華は薬師たちが待機する部屋に戻った。
彼らに採取した黒い粉を見せた。
「まだ特定はできてないけど、この粉が、集団徘徊が起きた原因よ。睡眠時随伴症でも精神疾患でも、ましてや怨霊の仕業でもないわ」
「つまりどういうことで……?」薬師の一人が恐る恐る尋ねる。
「この粉は人を狂わせる毒ってこと」
凜華は冷静に断言した。
薬箱からドラゲンドルフ試薬の入った小瓶を取り出す。
黒い粉を水に溶かし、試薬を垂らす。滴下されてすぐに、それは鮮烈な「橙赤色」の沈殿を生じさせた。
間違いない。この黒い粉にはアルカロイドが含まれている。
「瞳孔散大。手足の末梢血管を猛烈に収縮させ、灼熱感もある。中枢神経を強制的に撹乱し、幻覚を見せながら脳の睡眠スイッチを狂わせる毒素。これはアルカロイドによる集団急性中毒症状だわ」




