第118話 聖アントニウスの火と皇后の黒い粉<五>
急性アルカロイド中毒なら、一刻も早く体内の毒を抜かなくてはならない。
「アルカロイド中毒ならやれることは決まっている。毒の特定の前に治療ね」
凜華は薬箱から清潔な布を引っ張り出し、鼻と口を覆った。
「今から全員マスクをして」
「ますく?」
「中毒の原因はこの微細な粉。逆に言えば、これさえ吸い込まなければ何ともないわ。手拭いを水で濡らして口と鼻を固く覆って」
薬師たちは戸惑いつつも、凜華の真似をして布で顔を覆った。
凜華は矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「急いで大鍋に湯を沸かして。当帰、川芎、紅花を最大量で煎じるの。指先の縮んだ血管を強制的に広げて、手足が腐るのを防ぐ。それから釣藤鉤と酸棗仁も加えて。脳の異常な興奮を鎮めて幻覚と痙攣を止めるのよ」
そこで凜華は、以前周但娘に教わった解毒剤「緑豆甘草湯」を思い出した。これは植物性の毒に効く。
「あと解毒と排泄を促す甘草と緑豆も。たっぷりとね!」
凜華のただならぬ気迫に押され、薬師たちは材料や器具を取りに飛び出していった。
薬の調合を薬師たちに任せると、凜華は次に宿舎の外にいた宦官たちを呼び集めた。
彼らは「怨霊に呪われた部屋」に入るのを極端に恐れていた。
「あんたたちは掃除よ」
凜華は宦官たちを急かし、彼らにも布のマスクをさせた。
「この宿舎を徹底的に掃除するの。ただし、箒で掃いてはだめ。毒の粉が空気中に舞い上がるから。水で濡らした雑巾で床や窓枠、家具を拭きとって。それから、冷宮側に面した壁の亀裂や換気口は、今日中に漆喰と板で塞ぐこと」
「冷宮側をですか?」
宦官たちは「やはり」といった顔をした。
「確定じゃないけど、黒い粉は冷宮から飛んできた可能性があるから。風が強かったなら特にね」
掃除と並行して、凜華は幻覚に怯えガクガクと手足を引きつらせている女官たちを湯殿へ移動させた。
「女神さまのもとへ連れて行かないで……!」
などと支離滅裂なことを叫ぶ女官に、凜華は湯を張った手桶を差し出す。
「大丈夫、女神なんてどこにもいないわ。今から、あなたたちについた毒を全部洗い流してあげる」
凜華は近隣の宿舎にいた下女たちを動員し、女官たちの衣服をすべて脱がせ、頭のてっぺんからつま先まで湯で洗い流させた。髪の毛の間に潜み、皮膚に付着した粉をしっかり落としてゆく。
鼻の奥と喉も念入りにうがいさせ、徹底的に除染した。
湯上がりで清潔な寝着に着替えた女官たちは、掃除された風通しの良い部屋に集められた。
そこへ、強烈な生薬の香りを漂わせた大鍋が運び込まれる。凜華は椀に薬湯を注ぎ、女官たちの口へと流し込んでいった。
「飲んで。甘草と緑豆が体内に回った毒を尿にして追い出してくれる。たくさん飲んで全部出し切るのよ」
効果はすぐに現れた。特製の血管拡張・鎮静の薬湯が体内に染み渡ると、女官たちを苦しめていた手足の激しい引きつりが嘘のように引いていった。指先の灼熱感も鎮まってゆく。
「あ、指が元に……」
女官の一人が、自分の両手を見つめながら涙をこぼした。
狂乱状態だった脳の興奮も薬の効能で鎮まり、幻覚が消えてゆく。彼女たちの心身は落ち着き、泥のように深い眠りへと落ちていった。
翌朝。後宮の空には晴天が広がっていた。
目を覚ました女官たちに、幻覚や痙攣の後遺症は残っていなかった。体内に吸収されたアルカロイド毒は、徹底した除染と利尿作用によって体外へ排出された。一人も手足の指を失うことなく回復したのである。
「呪いが解けたぞ!」
「壺天閣の薬師殿が、恐ろしい怨霊を祓ってくださったのだ」
後宮中がそんな噂で持ちきりになる中、凜華は研究室で疲れた肩をコキコキと回していた。
寿寿から除霊の噂を聞くと、呆れたように言った。
「祓ったんじゃないってば。解毒と除染しただけよ」
患者が助かったのなら、今度は原因の究明だ。
女官たちが見たという「芳しい花の香りがする宴」、これは幻覚である。幻覚症状を引き起こす黒い粉。飢えた趙皇后が貪り食ったという黒い粉と同じものなのか。
「宿舎の窓の向きと粉末の飛散距離。やっぱり風上にある冷宮から来たと考えるのが自然かな……」
凜華は冷宮へ調査に行くことにした。
が、驚愕した寿寿が凜華の服の裾を掴み、必死の形相で引き留める。
「凜華さん! だめです、だめですってば。冷宮になんて行ったら、趙皇后の霊に呪い殺されてしまいますよぉ!」
凜華は、ピンセット代わりの細い箸や薬の入った瓶を薬箱に詰めながらため息交じりに答えた。
「も~大丈夫だって。幽霊が分子の合成式を持っていて、私の身体を分解できるならともかくね。呪殺より毒の方がよっぽど危ないわ」
それでも寿寿は心配そうに凜華を見つめる。
「冷宮は閉まってますし。中には入れないのでは?」
「なら、許可をもぎ取るまで」
その夜、景雲から召し出しがあると、凜華はすぐに長楽殿に向かった。
長楽殿の執務室で、景雲は机の上に山積みにされた「お祓いを求める上奏文」を前に、面倒くさそうに頬杖をついていた。後宮に来た途端にこれである。
凜華を見ると苦笑いを浮かべた。
「凜華か。聞いたぞ。女官たちが罹患した『のんれむぱらそむにあ』という奇病を治したそうだな」
「全然違うし」
「そうなのか」
「報告する人によって正確性が変わるのかな。けど耳が早くて助かる」
凜華は景雲の前に進み出ると、単刀直入に言い放った。
「陛下、私に冷宮の立ち入りと調査の許可をください。あそこに事件の元凶となった『毒物』がありそうなので」
要求を聞いた途端、景雲の端正な顔から笑みが消えた。
彼はしばし沈黙し、おもむろに腕を組んだ。
「お前の見立ては毒か」
「うん。それも集団を中毒にさせるほどの」
「強力なものか」景雲が拾いながら、気難しげに眉をひそめた。
「量としてもかなりのものだと思う」
凜華、と景雲は改めて呼び、探るように言った。
「お前はあそこがどういう場所かわかっているのか」
「罪を犯した妃嬪たちが幽閉されるところ、と聞いたわ」
「……そうか」
景雲は声を潜め、甚だ憂鬱そうに言った。
「冷宮は、かつては後宮における政治的暗部の象徴だった。お前の言うことはもっともだが、今さら掘り返して過去の遺物を表に出すのは……気が進まん」
どうにも気乗りがしない様子だが、凜華は引かなかった。
「陛下、これはバイオハザードよ。生物災害なの。もし黒い粉が冷宮にあるのなら探し出してきっちり処分しないと。放っておけば、また粉が拡散して被害者が出てしまうかもしれない。後宮の安全のためにも行かせて」
凜華の瞳には一切の政治的妥協を許さない薬師、研究者としての意志が燃え盛っていた。
景雲は尚も迷っていたが、凜華の決意が固いとみると、ふっと身体から力を抜いた。
「わかった」
景雲は立ち上がると、腰に下げた天子の名代であることを示す「黄金の皇龍札」を外した。凜華に向かってぽんと放り投げた。
「よかろう、今回は特別に許す。管理人にも門を開けるよう命じておく。だがな、凜華」
景雲は、どこか切なげな優しい目で凜華を見つめた。
「怨霊の正体が、お前の言う通り毒物であったとしても、あまり無慈悲に暴きすぎるな」
「……善処するわ」
「毒があるなら一人では行かせられん。絃楠を連れてゆけ。役人どもも同行させる」
「うん、ありがとう」
凜華は頷き、黄金の小札をしっかりと握りしめた。




