第116話 聖アントニウスの火と皇后の黒い粉<三>
佳は、かつて後宮を揺るがした呪詛事件とその顛末について語り始めた。それは今から二十年以上前、現皇帝の景雲が産まれる前、産まれてからすぐ後の話だった。
「先帝陛下の四番目の皇后で、趙皇后というお方がおいでだった。名門・趙家の出で気位の高いお方だったと聞くね」
「趙夫人のお姉さんだね」
「そう。皇后を輩出した趙家は我が世の春を謳歌していた。だがね、銀玲妃――今の陛下のお母上だね、が来てからは権勢に陰りが見え出してね。先帝の寵愛は若く美しい銀玲妃に移ってしまったんだよ。銀玲妃が懐妊すると、その勢力は飛ぶ鳥を落とす勢いになった」
先帝は懐妊の褒美として、銀玲妃に「宸妃」の称号を与えた。その上、それまで趙皇后が暮らしていた「杏花殿」まで銀玲妃に明け渡すよう命じたのである。皇后が住居を追われるという前代未聞の事態に人々は仰天した。
あまりの暴挙に趙家は猛抗議したが、先帝は一切耳を貸さなかった。趙皇后は泣く泣く杏花殿を出て、別の殿舎に移らざるを得なかった。
夫を奪われ、住まいを追い出され、プライドをずたずたにされた趙皇后はやがて狂気的な行動に出る。
「趙皇后は憎い銀玲妃を呪い殺そうとした。呪術師を呼んで密かに呪詛させた……なんて話が広まってね」
「じゅ、呪詛……?」寿寿が小さく叫び、慌てて口を押さえる。
「どうなんだろうね」佳は頬杖をつき、首を傾げるような仕草をした。
「そこは懐疑的なんだ」凜華が注意深く言った。
「本当に呪詛したのかどうかは……。ただ先帝はその話を信じた。趙皇后の元に出入りしていた霊媒師だか占い師だかが捕らえられて処刑されたようだよ。結局、趙皇后は銀玲妃を呪詛した罪を問われて廃位。銀玲妃が立后され、五番目の皇后となられたのさ」
失脚した趙皇后は、娘の公主と共に冷宮に幽閉された。
冷宮は厳重に監視され、母子は邸内から一歩も出られなくなった。
趙皇后が幽閉された後も混乱が続いた。趙家は謀反を企んだとして軍を差し向けられ、粛清の憂き目に遭った。当主を始めとして一族の殆どが処刑され、領地を含む全財産が没収されたという。
『趙皇后は銀玲妃のみならず陛下も呪詛した』
『趙皇后は冤罪だ。皇后の地位を狙った銀玲妃が仕掛けた罠に違いない』
『陛下は以前から趙家を疎んじ、滅ぼす機会を伺っていた。銀玲妃への呪詛は捏造で、後付けの理由ではないか』
宮中には様々な噂や憶測が飛び交ったが、真相はわからずじまいである。
「幽閉されてから一年半ほどして、趙皇后は亡くなった。表向きは病死。でも後宮にいる古参で、これを信じている者はまずいないね」
「病死じゃなかったんだ」凜華の顔が曇る。
「幽閉されてるといっても、出入りする者はいるわけでね。冷宮の傍を通ることもあったし。あたしも一度だけ聞いたよ。冷宮から女の叫び声がするのを」
それは夜闇を切り裂くような、身の毛もよだつ金切り声だった。聞いてしまった佳はぶるりと震え、耳を塞ぎ、自室に走って戻った。寝台に潜り込んだ後もなかなか眠れなかった。
「あそこへは、まともな食事も運ばれていなかったようだよ。趙皇后は飢えるあまり絹の服までかじった。最後は黒い粉だか土だかを食べて餓死したってね」
「土を食べて餓死……?」
凜華は思わず、冷宮のある方角を振り返った。
あの固く閉ざされた門の向こう側で、いやしくも元皇后が餓死という悲惨極まる最期を遂げていたとは。
「こ、皇后さまが……? 信じられないです」
寿寿の顔は青ざめ、声は震えている。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「食事を与えないなんて。どうしたら、そんなひどいことができるんですか……」
佳は手を伸ばし、慰めるように寿寿の肩を叩いた。
「わからないよ? あたしはただの洗濯女だし、この話も又聞きの又聞きだし。趙皇后や銀玲妃にお会いしたわけでもないしね。本当は何が起きていたのかなんて、下々の者にわかるはずないのさ」
「……うん。そのまま鵜呑みにはできないけど」
凜華も頷いた。気分のいい話ではないが、噂には常に過激な尾ひれがつくものだ。
「何にせよ、あそこには近づかないことだね。冷宮に入って生きて出られた妃はいないって話だ。趙皇后だけでなく、無念のうちに死んだ妃たちの怨念が籠もっているところだから」
「そうした方がよさそう」
凜華は手元に置いた丸まった地図を見つめた。
調査できなかったところ、北西の冷宮にあたる部分はぽっかりと空いたままだ。
地図に記載されない牢獄、冷宮は後宮の暗部そのもののように思えた。
この時点では、冷宮は悲劇の御殿以外の何ものでもなかったのだが――。
数日後。
北風が吹きすさぶ満月の夜、事件は起きた。
冷宮に近い下級女官たちの宿舎で発生した怪異は、これまでにない不気味かつ幻想的な様相を呈していた。
ことの始まりは丑三つ時、ようやく風が止み、青白い月光が辺りを照らし出した頃であった。
巡回していた夜勤の宦官たちが、宿舎の扉が開き、中から十数人の女官がゾロゾロと這い出てくるのを目撃した。
彼女たちの目は開かれていたが、焦点が合っていない。誰一人として言葉を発さず、足音すら立てない。
誰にも聞こえない調べが聞こえているのかのように優雅に、しかし奇妙にくねくねと手足を動かし、舞い踊りながら歩き出した。
その姿は月光の糸で操られた傀儡のようだった。
女官たちは引き寄せられるように暗い林に入っていった。進む先には、後宮の北西の端――かつて罪を犯した妃たちが幽閉され、恨みを抱いて世を去ったという冷宮があった
女官たちは冷宮の門の前で止まると、尚もその場でふらふらと踊り続ける。
「ひ、ひぃぃっ! 怨霊だ! 怨霊に憑りつかれているぞ」
宦官たちは恐怖のあまり松明を放り出し、腰を抜かして震え上がった。
女官たちはそのまま無音の舞踏を続けた。東の空が白む頃、糸が切れたようにその場にバタバタとくずおれた。




