第112話 アズライトで目薬を作ったらおやつ転生してしまう<上>
さて、唐代の中国では宮廷女性たちの間で「青眉」という化粧が大流行した。これはアズライト(藍銅鉱)やマラカイト(孔雀石)の粉末を眉に塗るものである。当時は目の充血や視力回復の目薬として珍重されていた。
さらに遡れば、秦の始皇帝の軍隊も戦化粧としてこれらの鉱物顔料を顔に塗っていた。過酷な砂塵が舞う西部の戦場で、兵たちの眼病を防ぐ「塗る目薬」として機能していたと考えられている。
異世界の後宮においても、アズライトは目薬の材料として重宝されるのだが、手違いで予期せぬものが出来上がってしまうことがある。
晩秋の風が、壺天閣の窓を無遠慮に揺らしていた。
昼間から木枯らしが吹きすさぶ中、女が一人音もなく研究室へ滑り込んできた。
皇帝・景雲の耳目として、日々暗躍する絃楠である。
間諜として優れた身体能力と隠密の技を持っているが、彼もまた血の通った一人の人間である。
薬師房にいる薬師よりも腕のいい凜華に、自身の目に起きた不調を訴えたのだった。
「……目が真っ赤。ウサギより酷いじゃないの」
凜華は絃楠の目を診るなり、真剣な面持ちで言った。
絃楠の翠色の双眸は真っ赤に充血し、まぶたは腫れ上がっていた。
過酷な任務が続いたのか、はたまた睡眠不足が重なった結果なのか、結膜炎を起こしてしまっていた。
「申し訳ありません、凜華さま。風の強い日が続いたせいか、砂塵でどうにも目が開かず……。何かいい薬を頂けないかと参りました」
絃楠は詫びながら長い睫毛を伏せた。その所作は、その辺にいる宮女よりもよほどしとやかで慎み深い。
「謝る必要はないよ。早めに来てくれてよかった。そうだ、目薬を作るなら……」
凜華は立ち上がると、薬品棚から小箱を取り出した。
中に入っていたのは、麗妃からもらった深い群青色をした鉱石――アズライト(藍銅鉱)であった。
「宝石ですか? それをどうなさるおつもりで?」
充血した目をしばたかせる絃楠に、凜華はあっさりと答えた。
「目薬の材料にする」
「麗妃さまからいただいたものなのでしょう? よいのですか。高価なものなのでは」
「石は飾るものじゃないわ。使わなきゃ」
凜華にとってアズライトは、薬になる「銅の化合物」でしかない。水できれいに洗うと躊躇なく石を削り取った。
すり鉢に放り込み、すりこぎでゴリゴリと粉砕し始めた。
「アズライトを粉末にしたものは、『空青』という名で珍重される生薬なの。私が読んだ古典……本草書にも、目の充血や痛みを取り除き、視力を回復して塞がった目の曇りを払うと書かれていた」
絃楠は袖を揺らしながら「青い石にそのような薬効が……」と呟く。
「アズライトの青さは『銅』の成分によるもので、極めて強力な抗菌作用がある。細菌の細胞壁を破壊して増殖を防いでくれるの。そこに収斂作用と消炎作用を持つ明礬の水溶液を入れれば、炎症を抑えつつ雑菌を殺す目薬になるってわけ」
凜華の手つきは迷いがない。細かな青い粉末となったアズライトに明礬を溶かした水を静かに注いだ。
するとどうだろう。それまで鮮やかな群青色を保っていた粉末は、シュワ……とかすかな音を立てたかと思うと、すっと色が抜け落ち無色透明の液体へと変化した。
アズライトの主成分は「炭酸銅」。明礬は水に溶かすと弱酸性の液体になり、炭酸銅は酸性の液体と混ざるときれいに溶けてしまう。
「これで完成よ」
凜華の手元を覗き込み、絃楠が感嘆の声を漏らす。
「青だったものが透明になった。お薬の世界は本当に不思議ですね」
「面白いもんだよね」
凜華は微笑み、中身を満足そうに眺めた。
「目に直接点すものだから、雑菌のついた容器は使えない。薬を入れる小瓶を探して煮沸消毒してくるわ。ここは寒いから居間で待っていて」
凜華はそう言い残すと、足早に研究室を出て二階へ上がっていった。
絃楠は言われた通り、研究室を出て居間に向かった。
居間の入口前に来たところで、台所から出てきた寿寿と出くわした。
寿寿は絃楠の姿を見るなり、顔を輝かせて言った。
「あっ、絃楠さん! 来てらしたんですね」
寿寿は絃楠のことが大層お気に入りである。
美しく優しく、意外と力持ちであり、時折見せる物憂げな表情もたまらない。見ているだけで胸がキュンとするのだった。
先日の殺人事件で、憧れの蒼蓮は逮捕されてしまった。
傷心の彼女にとって、絃楠はまさに「日照りに雨」だった。
「すみません。裏口から直接研究室にお邪魔してしまいました」
「外は風が冷たくて寒かったでしょう。今、おやつのお餅を作っているところなんです。身体が温まるものにします。ぜひ食べていってください」
「いえ、寿寿さん。お気遣いは無用――」
絃楠が止める間もなく、寿寿は台所へ戻っていった。
台所に戻ると、寿寿は蒸籠の蓋を開けた。中には、蒸し上がった真っ白な山芋が転がっている。すでに粗熱は取ってある。
餅を作るといっても、高級品である米は滅多に手に入らない。
寿寿は、その時々に厨房にあるものや余っている食材を貰ってきていた。今は、凜華が薬膳の材料として重宝する「山芋(自然薯)」が山のようにある。
山芋を潰そうとして、彼女は気がついた。手頃なすり鉢が台所にない。
研究室なら予備のすり鉢があるだろうと思い、寿寿は研究室へ行った。
卓の上にはすり鉢が置かれており、中には水が入っている。
「よかった! ちょうどいいわ」
寿寿はすり鉢を台所へ持ち帰ると、山芋をどさりと投入し、すりこぎで一気に突き潰した。
この山芋に厨房で余っていた「蓮根粉」を合わせれば、極上の弾力が生まれる。
ねっとりとした粘り気が出てきたところで蓮根粉を混ぜ込むと粉はじんわりと糊化し、米の餅にも負けないツヤと手応えが生まれた。さらにあらかじめ蒸して甘みを凝縮させておいた「もち栗」を潰して加えた。
最後にほんの少々の食塩を振って全体の旨味を引き締めると、すりこぎで力強く均一に練り上げていく。
栗の素朴な黄色が混ざった特製の生地が完成した。
寿寿は手水をつけて生地を器用に丸め、ツヤツヤとした形の良い団子にして皿へ並べた。
寿寿は団子の皿や小鍋を乗せた盆を持って、居間に行った。椅子の座った絃楠の前に皿を置いた。
「できました! ふわふわの芋餅です」
絃楠は芋餅を見て目を細めた。
「芋なのですか? お米で作ったお餅みたいですね」
「これだけでも美味しいのですが、寒い日はやっぱりこれです。煮込んでおいた甘い餡!」
寿寿は、小鍋に入った小豆餡をお玉ですくい上げた。これは直前までかまどで煮ていたものである。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
温かい餡が、芋餅の上にたっぷりとかけられる。
ところが、次の瞬間。
白かった芋餅の表面が、餡が触れた部分から不気味な変色を始めた。
最初は灰色、次にどす黒い紫、瞬きする間に禍々しいほどの漆黒に染まってしまったのである。
「ええええっ!」
寿寿はお玉を握りしめたまま、悲鳴を上げた。
「お、お餅が……黒焦げになった?」
絃楠も、目の前で起きた錬金術のような変異に目を丸くした。
「これは……どういうことなのか。餅が真っ黒になるなんて。鉱物性の毒は、銀に触れると黒くなると言いますが」
「ど、毒? 違います。私、毒なんて入れていません。山芋と蓮根の粉ともち粟……かけたのも小豆の餡です。食材しか使ってません」
「寿寿さんが入れたなんて思ってませんよ。外部で混入された可能性もありますので……」
「そんな」
寿寿は立ちすくんだまま真っ青になった。




