第111話 翠玲幻戯団殺人事件<十二>
先春殿での前代未聞の惨劇から一夜が明けた。
翠玲幻戯団の劇団員たちは、外廷の一角にある詰所に留め置かれ、刑部からの沙汰を待っていた。
座長の藍芳や団員たちに罪があるわけではない。とはいえ、劇団を支えていた花形役者が妃の御前でその侍女を殺害したのである。
全員が連座してなんらかの刑に処されてもおかしくはなかった。
食事は支給され、荷物も全部持ち出せたが、取り調べが終わるまでは一歩たりとも外に出られない。
女たちは不安に包まれながら、身を寄せ合って過ごすしかなかった。
一方、下手人である蒼蓮は、石造りの獄舎へ連行された。彼女は収監されてからというもの、隙あらば舌を噛み切ろうとしたり、壁に頭を打ちつけたりと狂乱の態で何度も自殺をはかった。
そのため、見張りたちの手によって麻縄で厳重に縛り上げられ、口には麻布を丸めた猿轡を噛まされていた。
再び夜になった。
薄暗い牢の中、藁の上に座らされた蒼蓮は薄汚れた石の壁をぼんやり見つめていた。
彼女の脳裏を巡るのは、かつて花蘭と過ごした眩しい日々の記憶だった。
数年前、二人がまだ「希代の名コンビ」と謳われ、純粋に芸の道を突き詰めていた頃のこと。
舞台には幻想的な白煙が立ち込め、雲海を模していた。
「行こう、天へ。あの人を迎えに」
天を仰いだ蒼蓮が、鋼線に引かれて宙へと舞い上がる。
彼女は上空で大きく旋回し、芸を披露した。
客席に月の女神に扮した花蘭が軽やかに躍り出る。上空から急降下した蒼蓮が、その細い腰を力強く抱きしめてさらってゆく。
「お前」
「あなた」
飛び上がりながら二人は見つめ合い、呼吸を一つにする。
二人は一本の綱に吊られ、重力から解き放たれたかのように華麗に舞った。
蒼蓮が抱きかかえた花蘭を空高く放り投げる。花蘭は三回転して、再びその腕に飛び込む。
互いの命を預け合う究極の信頼関係。
絡み合っては離れ、また引き寄せられる指先は、磁石のように固く結ばれている。
花蘭は蒼蓮の腕や身体を軸に、羽が生えたかのような身軽さで曲芸を披露する。宙返りをし、片手一本で蒼蓮にぶら下がり、彼女の肩の上で見事な倒立を披露した。
「おおっ……!」
観客たちは瞬きを忘れ、ぽかんと口を開けたまま離れ業を見守る。
技が決まるたび、花蘭は弾けるような笑顔を見せた。彼女をしっかりと受け止める蒼蓮の口元にも、役を超えた本物の慈しみが浮かんでいた。
二人は幸福の絶頂にあった。
すべての技を決めると、抱き合ったままゆっくりと舞台中央へ戻っていく。
そこで舞台は暗転した。
再び明かりが灯った時、そこには静謐な悲しみが満ちていた。
月の女神は、膝の上に愛しい男の頭を乗せていた。
男は人間。女神との愛をまっとうせんとして天界に昇ったが、人の身体が耐えられる環境ではなかった。彼は天上にたどり着いた瞬間に息絶えていたのだ。
女神は動かなくなった男の冷たい頬を撫で、叶わなかった逢瀬の夢に耽る。
「……あなた。どこへ行ったの。どうして私を一人にするの。ずっと一緒だと言ったじゃない」
女神の目から一筋の涙がこぼれ落ちる。彼女は顔を伏せ、男をひしと抱きしめる。
客席からは啜り泣く声が聞こえ、続いて万雷の拍手が鳴り響く。
感動の余韻の中で幕が下りる――。
舞台上では死別しても、それはあくまでも演目。蒼蓮は幕が下りると身を起こし、花蘭と固く抱き合った。
公演後は客席に降りて現地の有力者や贔屓筋に挨拶し、宴席にも出て酌をして回った。
翌日の公演の準備を終えて、部屋に戻るのはいつも深夜だった。
いつも花蘭と二人で食事をし、抱き合って眠った。
あの幸福な日々が永遠に続けばよかったのに……。
――なぜ、花蘭の愛を信じられなかったのか。
猿轡の奥、蒼蓮は血の混じった唾液とともに、苦い後悔を飲み込んだ。
思い返せば、劇団に売られてきた女たちはみな地獄を見てきた者ばかりだった。
親の借金のカタに売られた者、日常的に虐待を受けていた者、幼い頃から売春を強要されていた者。
女というだけで搾取され、踏みにじられるのが当たり前の世界で、互いの傷を舐め合うようにして生き延びてきた。
蒼蓮と花蘭も例外ではなかった。
必死に稽古に励み、ようやく役者として舞台に立てるようになっても、芸事以外の奉仕を求められた。
男の身勝手さと暴力性を憎み、辟易していた花蘭が金を持っているだけの放蕩息子になびくはずはなかった。
花蘭の冷たい言葉の裏にあった声にならない悲鳴。なぜそれに耳を傾けようとしなかったのか。
あんなに近くにいたのに。ずっと一緒にいたのに。
二人で一つの魂を分け合っていると信じていたのに。
もう生への執着はなかった。
己の愚かさを呪いながら、一刻も早く死んでしまいたい。
あの世で花蘭の足元にひれ伏して詫びたかった。
この縛めさえ解ければ、すぐにでも己の喉笛を掻き切るのにと、蒼蓮は血走った目で虚空を睨みつける。
鉄格子の外、松明の炎がチラチラと揺れる通路では、二人の牢番が退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
牢の方を見ながら一人が言う。
「聞いたかよ。あの女、公演中によりにもよってお妃の侍女をブッ殺したらしいぜ」
「ああ、聞いた聞いた。なんでも空を飛びながら見えない糸で首をスパッとやったとか。恐ろしい手品もあったもんだ」
もう一人が、腰に下げた鍵束をチャラチャラと鳴らしながら卑屈に笑う。
「蕭家の口利きで公演を許されたってのに、とんでもねえ恩知らずだ。蕭家の面目は丸潰れだろ。まったくふてえ野郎……じゃねえな。ふてえアマだぜ」
言いながら、縛り上げられている蒼蓮を覗き込む。
「にしても、人気役者だけあってすげえ美人だな。男のなりをしてるが顔立ちも身体つきも極上品だぜ。これを処刑しちまうのは勿体ねえ気がするなあ」
「馬鹿野郎、滅多なことを言うな。蕭家の陳情次第じゃ凌遅刑になってもおかしくないんだぞ」
ひそひそと下品な話を交わす牢番たちが、鉄格子の前から去りかけたその時だった。
突然、蒼蓮の目がカッと見開かれた。
縛られた身体をよじり、猿轡の奥から「んーんーっ!」と何かを伝えようとする、くぐもった叫びを漏らした。彼女の視線は牢番たちではなく、その背後に向けられていた。
「ん? どうしたんだ、急に暴れ出して」
牢番が不審に思った瞬間、フッと風が吹き抜けたかと思うと、壁の鉄枠に掛けられていた松明の火が消えた。
「うおっ!」
獄舎の通路は、完全な暗闇に包まれた。燃料である松脂と獣脂の焦げた匂いだけが鼻を突く。
「どうした。風か?」
「暗くてわからねえ! おい、火打ち石を……」
牢番の声は、鈍い打撃音によって途切れた。
「なっ、何が起き……?」
もう一人も背後から強烈な一撃を食らい、声もなく崩れ落ちる。
暗闇の中、チャリンと鍵束が奪われるかすかな音が響く。
続いて、重い鉄格子の扉が油の切れた蝶番を軋ませながら開く音がした。
暗闇の中、誰かが牢の中へ入っていく。衣擦れの音と、何かを担ぎ上げるような気配がした。
「う、うう……」
しばらくして、牢番が呻きながら意識を取り戻した。
床を這いずって、手探りで火打ち石を見つけ、震える手で予備の松明に火を灯す。
ぼんやりとした赤い光が、再び獄舎の通路を照らし出した。
「おい……しっかりしろ! 起きろ!」
同僚を揺さぶって起こした牢番は、開け放たれたままの鉄格子の扉を見て血の気を失った。
慌てて牢の中を覗き込む。そこには、切断された太い麻縄の残骸が転がっているだけで、蒼蓮の姿は跡形もなく消え失せていた。
「だ、脱獄だあああ――ッ!」
牢番の悲鳴が獄舎にこだました。
「女がいなくなった。誰か来てくれ!」
深夜の外廷は、にわかに大騒ぎとなった。
松明を手にした衛兵たちが慌ただしく走り回る。
元々閉じられていた宮城の門に、多くの兵士が集まって捜索が始まる。
しかし、いくら探せども、男装の麗人の行方はようとして知れなかった。
この日を境に、蒼蓮は宮城から煙のように消え失せてしまったのである。




