第110話 翠玲幻戯団殺人事件<十一>
先春殿での特別公演は、文字通り「死の舞踏」をもって幕を下ろした。
激しい殺陣や軽業、華やかな衣装、幻惑的な音楽。
それらすべてを切り裂くように起きた殺人事件は、凜華の観察眼と、物理法則に基づいた推理によってスピード解決を見たのである。
事件の事後処理は刑部に移り、凜華は寿寿を伴って壺天閣への帰路についた。
夜の後宮は、先ほどまでの狂騒が嘘のように静まり返っている。冷たい風が運んでくるのは、遅咲きのジャスミンの香りと、どこかで鳴く秋虫の声だけだった。
隣りを歩く寿寿はすっかり肩を落とし、足取りも重い。
手燭の灯りが、彼女の泣き出しそうな横顔を照らしている。
「……凜華さん。私、いまだに信じられません」
寿寿が沈黙を破った。声は暗く、どこか湿った響きがある。
「蒼蓮さんが恋人を……花蘭さんを殺しただなんて。だって開演前に挨拶に来てくれた時は、あんなにも笑顔で優しそうだったのに」
寿寿にとって、芝居は滅多に観られない夢のような世界だった。願わくば、ずっとその夢に浸っていたかった。
「お芝居って、表も裏もキラキラしているものと思っていました。役者さんたちはみんな、おとぎ話の中から抜け出してきたみたいにきれいで、悲しいことなんて一つもない世界なんだって……」
凜華は歩みを止めず、夜空に浮かぶ月を見上げた。
「そうだったらよかったよね……」
凜華の声音には、不器用な労りが滲んでいた。
芝居は現実の延長線上で演じられるものだ。役者たちも生身の人間であり、きれいごとだけで生きているわけではない。愛の名を借りた執着と狂気は、たやすく人間の理性を破壊し、破滅へと突き進んでしまう。
……が、それを今、傷ついた少女に説いたところで何になるだろう。
壺天閣の敷地内に入ると、松明の灯りが幾つか見え、玄関前に李元が立っていた。彼がここにいるということは……そういうことである。
李元が声を潜めて告げた。
「お帰りなさいませ。中で陛下がお待ちです」
長楽殿からの迎えではなく、景雲本人が来ている。長い一日だったが、まだ続きがありそうだ。
「はーい」
凜華は務めて明るく答えると、寿寿に向き直った。
「寿寿、今日はもういいから。ゆっくり休んで」
「……はい。お休みなさい」
寿寿は一礼すると、外の階段から二階へ上がっていった。
後ろ姿を見送った後、凜華は一つ深呼吸をし、扉を開けた。
居間に入ると景雲は長椅子に腰掛け、卓に置かれた茶碗を弄んでいた。薬用酒を持ち込んで手酌で飲んでいたようである。
凜華に気づくと、彼はいささか同情的な視線を向けた。
「今日は災難だったな。芝居見物に行ったら、本物の血飛沫を浴びることになるとは」
「はやっ」
凜華は思わず叫んでしまった。
「もう事件のことを知っているの?」
景雲はこともなげに言った。
「現場に絃楠がいたからな」
どうやら絃楠は昼間から先春殿に潜んでいたらしい。
舞台も後方から鑑賞しており、異変が起きるや否や、刑部と兵を呼びに走った。刑部の到着が異様に早かったのは、彼の働きによるものだったのである。
その後も、絃楠は凜華が犯人を割り出す様子をつぶさに見、景雲に報告したのだった。
「……道理で」
凜華は納得しつつ椅子に腰を下ろした。
景雲が後宮に張り巡らせた情報網は頼もしくあり、空恐ろしい心地もする。
景雲は茶碗を傾けながら言った。
「お手柄だった。もし混乱する中で、下手人が帯を処分していたら捜査は難航しただろう。……といっても、わからない部分もある。仔細を述べよ」
「うん」
凜華は膝に両手を置くと、先春殿の広間に戻って以降のことを話し始めた。
凜華の話を聞き終えると、景雲は残念そうにため息をついた。
「惜しいことをした」
「惜しいって何が?」
景雲は凜華の顔をじっと見た。眼光が支配者としての鋭いものに変わる。
「蒼蓮という役者と花蘭という侍女だ。殺人を犯さなければ、二人まとめて雇ってもよかったのだが」
「役者として?」
「芝居に興味はない。専属の役者なぞいらん」
「だったら……間諜として、とか?」
凜華が上目遣いで尋ねると景雲は頷いた。
彼は以前から、手駒として女間諜の数を増やしたいと考えていた。
軽身功を身に着け、雑技や軽業で鍛え上げた劇団員や軽業師は間諜としてうってつけである。景雲は常々、絃楠や草の者たちにめぼしい者がいたらスカウトしてくるよう命じていた。
話を聞くに、蒼蓮の身体能力の高さは驚異的だ。
回転しながら鋼線で切りつけるというのは、非常に高度な暗殺テクニックである。並の者にできることではない。
彼女の動きについてゆける花蘭も同様だろう。先春殿から引き抜いて、配下に加えてもよかったが……。
「旅の一座というのも使い勝手がよい。巡業と称して、地方や他国に送り込むことができる。仕事さえこなせば団員同士で恋愛しようが、女色に耽ろうが知ったことではない」
「そうだね」
凜華は、景雲の冷徹さを責める気にはなれなかった。
上に立つ者のリスク管理として、彼の考えはきっと正しい。
「生きていて、使えさえすればの話だが」
「うん……」
「どうした。お前にしてはおとなしいな」景雲が意外そうに言った。
「なかなか考えがまとまらなくてね……」
凜華は困ったように眉根を下げた。現場でのことを思い出しながら言った。
「正直にいえば腹が立った。あまりにも身勝手すぎて。こんなの加害者側にとって都合のいい無理心中でしかない」
「無理心中、か……」応える景雲の声はどことなく沈んでいる。
「それも主役自ら公演を壊したんだから。本当にひどい話だよ。楽しみにしていた人も多かっただろうに」
結局、古典劇「蒼月飛天」の結末もわからずじまいである。観客の多くが悲しみ、もやもやしたものを抱えて帰路についただろう。
『たとえ元恋人であっても、花蘭さんはあなたのものじゃない。あなたに彼女を殺める権利はない』
『あなたの醜い独占欲、自己満足の産物でしかない』
凜華は怒りに任せて、よほどそう言おうかと思った。
「でも、そう単純な話でもないんだろうなって……」
花蘭は自分たちの後ろで、一体どんな気持ちで公演を観ていたのか。どんな思いで飛び出したのか。
「梅妃さまの説明じゃ、花蘭さんは緩慢な自殺を選んだような気がしないでもないし」
「侍女の方が死にたがっていたのか?」
「先春殿では、舞や雑技でみんなを楽しませて重宝されていたみたい。居場所がなかったわけではないと思う。それでも、彼女はかつての恋人が出る舞台が観たかった。会えばどうなるかわかっていても」
「……そうか。難儀な話だな」
景雲は口には出さなかったが、加害者である蒼蓮が抱えていた激しい嫉妬や喪失感、憎悪の感情はなんとなく理解できるような気がした。
……もし、凜華が他の男の元へ走ったら。
景雲の脳裏にありえない、想像しただけで五臓六腑が煮えくり返るような光景が浮かぶ。
凜華を殺して自分も死のうとは思わない。そんな馬鹿げた感傷や自傷はご免だ。
だが、相手の男に容赦はしないだろう。捕らえて八つ裂きにし、九族まで根絶やしにするかもしれない。少なくとも自分にはそうできる力があるし、そういう血が流れている。
人間は誰しも狂気の芽を持っている。それは強固な理性の下にも必ず潜んでいる。いつ、どんな毒水を与えられて芽吹くかなど誰にもわからない。
「どうしたの? 怖い顔をして」
凜華が首を傾げながら、景雲を覗き込んだ。
「……いや。お前がいつか、私の理解を超えた常識外なことをせんとも限らんと思ってな。予防線を張っていたところだ」
凜華はむっとし、目の前の男を睨みつけた。
「そんなことしないよ」
「どうだかな」
フンと鼻を鳴らすと、景雲は長椅子にごろりと寝転がった。
「さて、夜も更けた。……今日はこのままここで休んでいくとしよう」
「ちょっと。こんなところで寝られても困るよ。自分の宮に帰りなよ」
「嫌だ」
「も~! 我儘なんだから」
景雲はにやっと意地悪く笑う。
「なんなら、お前の寝所に行ってもいいぞ」
「だめ。プライバシーの侵害です」
ブツブツ言いつつも、凜華は立ち上がり景雲にかけるための毛布や枕を取りに行く。待機している李元たちにも、皇帝はここに泊まる旨を伝えなくてはならない。
凜華の後ろ姿を薄目で追いながら、景雲は胸に安堵に似たものを広がるのを感じた。
疲れも相まって急に眠気を覚える。
少なくとも今の彼にとっては、凜華と過ごす時間が最良の精神安定剤であり、安眠の秘訣なのだった。




