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ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない   作者: kiyoaki
第二部

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第109話 翠玲幻戯団殺人事件<十>

 藍芳が皺を刻んだ目元に袖を押し当てた。

「愚かな子です。本当に……どうしようもない娘です。花蘭が去った後、蒼蓮は何度も命を絶とうとしました。真冬の川に入水しようとして、団員総出で取り押さえたこともございます。情けないことですが、花蘭の代わりが務まる坤旦はおらず。『蒼月飛天』も蒼蓮の一人二役に頼るしかない状況で……」

 泣きながらも、藍芳は蒼蓮に向き直った。

「でも、違う。花蘭はお前を裏切ったわけではない。あの子はお前を愛していた」

 蒼蓮は激しく首を振った。

「嘘だ。母さん、おかしな気休めはやめて」

「今更嘘を言ってどうなるんだい。本当に悔しくて仕方ないよ。すべてはろくでもない……穀潰しの親が元凶だったのに」


 藍芳の口から語られた真実は、あまりにも救いがないものだった。

 花蘭の両親は、娘を売った金すら酒と賭博で使い果たし、さらに莫大な借金を抱え込んでいた。

 彼らは、幼い時分に売り飛ばした娘が人気役者になっていると知るや否や、金の無心に現れたのだ。子ならば親を助けるのは当然と言い、花蘭が断ると大声で恫喝し地面を転げながら泣きわめいた。

 花蘭は悩みつつも当初は自分の稼ぎを渡していたが、彼らは劇団の行く先々に現れ、要求はエスカレートするばかりだった。

 果ては「お前は誰のおかげでこの世に生まれてこれたんだい? 実の親が食べるものにも困っているというのに、小遣い程度の金すら渋って本当に薄情な娘だよ。お前がそんな態度なら下の妹たちを売るしかない。妹が薄汚い宿場の女郎になってもいいのかい」と脅しをかけてきたのである。

 劇団にいる限り、毒性な親はどこまでも追ってくる。いくら金を渡してもきりがない。


 何より花蘭が恐れたのは、一番の人気役者であり稼ぎ頭である蒼蓮が巻き込まれることだった。

 もし二人の関係を知られれば、親は蒼蓮も食い物にしようとするだろう。

「花蘭は苦慮の末に……結婚を申し込んできた領主の息子に金を工面してもらい親の借金に充てたのです。自ら泥を被って別れを切り出し、劇団を去っていきました」

「なっ……。母さん、あなたはそんなことを一度だって言わなかったじゃないか。なぜ黙っていたんです」

 蒼蓮は驚き、藍芳の肩を掴むと強く揺さぶった。藍芳はされるがままになりつつも、蒼蓮の手を掴み返す。

「私はね、花蘭から固く口止めされていたんだよ。お前が知ったら、自分や家族の借金まで背負おうとするだろうと……。そうはなって欲しくなかった。花蘭はお前を守りたい一心だったのだよ」

「なぜ、なぜだ……。借金がなんだ。そんなものがなんだっていうんだ!」


 蒼蓮が叫んだ時、冷ややかな声が広間に響いた。

「このたわけ者」

 口を開いたのは、それまで沈黙を守っていた梅妃であった。彼女はじっと蒼蓮を見つめた。

「そちは女でありながら、男に扮するあまり女の心を失ったのか。子供の頃から共に暮らしてきたのであろう。花蘭のことは、そちが一番よく知っておるはず。なぜ信じてやれなかったのだ」

「信じておりました」蒼蓮は噛みつくように言った。

「ですが結局は同じです。花蘭が私を捨てたことには変わりありません。花蘭は男と結婚し、後宮に勤め……」

 梅妃の顔が曇る。

「市井でどんな噂が流れているのやは知らぬが、ここはそちたちが思うほど安楽なところではない。花蘭の結婚生活が順風満帆なら、後宮になぞ来るものか」

「えっ……?」

 梅妃は確認するように、控えた但娘に目配せした。但娘は沈痛な面持ちで頷いた。

 梅妃は覚悟を決めたように言った。

「花蘭は夫に捨てられてここへ参ったのだ」

「……」蒼蓮は絶句した。


 藍芳が「梅妃さま」と呼び、身を乗り出した。

「どういうことなのでしょうか。私も花蘭は結婚して平穏な暮らしを送っているものと」

「花蘭の夫、領主の放蕩息子とやらは実に軽薄な男でな。大金を積んで手に入れた花蘭に、あっという間に飽きてしまったのだ」

「飽きた……」蒼蓮が呟く。彼女にとっては到底信じがたいことだった。

「もとより遊び人のこと、すぐに放蕩三昧に戻りおった。そして新たに手をつけた女を屋敷に入れるために、花蘭を体よく厄介払いした。『出仕』という名目で後宮に放り込んだのじゃ。花蘭は夫に捨てられ、後宮で下女として働いていた」


「下女……花蘭が下働きを?」蒼蓮は茫然とした。

「うむ」梅妃は頷いた。

 水汲み、床磨き、汚物の処理……。花蘭は日々淡々と与えられた仕事をこなした。

 劇団員だった頃の癖は抜けず、雑役をこなす際にも軽身功の歩法を使っており、手先も器用だった。

 同僚に乞われると宙返りをして見せたり、優雅な舞を舞ったりした。頭と両手に水の入った茶碗を乗せたまま円舞を演じたこともある。どんなに早く回転しても、茶碗の水は一滴もこぼれなかった。

 花蘭の持つ特技は、次第に評判になった。

 元劇団員だとわかると、先春殿に侍女兼芸者として召し上げられたのだった。


「元々、私にお前たちを後宮に呼び寄せ、公演を観るよう勧めたのは花蘭であった」

「……花蘭が?」

 蒼蓮だけでなく、藍芳や凜華たちも息を呑んだ。

「花蘭は舞や寸劇、雑技を見せて私や他の者たちを楽しませた。みなが彼女の芸を愛した。そうじゃな、但娘」

 話を振られた但娘が大きく頷く。

「はい。花蘭はことあるごとに、歌や踊りで私たちを慰めてくれました。芸事を見せる時の彼女は、本当に生き生きしていて、見ているこちらも嬉しくなるほどで……。私たちは花蘭が技を決めるたびに、花や香や菓子を包んだおひねりを投げて、観劇ごっこを楽しんでいたのです」

 かつて坤旦のトップであった花蘭の芸は衰えていなかった。彼女は先春殿のお抱え芸者として、女たちの退屈な日々に喜びと潤いを与えていた。


 梅妃は続けた。

「ある時、気まぐれに蕭家が翠玲幻戯団なる一座を後援していることを話したのだ。そうしたら花蘭は言った。『ぜひともその者たちをお呼びください。私以上の素晴らしい芸が観れます』と。あまりにも熱心ゆえ、私は根負けして実家に文を出した。お前たちを後宮へ呼ぶよう頼んだのだ」

 梅妃の脳裏に、公演が決まった日の花蘭の姿が蘇る。

 花蘭は喜びに打ち震えながらも、ひどく思い詰めたような、何かに憑かれたような顔で主人を見つめた。

「梅妃さま。私は……死ぬかもしれません」

「何事か」と尋ねる梅妃に対し、花蘭はふっととろけるような笑みをこぼした。恋を夢見る少女のような、恍惚とした声で答えた。

「でも、いいんです。……死んでもいい。舞台の上のあの人をもう一度見られるなら……」

 花蘭は、蒼蓮と古巣の劇団が後宮に来る日を指折り数えて待っていたのだ。


「……今ならばわかる。なぜ花蘭があのようなことを言ったのか」

 梅妃のみならず、今この場にいる全員が理解した。

 花蘭は、自分が蒼蓮に憎まれていることを知っていた。

 裏切ったと思われていることも、蒼蓮の心に癒えない傷を負わせたことも。

 だからこそ、公演の終盤で宙乗りをする蒼蓮が「合図」を送ってきた時……花蘭はその意味を瞬時に悟ったのではないか。

 いや、気づかなかったとしても結果は同じだっただろう。

 彼女は愛する蒼蓮に(いざな)われ、炎に飛び込む羽虫のように死への一歩を踏み出した。

 彼女の手にかかって死ねるなら、本望とでも言うように。


「ああ……ああああああああっ!」

 広間に耳をつんざくような絶叫が響き渡った。

 蒼蓮は床に這いつくばり、白布越しの冷たい亡骸を抱きしめた。その頬に自らの顔を擦り付けた。

「なぜだ。男に捨てられたのなら、どうして戻ってこなかった。帰ってくればよかったじゃないか。私がお前を突き放すわけがない……。どんな姿になっていようと、私はお前を許したのに。受け入れたのに……どうして」

「それは無理な相談じゃ」

 梅妃が嘆息しながら、憐れみ深く言った。

「後宮に入った女は、たとえ自らの意志で出仕したとしても外へは出られぬ。出られるとしたら、家族か夫が引き出しに来た時だけ。夫は花蘭のことなど忘れておろうし、家族の元に戻るのは論外であろう」

 花蘭に、後宮を出て劇団に戻るという道は存在しなかった。

 彼女は閉ざされた女の園で、一人ひっそりと生きていくしかなかったのだ。


 蒼蓮の慟哭は、もはや言葉にならなかった。

 彼女は花蘭の亡骸に覆い被さり、ひたすらに泣き続けた。

「花蘭!」

 藍芳もたまらず叫び、花蘭の遺体にすがる。

 団員たちもわらわらと飛び出して、花蘭の遺体をとり囲んだ。硬直し始めた手を握り、懸命にさする。

「姐さん、花蘭姐さん!」

「やだよ。こんなの嘘よ。お願いだから目を開けてよ」

 後に続くのは、役者たちの重なる慟哭と悲劇の幕引きを告げるような晩秋の風の音だけだった。


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