第108話 翠玲幻戯団殺人事件<九>
「私は……花蘭に捨てられたのです」
蒼蓮の瞳に、暗く激しい情念の炎が浮かび上がった。
かつての相方の亡骸をひどく虚ろな、そして怨念に燃える双眸で見つめた。
そこに後悔の色は微塵もなかった。むしろ復讐を成し遂げたという歪んだ喜悦、満足感すら滲んでいる。
「花蘭は私を裏切った。役者も辞めた。領主の息子の妻に収まり、後宮勤めまで始めて……。ずっと一緒だと、死ぬまで同じ舞台で生きると誓ったのに!」
それは己の腹の底に溜め込み、じゅくじゅくと発酵し続け、ついに猛毒へ変異した感情の吐露であった。
蒼蓮は低い声で笑った。
「だから、思い出させてやったのです。私たちにしかわからない合図で。花蘭は見事な足さばきで前に出た。あの瞬間だけは違った。花蘭は笑っていたように見えた。彼女の最期は私のものだった……」
女たちが見守る中、蒼蓮はぽつりぽつりと自身の過去を語り始めた。
蒼蓮は地方の村に生まれたが、幼い頃に故郷は鉄砲水に呑まれて沈んだ。蒼蓮は、間一髪で水害から逃れられた数少ない生き残りだった。
水が引くと、更地となった村には怪しい人買いや旅の芸能一座が入れ替わり立ち替わりやってきた。彼らは食べ物や衣類で生き残った人々をおびき寄せた。器量がよく商品になりそうな子供を連れていくためである。
蒼蓮もまた巡業の途中で立ち寄った藍芳に拾われた。置いていかれても飢えて野垂れ死ぬだけ。一座についていくしかなかった。
孤児となった蒼蓮に対し、花蘭はわずかな銀子と引き換えに親に売られて劇団に入ってきた。
寄る辺ない二人は、寒さを凌ぐ小鳥のように身を寄せ合い厳しい役者修行に励んだ。泥水をすするような下積み時代を経て二人は才能を開花させ、坤生と坤旦、劇団を背負って立つ名コンビとなった。
舞台の上で二人が織りなす幻想的な演武や雑技は、各地の公演で絶賛を浴びた。
だが、人気が出れば出るほど、醜悪な現実が彼女たちに牙を剥いた。
「地方に行けば、脂ぎった大人どもが必ずと言っていいほど性的な奉仕を要求してきた。屋敷の奥に閉じ込められて襲われそうになったことも一度や二度ではない。私たちはそのたびに助け合い、軽業を使って塀をよじ登り、屋根伝いに走って逃げたものだった」
男たちの毒牙から逃れ、暗い路地裏に隠れて息を潜めるたびに二人の絆は深まっていった。やがてそれは狂おしいほどの愛情へと昇華していった。
蒼蓮は頭を抱えると呻くように言った。
「私は……私はだめなのです。一人では何もできない。花蘭なしでは立ち行かない……。役者を続けることも苦痛で仕方なかった。座長には育ててもらった恩があるし、みなにも頼られたけど……もう限界だった。なんとかして花蘭を探し出してこの手で……。その後に私も死ぬつもりだった。ずっとそれだけを願ってきた」
いたたまれなくなったのか、隅に控えていた藍芳がすり足で出てきた。蒼蓮の隣りに並ぶと平伏し、口を開いた。
「どうかお許しください。花蘭は蒼蓮の想い人、蒼蓮は花蘭の想い人でございました」
二人は劇団公認の恋人同士で、実質的に夫婦同然の生活を送っていた。
蒼蓮はことあるごとに「花蘭とずっと舞台に立つ。身体が動かなくなったら引退して、二人で後進を育てよう。死ぬまで一緒にいよう」と語り、花蘭も嬉しそうに頷いていた。
藍芳自身もいずれは蒼蓮に座長の座を譲り、花蘭が支えていくという未来を疑っていなかった。
しかし、幸福な日々はある日突然崩れ去った。
花蘭が劇団の贔屓であった地方領主の息子と結婚し、引退すると言い出したのである。
思い出すだけでも苦痛なのか、蒼蓮の噛みしめた唇から血が滲んだ。
「私は驚愕し、取り乱した。這いつくばって取りすがり、捨てないでくれと懇願した。だが、花蘭は私を見下ろして言った。『もうこんな浮草暮らしは嫌。いつまでたっても子供のようなあなたにもうんざり。私は、お金持ちの旦那を持って贅沢な暮らしがしたい』と。私を罵倒し、突き放し、劇団を去っていった」
残された蒼蓮の絶望は、筆舌に尽くしがたいものだった。
花蘭が去った後も、蒼蓮は空っぽの心を抱えたまま役者を続けた。その原動力を支えたのは、ひとえに花蘭に対する「激しい憎悪」であった。
蒼蓮は贔屓筋からの情報で、結婚した花蘭が都へ移り、後宮に出仕したことを知った。
花蘭は自分を忘れ、男の元で贅沢な生活をしている。果ては女官として後宮に勤め、華やかな日々を送っている。
花蘭が、自分以外と人間と幸せに暮らしているという事実が蒼蓮の心を苛んだ。そんなことは到底許せなかった。
だからこそ後宮での公演が決まった時、蒼蓮は決意した。
花蘭が公演を観にくることを期待して、この恐るべき殺害方法を考え出したのだ。
蒼蓮は虚空を見つめたまま、ぼんやりと言った。
「だが、先春殿に入った後も迷いがあった……。本当に花蘭を殺めていいのかと」
迷いながらも、蒼蓮は藍芳と共に挨拶に出た。役者の仮面を被り、愛想笑いを浮かべて酌をして回った。
そして――見てしまった。
凜華たちの後ろを通り抜けていった優雅な影を。蒼蓮が夢にまで見た、愛しい女を。
それが料理皿を下げる花蘭だとわかった時、まごうかたなき本物の彼女を見た時、蒼蓮は息が止まるほど激しく動揺した。
花蘭も蒼蓮に気づいた。
いや、来ていることを知っていて、あえて彼女の視界に入らないようにしていたのかもしれない。
一瞬の邂逅。花蘭はかつての恋人に何の反応も示さなかった。何も見なかったように蒼蓮を無視し、飛ぶような足取りで広間を出て行った。
蒼蓮は眩暈を覚えた。彼女の中で、何か致命的な決壊が起きた。とてつもなく深く、どす黒く、救いがたい感情が洪水のようにあふれ出した。
それは積もりに積もった恋慕であり、果ても底もない憤怒だった。
――やらなければ。
蒼蓮は強く自分に言い聞かせた。
宮城には十日ほど前に入ったが、役者たちは外廷に留め置かれ、そこで稽古をしていた。蕭家の計らいにより後宮に入る許可を得たが、入れるのは公演日のみ。舞台がはねたらその日のうちに外廷に出なくてはならない。
この機会を逃したら、もう二度と花蓮とは会えないだろう。
それは死別と何が違うのだろうか。
彼女は誰にも渡したくない。ならば――。
「殺すしか、ないと」




