第107話 翠玲幻戯団殺人事件<八>
蒼蓮は数歩よろめき、その場に力なく膝をついた。
華やかな鳳凰羽帯が床に擦れる。絶対の自信を持っていた殺傷方法が、こんなにも早く白日の下に晒されるとは思わなかった。
「……どうして、わかったのです」
虚ろな目で呟く蒼蓮に、凜華は静かに告げた。
「決定打だったのは、あなたから香った松脂の匂い」
「……松脂?」
「あなたがこの凶行を考えた際、最も恐れたことは何かしら。それは繰り出した鋼線が、花蘭さんの肌の上を滑ってしまうことじゃない?」
凜華は、分銅付きの麻紐を持つと指でなぞった。
「鋼線は非常に硬く細い。けれど表面はなめらか。超高速回転中に対象物に触れても、大抵は跳ね返されるか浅い傷で終わってしまう。それでは、一撃で命を奪うことはできない。そこであなたが使ったのが松脂だった。松脂には摩擦係数を極端に高める性質がある。あなたはあらかじめ鋼線に松脂を塗り込んでおいた。鋼線が花蘭さんの喉に触れた瞬間、松脂の粘着性が効力を発揮した。あなたの回転が生み出した膨大な運動エネルギーが、あますことなく彼女の首に叩き込まれたのよ」
さらに、凜華の指摘は暗殺の「タイミング」へと及ぶ。
「松脂には別の用途もあった。あなたは帯から鋼線を出しっぱなしにしていたわけじゃない。そんなことをすれば、途中の激しい殺陣や舞で自分や仲間も傷つけてしまう。鋼線は、決定的な瞬間まで鳳凰羽帯の中に潜んでいなければならなかった」
凜華は、蒼蓮の腰の辺りを指差した。
「あなたは鋼線を巻き、松脂の粘着力を利用して帯の内側に『仮留め』したんじゃない? 松脂は一定の負荷がかかるまでは接着剤として機能する。通常の舞の回転では鋼線は飛び出さない。けれどあなたが宙に浮き、遠心力が物理的な限界……すなわち松脂の接着保持力を上回る『死の速度』に達した瞬間、外側へ弾け飛んだ。松脂はあなたにとって標的を屠るためのグリップであると同時に『時限式の安全装置』でもあったわけね」
凜華はふうっと大きく息を吐いた。憐れみを込めた目で蒼蓮を見つめた。
「あなたにとって計算外だったのは、私が松脂の匂いに敏感だったこと。松脂は可燃性。舞台で火薬を使う演出でもしていれば誤魔化せたかもしれないけど、そうではなかった。松脂自体はよく使われる素材で、周囲の人たちは気にしないと思う。けれど、私は腰の装具から匂いがするのは不自然に感じた。その小さな違和感が確信に変わったの。蒼蓮さん、あなたが纏っていたのは緻密に計算された殺意そのものだったのね」
凜華の推理が終わると、辺りは重苦しい沈黙が流れた。
みなは固唾を飲んで、対峙する二人を見守る。
「……信じていたのですよ」
蒼蓮が疲れきった声でポツリと言った。
「花蘭だけは、私を見捨てない。私がどんなに汚れても、落ちぶれても、私の『対』でいてくれると」
蒼蓮は、観念したように帯の結び目を解いた。鳳凰羽帯が重々しく床に滑り落ちる。
帯の裏側の構造が露わになった。帯の芯材には蛇腹状に細工された隠し溝があり、そこから一本の鋭い輝きを放つ鋼の線が姿を現した。
引き出された「百錬鋼」の糸は、松脂の粘着力によって、黒光りする不気味な光沢を放っていた。
蒼蓮が指を離すと、バネのような弾性でシュルシュルと螺旋を描く。飛天の舞の裏側に隠された死神の鎌そのものだった。
「速度が刃に変わる。……あなたの言う通りだ、薬師殿」
蒼蓮は、解かれた帯を足蹴にするようにして立ち上がった。
「花蘭を呼び寄せる合図は、かつて私たちが公演中に何百回と交わしたものです。視線と手ぶり。花蘭は合図を見た瞬間、席から立ち上がり私目掛けて走ってきた。……首を切り裂かれるとも知らずに」
「……お前。お前はなんてことを。本当に、なんてことを!」
藍芳が舞台を見上げながら激昂した。
「蒼蓮姐さん、ひどいよ。どうしたら花蘭姐さんにこんなむごいことができるの!」
「そうだよ。こんな大変なことをしでかして……あたしたちは一体どうなるのよ?」
団員たちも口々に叫ぶ。
寿寿は憧れていたスターの告白に絶句し、唇を噛んで震えている。
荒れる場を収めるように、パチンと扇を閉じる音がした。
梅妃だった。
「花蘭を殺した下手人は判明した。凜華、大儀である」
梅妃は立ち上がると、左右の侍女たちに下知を飛ばした。
「ゆえにこの場は解散とする。各々、速やかに自宮へ戻れ。後のことは蕭家と刑部が預かる。他言は一切無用じゃ。よいな?」
その声には、宮の主としての有無を言わせぬ迫力があった。
怯えながらも好奇心を隠せない妃たちは、侍女たちに促され、しぶしぶといった足取りで出て行く。
続いて下女や宦官たちも、ぞろぞろと後に続く。
先春殿に勤める者たちも持ち場に下がった。華やかだった舞台の提灯は次々と消され、中庭は薄闇に包まれた。
「さて……」
梅妃は、蒼蓮を氷のような眼差しで見つめた。
「蒼蓮。そちの罪はもはや覆らぬ。凜華が解いた物理の理に確たる証拠。言い逃れはできまい」
蒼蓮は力なく項垂れたままだった。返事をする気力さえ失ったように見えた。
「……だが。そちほどの役者が、なぜこのような残酷な振る舞いに及んだのか。刑部に引き渡す前に聞きたいことがある。共に広間へ来るがよい。凜華、そちもじゃ」
梅妃の促しにより、蒼蓮と藍芳、そして劇団員たちも広間へ行くことになった。
凜華はショックを受ける寿寿の肩を支えながら、梅妃の後に続いた。
広間の中央には、中庭から運ばれた花蘭の遺体が横たえられた。顔には白布がかけられている。凜華は寿寿と共に、梅妃の傍に座った。
広間の外には、刑部の役人たちが見張りに立っている。
庭を徘徊する兵士たちの鎧の音や、規則正しい足音も聞こえてくる。室内は女だけとはいえ、逃げ場はどこにもなかった。
蒼蓮は、遺体の前に座らされた。
「さあ、申せ。そちが花蘭を、かつての相方を殺めたわけを」
梅妃の声が重々しく響いた。
蒼蓮はゆっくりと顔を上げ、安置された亡骸を見つめた。




