第106話 翠玲幻戯団殺人事件<七>
凜華は麻紐の先に、分銅を固く結びつけた。
舞台の脇に立ててあった燭台を引き寄せると、中央にでんと置いた。
麻紐の端を指先で摘まむと一堂に見せた。
「これが凶器よ。今から実証するからよく見ていてね」
凜華が手首をゆっくりと回すと、分銅のついた麻紐が弧を描き始めた。それはただの柔らかい紐であり、燭台の蝋燭に当たっても、ぽふりと頼りない音を立てて弾かれる。
「このように、ただの紐は柔らかく何の殺傷力も持たないわ。しかし……」
凜華の目が細められた。彼女の手首の動きが速さを増す。
麻紐が回る音が、甲高い笛のようなものへ変わった。
遠心力によって外側へ猛烈に引っ張られた麻紐は、先程までの柔らかさが嘘のように、一本の真っ直ぐな棒のごとく張り詰めている。速度が上がるにつれ、紐は目に見えないほどの残像と化した。
「速度は、物質の性質を変える。重りを持った紐は旋回の勢いを得た瞬間、凄まじい力で外へ引っ張られる。柔らかい紐は極限まで張り詰めた硬い棒、刃になるの。速度が倍になれば張り詰める力は四倍に、三倍になれば九倍へと爆発的にはね上がる」
凜華は旋回を維持したまま手首をふい、と自身の胸元へ引き寄せた。回転の輪が急激に小さくなった瞬間、紐の速度がさらに上がり、麻紐が限界まで研ぎ澄まされる。
辺りにパーンと破裂音が響き、女たちは身を竦ませた。
先程は紐を弾いた太い蝋燭が、刀で薙ぎ払われたかのように上半分を吹き飛ばされ、白い断面を見せていた。
「回転の輪を小さく絞り込むことで、力はさらに凝縮し、刃としての鋭さを増す。蒼蓮さん、あなたが空中で『宙乗り』の旋回をしていた時、これと全く同じ現象が起きていた」
蒼蓮をじっと見据えたまま、凜華は続ける。
「あなたの腰に巻かれた鳳凰羽帯。これはあなたを吊りあげる鋼線を装着するための装具よね」
「ええ、そうです。だからなんだと……?」
「おそらく、あなたは帯の中になんらかの細工を施した。極細で強靭な『百錬鋼』のようなものを仕込んだはず。あなたが凄まじい速度で客席の上を旋回した時、帯の中からその鋼線が飛び出た。花蘭さんの前に来た時、あなたは身体の重心をずらし、回転の円を小さく絞り込んだ。その瞬間、研ぎ澄まされた鋼線が彼女の喉元を正確に薙ぎ払ったのよ」
「……馬鹿な!」
蒼蓮の眉がピクリと動いた。
「飛んでいる私に、どうやって特定の人間を狙えるというのか。これだけ観客がひしめく中で」
蒼蓮の反論は、一見すると完璧な「空中密室」の証明であった。
いかに遠心力を用いて鋼線の刃を伸ばしたとしても、空中の軌道は滑車によって固定されている。
ターゲットが寸分違わずその刃の軌道(高さと位置)に立っていなければ、首を切ることは不可能である。
人間は案山子ではない。観劇中に姿勢を変えるかもしれないし、身を乗り出すかもしれない。不確定要素だらけの状況で、どうして花蘭の首だけをピンポイントで狙い撃ちできたのか。
「ええ、あなたから彼女の首を斬りにいくことはできないわ」
「そうです。そんなことは不可能だ」蒼蓮はどこかホッとしたような表情を浮かべた。
凜華は、花蘭の遺体に視線を落とした。
「でも、花蘭さんの方から『死の軌道』へ足を踏み入れたとしたら話は別」
「……何?」
蒼蓮の顔から余裕が消えた。初めて焦燥の色が浮かんだ。
「花蘭さんは私たちの後ろの席にいたわ。着席した状態で、彼女だけを狙うのは不可能。下手をすれば、私たちや梅妃さまに当たってしまう。だからこそあなたは標的である花蘭さんを、何らかの方法でおびき寄せたんじゃないかしら」
「おびき寄せた……だと?」
凜華は、藍芳や劇団員たちの方を見た。
「なぜ花蘭さんは自分の席を出て、舞台の正面に行ったのか。これは、座長や他の役者さんに聞いた方が早いかもね」
「ああ……」
凜華と目が合った藍芳は天を仰ぎ、よろよろと歩み出た。
そして、花蘭の遺体の前まで行くとその場にがばりと平伏したのである。
「どうかお許しください。私も他の者たちもここに花蘭がいるとは思わず。どうにも気が動転しておりますが……なぜ花蘭が飛び出してきたのかはわかります」
そこで藍芳は苦しそうに喉を鳴らした。
「花蘭は、かつては我が劇団の坤旦であり、蒼蓮の長年の相方でございました。『蒼月飛天』は二人の十八番で、花蘭はいつも蒼蓮と組んで月の女神役を演じていたのでございます」
「花蘭さんが女神役。……ということは、もしかして飛天の宙乗りは本来は二人でやるものなの?」
「はい」
劇中で一番の見せ場である飛天の宙乗りは、最初に男役のみが舞い、途中で客席に降りた女役を拾い上げる。そこからは二人で回転しながら芸を見せるものだった。
男役が女役を抱きかかえ、女役が空中で様々な技を披露する。片手一本でぶら下がって回ったり、男役の肩に乗って逆立ちをしたり、手を離して後方宙返りしたりする。男役は息を合わせて軌道上に女役を投げ、再び受け止める。
宙乗りする蒼蓮と花蘭の息はぴったりだった。少しでもタイミングがずれれば女役は落ちて大事故となってしまう中、二人は空中の芸を完璧にこなした。希代の名コンビとして各地で絶賛され、劇場は大入り満員となった。
藍芳の悲痛な声が響く。
「花蘭は公演のたびにそうしていたように、蒼蓮に拾い上げられる位置へ飛び出したのでございましょう」
凜華は合点したのか、蒼蓮に向かって言った。
「そうか。あなたは宙を舞いながら、客席の花蘭さんに二人だけにしかわからない『合図』を送ったのね。花蘭さんは合図に反応した。軽身功の俊敏な足取りで、正面に出てしまった。彼女が立った場所は、あなたの鋼線が通過する死の座標だった」
「ち、違う。私はそんなことはしていない。証拠は、証拠はどこにある!」
叫ぶ蒼蓮に、凜華は花蘭の首をぬぐった白布を差し出した。
「首の傷口から微量の金属粉が出たわ。あなたの帯を調べれば、仕込まれた鋼線が出てくるはず。粉と鋼線の成分が一致したら……? これでもまだ、自分はやってないと言い張る?」




