第105話 翠玲幻戯団殺人事件<六>
「花蘭? いかがしたのじゃ花蘭!」
梅妃も気づき、身を乗り出して呼びかける。周囲の侍女たちは怯えたように後ずさった。
前方から後方へ困惑と悲鳴が広がった。
気づいた他の妃たちの顔も蒼白である。胡弓の音色も止み、楽士たちも異様な事態に腰を浮かせている。
「血だ! 誰か殺されたぞ!」
垂れ幕の前にいた下級宦官の一人が叫んだ。この不用意な一言が、観客のパニックを引き起こした。
侍女の一人が首を切られて殺された。
彼女を殺した人間は客席に紛れ込んでいたのか。みなが飛天の宙乗りに釘付けになっている隙を狙い、煙にまぎれて切りつけたのか。ならば犯人はまだ近くに、客席内に潜んでいるに違いない。
「い、嫌あっ!」
「私たちも殺される!」
先ほどまでの陶酔は完全に吹き飛び、女たちは我先に逃げようと立ち上がった。椅子が蹴倒され、持ち込んだ茶器が踏まれて粉々に砕け散る。
垂れ幕をくぐり抜け、先春殿の入り口に向かって人々が殺到した。
事態を察した但娘が宦官たちを呼んだ。
「下手人が近くにいる。誰も外に出さないで。兵士と刑部を呼んで」
男たちが走り出し、パニックに陥る群衆を押し留めようとするが、恐怖に駆られた女たちの波は収まらない。
凜華は、花蘭の元へ駆け寄った。
花蘭は地面に座り込んだまま、完全にこと切れていた。
「……だめだわ」
凜華は悄然と呟き、花蘭の遺体を慎重に地面に寝かせた。
振り返ると、寿寿を呼んだ。
棒のように突っ立った寿寿は、花蘭と地面に滴る鮮血を茫然と見つめている。
「寿寿! 薬箱を持ってきて」
「……は、はい。ただいま」
凜華の声に我に返った寿寿が駆けだしてゆく。
混乱が続く後方で大きな声が響いた。
「道を開けよ! 刑部省の者である」
松明を持った武装した兵士と、刑部の役人たちが邸内になだれ込んできた。
彼らは瞬く間に出入り口を封鎖し、出ようとする人々を長槍の柄で強引に押し戻す。
「静まれ。これよりここを封鎖する。勝手に動く者は容赦せぬぞ」
兵士たちの威圧的な声と、金属の鎧が触れ合う冷たい音が響き渡る。女たちは震え上がり、その場にしゃがみ込んだ。
「公演は中止じゃ。みなの者、そこを動くでない」
騒ぎが落ち着いたところで梅妃が命じる。花蘭が殺されたことに動揺しつつも、声はしっかりしていた。
「一体どうしたんだい。何の騒ぎさ」
兵士たちの制止を振り切り、舞台裏から座長の藍芳が出てきた。
その後ろには裏方や、化粧もそのままの坤旦(女役)の団員たちが不安げに続いている。
「公演を止めるなんて、あんまりじゃな……」
文句を言いかけたが、舞台の前に転がっているものを見た瞬間、色を失った。
「あ、ああ……」
藍芳は目を見開き、食い入るように花蘭を凝視した。
それから、その場にへなへなと倒れ込みそうになった。「母さん!」と団員が叫び、両脇から支えようとする。
藍芳の声は、衝撃からひどく掠れた。
「花蘭……そんな。嘘だろう。どうしてあんたが……」
他の団員たちも、横たわった花蘭を見て口々に悲鳴を上げた。
「姐さん? 姐さんなの?」
「……ひどい。なんでこんなことに」
ある者はその場で泣き崩れ、ある者は互いにしがみついて震えている。
寿寿が広間に置いておいた薬箱を抱えて戻って来た。
薬箱を渡すと、血まみれの痛ましい遺体を直視できないのか目を逸らして俯いてしまう。
凜華は薬箱から清潔な布を取り出すと、花蘭の細く白い首筋に当て、恐るべき「真円の傷跡」を慎重に検分した。
傷口の周囲の皮膚はかすかに引きつれており、鋭利な刃物というよりは、極細の糸のようなものによる強烈な「引き裂き」の痕跡があった。
横や後ろからではない。正面から切りつけられている。
「すさまじい切れ味ね。頸動脈と気管が切断されている。鋭利な刃物による切創じゃない。まるで……絞殺のような」
傷口の断面をよく見ると、そこには微かな銀色の輝き――削り取られたような「金属の粉」が付着していた。
さらに、ごくわずかだがツンとした特徴的な匂いがした。
「松脂……?」
凜華は傷口にそっと触れ、付着したわずかな「粘り」を確かめた。
今度は立ち上がって、頭上の舞台の天井を見上げた。
天井には、蒼蓮が飛天の宙乗りを披露した際に使用した滑車機構が取り付けてあり、煤塗りの高張力の鋼線が垂れ下がっている。鋼線自体は何の問題もないように見えた。
蒼蓮は宙乗りの間、客席の上空を大きな円を描くように旋回していた。
凜華の中で華麗な舞の軌跡が、冷徹な物理法則の数式へと置き換えられていく。円運動をする物体には、中心から遠ざかろうとする遠心力が働く。
「按ずるに……」
凜華は確信を持って、毅然と顔を上げた。
「下手人は……花蘭さんを殺した犯人はこの場にいるわ」
辺りは、水を打ったように静まり返った。みなが、おろおろと互いの顔を見合わせる。
「誰なのよ」
静寂を破るように但娘が歩み出る。
花蘭は但娘の部下だった。それが公演中に、多くの面前で無惨に殺されたのである。声は落ち着いていたが、抑えきれない怒りがこもっていた。梅妃も他の妃たちも、凜華の次の言葉を待つ。
凜華の指先は、迷うことなく舞台の中央を指し示した。
そこには一人、冷然と客席を見下ろす蒼蓮が立っていた。
「花蘭さんの命を奪った見えない刃。それを操ったのは空中にいた蒼蓮さん、あなたよ」
みなが一斉に蒼蓮を見た。
指を突きつけられた蒼蓮も唖然としたが、やがて美しい顔に薄笑いを浮かべた。堂々たる足取りで一歩前へ出た。
「私が殺した? 薬師殿、それはあまりにも冗談が過ぎましょう」
「冗談ではないわ。花蘭さんを殺したのはあなたよ」
凜華は蒼蓮を睨みつけ、きっぱりと言い切った。
蒼蓮は困ったように両手を広げ、辺りを見回した。
「まさか。そんなことはありえません。私はついさっきまで、あなた方の頭上で舞っていたのですよ。それも両手を広げて。飛天の宙乗りで得物を持つことはありません。落としたら危ないですからね」
蒼蓮は宙乗りの間、終始観客たちの目を集めていた。
両手を広げて宙を舞っていただけであり、刃物を振るうような仕草は一切見せていない。そもそも空を飛ぶ人間が、どうやって眼下の女の首にピンポイントで切り裂けるというのか。
「確かに刃物は持ってなかった」
「でしょう? 武器もなしに客席にいた侍女殿の首をどうやって切り裂けるというのか。腕が十尺も伸びたとでも言うおつもりか」
「ええ、あなたの腕は伸びていたわ。速すぎて見えない鋼の腕が」
「鋼の伸びる腕! 魔法ですか」
嘯く蒼蓮に、凜華は冷たく言った。
「手品ではあるかもね。物理法則を無視した魔法なんてこの世には存在しないの」
凜華は、足もとに置いた薬箱から一本の丈夫な麻紐を取り出した。止血する際に用いるものだが、今は別のことに使えそうだ。
身を寄せ合って震えている劇団員の方を見る。
「誰か裏から分銅を持ってきて。小さなものでいいから」
団員の一人が泣きながら走っていった。舞台裏から手のひらに乗る小さな分銅を持ってきた。




