第101話 翠玲幻戯団殺人事件<二>
翌日。
凜華は、かねてより注文を受けていた化粧品を納品するため先春殿へと足を運んだ。公演当日に持って行っても、先方はそれどころではないだろう。早めに納品してしまおうと考えた。
先春殿に入ると、邸内は間近に迫った公演の準備で蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
中庭は大勢の人間の出入りで活気に満ち、真新しい木材が放つ青々とした香気が漂っている。
「翠玲幻戯団」の特別公演に向けて、即席の野外舞台が組み上げられている最中だった。
屈強な宦官と舞台製作の職人たちが声を掛け合いながら、太い丸太の柱を次々と立てていく。
基壇となる部分には、黒漆が塗られた分厚い床板が隙間なく敷き詰められ、その上を職人たちが滑るように移動して木槌の軽快な音を響かせていた。カンカンという乾いた音が、青空に吸い込まれていく。
天の四方を守護する神獣を象った提灯があちこちに掲げられ、周囲を朱と金で彩られた垂れ幕が囲んでいる。
後宮という閉ざされた宮に突如として現れた異空間は、単なる娯楽のための設えを超え、見る者の心を日常から切り離す強烈な魔力を放っていた。
凜華の視線を引きつけたのは、きらびやかな装飾よりも、舞台の上部――空へ向かって構築されていく複雑な機械仕掛けの足場であった。
上演中は黒幕で隠されるであろう位置に、巨大な滑車が組み合わされた櫓が建てられている。
複数の滑車を経由して張り巡らされた太い麻縄は、摩擦に耐えられるよう獣脂がたっぷりと塗り込まれており、鈍い光を放っている。その縄は舞台の天井部分に渡された梁へと繋がり、そこからさらに細く強靭な鋼のワイヤーへと接続されていた。
「へえ……雑技でもやるのかな。幻戯団だもんね」
立ったまま眺めていると、下女が知らせたのか周但娘が足早にやってきた。
「ああ、あんた。来たのね」
昨日の今日で、早速にも顔を見せた凜華に但娘はご満悦である。挨拶に来たと言って梅妃のところに連れていけば、主人の顔が立つし自分の株も上がる。
凜華は舞台の方を指差して言った。
「舞台、思ったより本格的だね。特にあの櫓は圧巻」
「あれね。どうも劇中で『飛天の宙乗り』ていうのをやるらしいわ。劇団の一番の売りみたい。私も初めて見るから、どういうのかはわからないけど」
「飛天の宙乗り……か。たぶん飛ぶんだろうなあ」
「そうなの?」
「うん、人を吊り上げて空中を舞うんだと思う」
凜華はすっと目を細めた。
頭の中に、櫓の構造と力の伝達経路が図面として浮かび上がる。複数の動滑車と定滑車を組み合わせることで、演者を吊り上げるための牽引力を軽減し、同時に巻き上げる速度を劇的に高める。
さらに彼女の目を引いたのは、舞台袖に積まれた巨大な鉛の分銅である。演者の体重と分銅の質量を釣り合わせることで、空中の制空権を支配する。
振り子の原理と遠心力を巧みに利用し、空中に描く円の半径を自在に制御する。それは魔法や妖術などではなく、確固たる物理法則に基づいた「力学の結晶」であった。
凜華が精緻な構造に見惚れていると、背後から黄色い歓声が聞こえてきた。
「見て、あの高い柱。あそこから天女が舞い降りてくるのね」
「主演の蒼蓮さまはそこら辺の男は目じゃないほど凛々しいって噂よ。早くお姿を拝見したいわあ」
振り返ると、渡り廊下の欄干には先春殿で働く女官や下女たちが鈴なりになって建設作業を見守っている。
上級の女官たちは袖で口元を隠しながらも興奮を隠しきれず、水汲みや掃除に追われている下女たちも今は手を休め、爪先立ちになって舞台を食い入るように見つめていた。頬は上気し、瞳にはすでに熱狂の火が灯っている。
後宮という場所は一見すると華やかだが、その実は巨大な檻のようなもの。皇帝の寵愛を巡る暗黙の闘争や、厳格な身分制度に縛られ、外界の風に触れることは滅多にない。
彼女たちにとって特別公演は単なる息抜きではなく、日々鬱屈する心に降り注ぐ慈雨のようなものだった。
その熱狂の端に、静かに舞台を見つめる影があった。
周囲の女たちがきゃあきゃあと浮き立つ中、彼女の佇まいはどこか異質だった。歳は二十代の半ばくらいだろうか。結い上げた髪はさっぱりとし、その下は幾分幼さの残る愛くるしい顔立ちである。
凜華の視線に気づいたのか、女は顔を向け、かすかに目を伏せて会釈をした。
「花蘭」
但娘が女を呼び、無造作に手招きした。花蘭は凜華たちの傍にやってきた。
凜華は、花蘭の「歩法」に目を奪われた。
花蘭は、茶器一式が乗った重そうな盆を捧げ持っているにもかかわらず、その身のこなしは異常なほど軽くなめらかだった。
つま先からかかとへの体重移動が完璧に制御されており、足音一つしない。重力という物理法則を部分的にキャンセルし、虚空を滑るかのようだった。
但娘が花蘭を紹介した。
「私の下で働く花蘭よ。梅妃さまの侍女の一人。花蘭はここに来る前は劇団員だったのよ」
花蘭もかつては役者として舞台に立ち、都や地方を巡っていたという。結婚を機に引退し、今は先春殿で働いているとのことだった。
但娘は上長らしくきびきびと命じる。
「花蘭、飲み物とお菓子を用意して居間に持ってきて。梅妃さまに、壺天閣から納品が来たとお伝えして」
「かしこまりました。すぐにご用意します」
花蘭は一礼し、水面を滑るような足取りで回廊の奥へと消えた。
花蘭の背中を見送りながら、凜華は感嘆した。
「彼女の身のこなし、すごいね。見事な重心移動。足底腱膜とふくらはぎの筋肉をサスペンションのように使って、衝撃を完全に吸収している」
「……あんたの言うことはよくわからないけど、独特の動きよね。子供の頃から雑技や軽業を仕込まれるとああなるらしいわ。『軽身功』てやつ」ちょっと引っかかるものがありつつも、但娘も同意する。
「軽身功っていうんだ」
「女官としては変な気もするけど、もう身体に染みついちゃって直せないらしいの」
凜華は、ふと言葉にできない奇妙な違和感を覚えた。
軽身功の無駄のない洗練された動き。
それは確かに美しかったが、極限まで研ぎ澄まされた刃物を使って大根を切るような、場にそぐわない印象を受けた。
「……不思議な人」
凜華は小さく呟き、再び舞台へと視線を戻した。
滑車に油が差され、ワイヤーがギリギリと巻き上げられては、その強度を確かめるように弾かれる。そのたびに、鋼の糸が空気を切り裂くような鋭い音が鳴る。
絢爛豪華な非日常の舞台。巨大な機械仕掛け。それらに見入って舞台に想いを馳せる女たち。
公演は数日後に迫っている。




