第102話 翠玲幻戯団殺人事件<三>
そして迎えた特別公演の当日。
先春殿の広間、梅妃のサロンでは、招待された妃たちやその侍女たち、給仕をして回る女官たちなど、見渡す限りに着飾った女たちがひしめき合い、甘い香粉の匂いと嬌声を振りまいていた。
客には上等な酒や薬膳茶、菓子や果物、肉や魚の冷菜、色とりどりの点心などが供されている。観劇前に豪華な昼餐を楽しみ、歓談に興じていた。
梅妃の傍には凜華と寿寿の姿もあった。身分は下女であるが、特別に上座に据えられている。皇帝の寵愛厚い凜華を粗略に扱って変な噂が立っても困る。客としてもてなされていた。
凜華は平然としているが、寿寿はすっかり委縮してしまい、出てくるご馳走をおっかなびっくり口に運んでいる。凜華に「食べていいよ」と言われても、周囲の目が気になって落ち着かず、何を食べても味がしない。
末席の立ち見で舞台が観れればそれでよかったのに、まさか客の扱いになるとは思わなかった。
梅妃は挨拶に来た妃たちに、得意気に凜華を紹介した。
凜華も営業スマイル全開で、自身のブランドである凜華式化粧品の宣伝に余念がない。
開演前の熱気が最高潮に達する頃。
「皆さま、本日は我が翠玲幻戯団の公演へようこそおいでくださいました」
よく響く凛とした声が広間に通った。女たちが静まりかえる。声の主は、黒藍色の長衣に身を包んだ初老の女であった。男とも女ともつかぬ格好である。
背筋は定規を当てたかのようにピンと伸び、白髪混じりの髪は一本の乱れもなく結い上げられている。
かつては名優として一世を風靡し、現在は翠玲幻戯団を統率する座長、藍芳だった。
「開演に先立ちまして、ご挨拶申し上げます」
藍芳が一歩横へ退くと、後ろに控えていた人物が姿を現した。
「ご紹介いたします。これなるは我が一座の華である当家小生の蒼蓮にございます」
蒼蓮が一歩足を踏み出した瞬間――サロンの空気がビリッと震えた。
長身に纏った銀糸の刺繍が施された豪奢な衣装。坤生(男役)で男装の麗人たる蒼蓮が放つ、中性的でありながらも漂う圧倒的な覇気。
それは、日々後宮の陰湿な駆け引きにすり減っている女たちの心を、文字通り一瞬にして奪い去った。
あちこちから、ほうっと切ないため息が漏れる。寿寿は両手を組み合わせ、神仏でも拝むかのようにうっとりと見つめている。
梅妃が、役者二人に向かって扇の先を向けた。
「女だけの無礼講じゃ。苦しゅうない。近うよれ」
二人は「はっ」と頭を下げ、腰を落としたまま擦り足で進む。梅妃の前まで行くと、並んでひざまずいた。
「演目を客たちに案内してやるがよい」
梅妃の鷹揚な声に、藍芳と蒼蓮は拱手した。男役らしい仕草である。
藍芳は、場の空気を支配した蒼蓮の姿に満足そうな目を向けながら、再び口を開いた。
「本日皆様にご覧いただく演目は、我が劇団が誇る古典の悲恋劇『蒼月飛天』でございます。天上の掟に縛られた孤独な月の女神が、地上に降り立った折に一人の人間の男と出会い、許されぬ恋に落ちる。迂余曲折の末、男は天に昇って女神を迎えに行く……という、哀しくも美しい物語にございます」
懐から出した扇子を広げると、藍芳は続けた。
「本来であれば、この月の女神と地上の男は、一座の中でも特に優れた役者が対となって演じるもの。情熱的な男の求愛と、運命に抗えず涙する女神の駆け引きこそがこの演目の真髄。しかし……現在、当劇団には蒼蓮の相手を務められる者がおりません」
ざわっと客たちの間にどよめきが走った。藍芳は扇子で制するように軽く叩き、力強く言い放つ。
「誤解なさいませぬよう。欠員ではなく、蒼蓮の卓越した技量、気迫、舞の速度と表現力についてこれる役者がいないのです。凡庸な者では蒼蓮の技量に呑まれてしまい、舞台の均衡が崩れてしまう。故に本公演は、蒼蓮が『地上の男』と『月の女神』両役を務め上げます」
一人二役。それは単なる早着替えの産物ではない。男女の骨格の違い、声の高さ、纏う空気までを一瞬にして切り替えるという狂気じみた技術を要求される。
「情熱的な男が一瞬にして哀愁の女神へと変わる。蒼蓮にしか為し得ぬ神業を、どうか存分にご堪能くださいませ」
藍芳が恭しく頭を下げると、広間は拍手に包まれた。
挨拶が終わると、二人は妃たちが座る卓へと歩みを進めた。
銀の装飾が施された酒器を手にし、開演前の礼として客たちに酌をして回る。
凜華の目は、蒼蓮の腰に巻かれた見事な装飾具に引き寄せられた。幾枚もの巨大な孔雀の羽根を扇状にあしらった「鳳凰羽帯」と呼ばれる豪奢な帯である。
蒼蓮が流れるような身のこなしで移動するたび、孔雀の羽根が妖しく揺らめく。
「本日はお越しいただき、光栄の至りに存じます。あなたさまの美しき瞳に下名を映していただけるとは」
蒼蓮は、流し目を送りながら酒を注ぐ。その声は低く甘く、琴の弦を弾くような心地よい響きを持っていた。
次々と卓を回り、一人ひとりに言葉をかける。酒を注ぐ手首のしなやかさは紛れもなく女のものであるが、杯を差し出す際の肩の開き方、相手の目をじっと見つめる豪気な視線は、完全に「男」のそれであった。
後ろに立った侍女たちは頬を朱に染め、袖や扇で口元を隠しながらしきりにため息をついた。性別の垣根を飛び越える蒼蓮の魔力に、女たちは次々と籠絡されていく。
酌をされる妃たちは、表面上は蒼蓮の色香に惑うことなく泰然としていた。内心はどうであれ、彼女たちは皇帝の妃。同性であっても、皇帝以外の男に心揺さぶられることはあってはならないのだった。もし人目がある中でなびこうものなら、何を言われるかわからない。




