第8話 作戦結果報告会 ◇
――数日後。
俺は再びエリーの姿になり、オリバーと待ち合わせをしていたいつものカフェへ向かっていた。
前回ここで会ったとき、俺たちは互いの婚約者との関係を少しでも前へ進めるため、一つだけいつもより素直になってみようと約束した。
結果から言えば、俺の方はうまくいったと思う。
ずっと隠していた甘いものが好きだということを、思い切ってオリビアに話した。
それだけでも俺にとってはかなり勇気が必要だったのだが、オリビアは驚きこそしたものの、嫌な顔一つしなかった。
それどころか、俺の好きなものを一つ知ることができて嬉しいと、そう言って笑ってくれたのだ。
あのときの笑顔を思い出すと、今でも胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
(……本当に、言ってみるものなんだな)
今まであれほど悩んでいたのは何だったのかと思うほど、オリビアはあっさりと受け入れてくれた。
しかも、それだけではない。
彼女自身も甘すぎるものはあまり得意ではないと教えてくれて、最後にはこれから一緒にお茶をするときは、互いの好きなものを用意すればいいとまで言ってくれた。
俺が思っていたより、オリビアはずっと頼もしいのかもしれない。
そんな新しい一面を知れたことも、嬉しかった。
(オリバーにも、ちゃんと礼を言わないとな)
彼が背中を押してくれなければ、俺はきっと今回も何も言えなかっただろう。
それに、今日はオリバーの方がどうだったのかも聞ける。
先日の様子を見る限り、彼も俺と同じくらい婚約者との関係に悩んでいた。
(……うまくいっていればいいのだが)
そんなことを考えながら店へ入ると、窓際の席に見慣れた黒髪が見えた。
俺に気づいたオリバーが顔を上げ、すぐに柔らかく笑う。
「エリー。こちらです」
「お待たせしましたか?」
「いいえ。僕も少し前に来たところです」
席へ近づくと、オリバーはいつものように立ち上がり、自然な動作で椅子を引いてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
何度されても、こういうことがあまりにも自然だ。
きっと普段からこうなのだろう。
以前から思っていたことだが、やはりこの男をオリビアには会わせたくない。
落ち着いていて堂々としているうえに、細かなところにまで気がつく。彼女の好みだと聞いている条件に、あまりにも当てはまりすぎていた。
そんなことを考えながら腰を下ろすと、オリバーも向かいの席に座った。
ほどなくして紅茶が運ばれ、俺の前には甘い焼き菓子が、オリバーの前には甘さの控えめな菓子が置かれる。
前回、互いの好みを知ったこともあり、今日は注文するときに迷うこともなかった。
店員が離れたところで、俺たちはほとんど同時に口を開いた。
「あの――」
「実は――」
声が重なり、二人とも言葉を止めた。
一瞬見つめ合ったあと、どちらからともなく笑ってしまった。
「ふふっ。どちらから話しましょうか」
「では……僕からでもいいですか?」
「もちろんです」
そう答えると、オリバーは一度姿勢を正した。
けれど、すぐに堪えきれないように口元が緩む。
「……うまくいったんです」
「本当ですか!?」
「はい」
そう答えた声には、嬉しさが隠しきれないほど滲んでいた。
どうやら本当にうまくいったらしい。
「よかったですね!」
「はい。本当に」
嬉しそうに頷く姿を見ていると、こちらまで安心する。
「最初は、いつも通りだったんです。何を話せばいいのか分からなくなって、また余計なことばかり考えそうになって」
「やっぱり緊張したんですね」
「しました。でも、エリーが言ってくれたことを思い出したんです」
「私が?」
「無理に違う自分になろうとしなくてもいいんじゃないかって」
「ああ……」
確かに、そんな話をした。
好みの相手になるために自分を変えるよりも、まずは少しだけ本当の自分を見せてみればいいのではないかと。
自分自身にも言えることだと気づきながら口にした言葉だった。
「だから、一つだけ正直に話してみました。そうしたら、思っていたよりずっと普通に受け入れてもらえて」
「それで?」
「そこから、今までよりずっと話せたんです」
オリバーの声が少し弾む。話しているうちに、あの日のことを思い出したのだろう。口元には自然な笑みが浮かび、普段は落ち着いた印象の強い彼が、今日はいつもよりずっと表情豊かに見えた。
婚約者とうまく話せたことが、それほど嬉しかったのだろう。
「僕が自分のことを一つ話したら、婚約者も今まで知らなかったことを一つ教えてくれて。それについて話しているうちに、いつの間にか会話が続いていました」
「それはよかったです」
「はい。何を話そうって必死に考えなくても、ちゃんと次の言葉が出てきたんです。……それに、初めて知ったこともあって」
「どんなことですか?」
尋ねると、オリバーは少し恥ずかしそうに視線を落とした。どう話そうか迷っているらしく、しばらくカップの中の紅茶を見つめている。
それでも口元の笑みまでは隠せていない。婚約者のことを思い出しているだけで、こんなにも嬉しそうな顔をするのかと、少し意外に思った。
「僕の婚約者は、いつもとても落ち着いている人なんです」
「そうなんですね」
「はい。何でもそつなくこなしますし、堂々としていて……あまり感情を表に出す方でもないので、何を考えているのか分からなくなることも多くて」
それでも、声には不満らしいものはまったくない。
むしろ、その人のことを大切に思っているのが伝わってくるようだった。
「でも、この前は少しだけ、いつもと違ったんです」
「違った?」
「はい」
何かを思い出したらしく、オリバーの目元が柔らかくなる。
「少し照れたような顔をしていて」
「まあ」
「僕、あんな顔をする人だとは思っていなかったんです。いつも本当に落ち着いているので」
そこで言葉を切ると、オリバーは少し迷うように視線を揺らしたあと、照れくさそうに笑った。
「それが……何というか、可愛らしく見えて」
「そうなんですね」
「普段はとても凛としていて、格好いい人なんですけど……今まで知らなかった顔を見ることができたのが、何だかすごく嬉しかったんです」
すぐにそう付け加えるあたり、相当その婚約者が好きらしい。
言いながら、オリバーはまた嬉しそうに笑う。
「十年近く知っているのに、まだ知らないことがあるんだなって思って」
「長いお付き合いなんですね」
「はい。子どもの頃からなので」
「それなら、なおさら嬉しかったでしょうね」
「そうなんです」
オリバーは、嬉しさを隠しきれないように何度も頷いた。
最初は少し恥ずかしそうにしていたのに、婚約者の話をしているうちに、だんだんその照れも薄れてきたらしい。
「もっと知りたいと思いました。今まで僕が勝手に決めつけていただけで、本当は他にも知らない顔がたくさんあるのかもしれないなって」
そう話すオリバーの表情は、こちらが少し驚くほど幸せそうだった。
婚約者のことを話しているだけで、こんなにも嬉しそうな顔をするのかと思うと、俺までつられるように笑みが浮かぶ。
「オリバーは、本当に婚約者の方がお好きなんですね」
「え?」
オリバーが目を瞬いた。そこまで率直に指摘されるとは思っていなかったらしく、少し戸惑うように視線を揺らしたあと、その頬がわずかに赤くなる。
「……はい。好きです」
照れたように視線を落としたものの、その言葉に迷いはなかった。思っていたよりもずっと素直な返事に、少し意外に思う。
以前なら、もう少し言葉を濁していたような気がする。婚約者とうまく話せたことで、少しだけ自信がついたのだろうか。
「でも、本当にエリーのおかげです」
「私の?」
「はい。あのとき話を聞いてもらわなかったら、きっと今回も何もできなかったと思います」
「そんな。私は思ったことを言っただけですよ」
「それでもです。ありがとうございました」
「……どういたしまして」
ここまで真剣に礼を言われると、少し照れくさい。何となく誤魔化すようにカップへ手を伸ばし、紅茶を一口飲んだ。
それでも、胸の奥にはじんわりと嬉しさが広がっていた。オリバーがこれほど喜んでいるのなら、自分の言葉も少しくらいは役に立てたのだろう。
「それで、エリーは?」
「私ですか?」
「エリーも、その……うまくいったんですよね?」
今度はオリバーが身を乗り出してくる。
不意に距離が縮まり、整った顔が思った以上に近くなった。黒髪の隙間から覗く若草色の瞳が、期待に満ちてこちらを見つめている。
「どうしてそう思うんです?」
「今日は最初から、いつもより嬉しそうに見えたので」
「……そんなに分かりやすかったですか?」
「少しだけ」
相変わらず、よく人を見ている。どうやら今日の俺は、自分で思っていたよりも分かりやすかったらしい。
とはいえ、今回はわざわざ誤魔化す必要もなかった。
「はい。私の方もうまくいきました」
「本当ですか? よかった……!」
声を弾ませたオリバーの表情が、一気に柔らかくなる。まるで自分のことのように喜んでくれているらしい。
普段は落ち着いていて、どちらかといえば凛々しい印象の方が強いだけに、こんなふうに目元を緩めて笑う姿はひどく新鮮だった。
(……こんな顔で笑うんだな)
思わず、その笑顔に目を留める。いつもの凛々しい印象との違いが、妙に気になった。
(……可愛いな)
ごく自然に、そんな言葉が浮かんだ。
――そして一拍遅れて、俺は固まった。
(……今、何を考えた?)
「エリー?」
「え?」
「どうかしましたか?」
「い、いえ。何でもありません」
慌てて返事をすると、オリバーが不思議そうに首を傾げる。
その仕草まで、先ほどより妙に目についてしまった。
(いや、別におかしくはないだろう)
男を見て可愛いと思うことくらい、ある。普段との印象があまりに違ったから、そう見えただけだ。
(……普段との印象が違ったからだな)
そういうことにしておく。少し驚いただけ――きっと、それだけだ。
「それで、どうだったんですか?」
「ああ、そうでした」
オリバーに尋ねられ、俺はようやく自分の報告をまだしていなかったことを思い出した。
危うく話を忘れるところだった。
「私は、好きなものを一つ話してみたんです」
「前に、婚約者の方には言いづらいと仰っていたものですか?」
「はい」
「……どうでした?」
さっきまで嬉しそうにしていた顔が、今度は少し真剣になる。
俺のことを本当に心配してくれているらしい。
「驚いてはいました。でも、嫌な顔はされませんでした」
「よかった」
「それどころか、知ることができて嬉しいと言ってくれたんです」
「それは……」
オリバーはほっとしたように息をつくと、柔らかく表情を緩めた。
「嬉しかったでしょう?」
「はい。ずっと、知られたらどう思われるだろうと気にしていたんです。自分でも大したことではないと思っていたのに、なかなか言えなくて」
「分かります」
「でも、実際に話してみたら、私が考えていたよりずっと自然に受け入れてくれました」
あのときのオリビアを思い出す。
驚いてはいたけれど、俺が恐れていたような反応は何一つしなかった。
むしろ、知ることができて嬉しいと言って、あんなふうに笑ってくれた。
「それに、私が気にしなくて済むようにしてくれたんです」
「どういうことですか?」
「私が好きなものを話したら、これからはお互いが好きなものを用意すればいいと言ってくれて」
「……素敵な方ですね」
「はい」
ほとんど迷わず答えたあとで、改めて思う。
俺はこれまで、オリビアを可憐で美しい女性だと思っていた。
もちろん、それは今も変わらない。
けれど、あの日はそれまで知らなかった彼女の一面を見ることができた。
「思っていたより、頼もしい方なのかもしれません」
「頼もしい?」
「はい。私があれこれ悩んでいたことを、驚くほど自然に受け止めてくれたんです」
オリバーが興味深そうに耳を傾ける。
少し身を乗り出すようにして、続きを促すような視線を向けてきた。
「私なら、あんなふうにあっさり切り替えられなかったと思います。それなのにあの人は、驚いたあとにはもう、それならこれからはこうしましょうって」
あのときのオリビアの言葉を思い返すと、自然と口元が緩んだ。
あんなふうに受け止めてもらえるとは思っていなかっただけに、今思い出しても嬉しくなる。
「あれほど気にしていた自分が、少し馬鹿らしくなるくらいでした」
「それは、頼もしいですね」
「でしょう?」
思わず即座に返してしまい、オリバーが少し目を丸くした。
俺も一瞬遅れて、自分が随分嬉しそうに話していることに気づく。
けれど、今さら取り繕う気にはなれなかった。
「今までは、もっと繊細で……何でも気にしてしまう方なのかと思っていたんです」
「そうだったんですか?」
「はい。でも、どうやら私が勝手にそう思い込んでいただけみたいです」
オリビアにだって、俺の知らないところはまだたくさんあるのだろう。
そう考えると、不思議と楽しみになった。
「もっと色々話してみたいと思いました」
そう口にすると、オリバーが嬉しそうに笑った。
「よかったですね、エリー」
「はい。オリバーのおかげです」
「僕は何もしていませんよ」
「しました。あなたが、好きなものを話してもらえたら自分なら嬉しいと言ってくれたから、私も勇気を出せたんです」
「でも、それは本当に僕ならそう思うというだけで……」
「それでもです。本当に、ありがとうございました」
「……どういたしまして」
きっぱりと言い切ると、一瞬きょとんとしていたオリバーが、やがて柔らかく笑った。
その笑顔を見た途端、また胸の奥がわずかに揺れた。先ほどほど大きなものではなかったけれど、やはりいつもとは少し違う感覚だった。
(……やっぱり、こんなふうに笑うんだな)
何度か会っているのに、今まで気づかなかった。
あるいは今日は、婚約者とうまくいったことが嬉しくて、いつも以上によく笑っているだけなのかもしれない。
そう思いながら、俺は目の前の菓子へ視線を落とした。
そのまま一つ取ろうとすると、オリバーがふとこちらを見た。
「それ、前に好きだと言っていたものに似ていますね」
「覚えていたんですか?」
「もちろんです」
当然のように答えられ、少し驚く。
「エリーは甘いものが好きでしょう?」
「はい」
「では、それもきっと好きだと思います。さっき店員の方が、今日は蜂蜜を多めに使っていると言っていましたから」
「……よく聞いていましたね」
「たまたま耳に入っただけですよ」
そう言って、オリバーは自分の前にある木の実の焼き菓子へ手を伸ばした。
俺の好みを覚えているのも、きっと彼にとっては特別なことではないのだろう。
そういう細かな気遣いが、ごく自然にできる男なのだ。
(本当に、オリビアには会わせたくないな)
改めてそう思う。
こんな男が彼女の前に現れたら、俺などあっという間に見劣りするのではないだろうか。
もっとも、オリバー自身にも大切な婚約者がいるのだから、必要以上に警戒することもないのかもしれない。
「でも、不思議ですね」
「何がですか?」
「僕たち、ずっと婚約者の好みに合わせなければと思っていたのに」
「ああ……」
「少しだけ自分のことを話したら、その方がうまくいったんですよね」
言われてみれば、確かにそうだった。
俺はオリビアが格好いい男を好きだと聞いてから、少しでもそう見えるように振る舞ってきた。
オリバーもまた、婚約者の好みに近づこうとして、ずっと無理をしていたらしい。
それなのに、今回うまくいったきっかけは、相手の好みに合わせたことではない。
むしろ逆だった。
「……今までの努力は何だったんでしょう」
オリバーが少し困ったように笑う。
「それを言われると、私も耳が痛いです」
「エリーもですか?」
「もちろんです」
顔を見合わせると、また自然に笑いがこぼれた。
自分たちは一体、何年かけて何をしていたのだろう。
今さらそう思っても仕方がない。
けれど、こんなふうに笑えるくらいには、少し前へ進めたのかもしれなかった。
オリバーが紅茶を飲んでふと顔を上げた。
「では、次も無理に違う自分になろうとしなくていいんでしょうか」
「そうですね。急に何もかも話す必要はないと思いますけど」
「一つずつ?」
「はい。一つずつでいいと思います」
先日と同じだ。一度に何もかも変える必要はない。少しずつ、自分のことを知ってもらえばいい。
「では、僕も次に会うとき、もう一つくらい何か話してみます」
「私もそうします」
そう約束すると、オリバーは満足そうに頷いた。
そこから先も、話題は自然と互いの婚約者のことになった。
オリバーは、婚約者が昔から何でもそつなくこなす人だったことや、普段は落ち着いていて何を考えているのか分からなくなること、それでも困ったときには必ず気にかけてくれることを、次々に話してくれた。
俺もつられるように、オリビアのことを話した。昔から真面目で、何事にもきちんとしていること。
いつも周囲への気遣いを忘れず、それでいて先日は、思っていた以上に頼もしい一面まで見せてくれたこと。
一つ口にすると、そこからまた別のことを思い出す。
そうして互いに話しているうちに、気づけば随分と時間が経っていた。
(……結局、ほとんど婚約者の話しかしていないな)
それなのに、まったく飽きなかった。
オリバーが婚約者について話すのを聞くのも楽しいし、自分がオリビアについて話すのも楽しい。
友人同士なら、こういうものなのかもしれない。
「エリー。今日は、本当にありがとうございました」
「またですか?」
「だって、本当に嬉しかったので」
オリバーが少し照れくさそうに口元を緩める。その表情は先ほどと同じように柔らかく、また妙に目に留まった。
「エリーに相談してよかったです」
「私もですよ」
「次も、いい報告ができるといいですね」
「そうですね」
答えながら、俺はまた一瞬だけオリバーの顔を見つめてしまった。
黒い髪も、騎士見習いの服も、いつもと何も変わらない。
それなのに今日は、妙に違って見える。
普段は格好いい印象の方が強いのに、嬉しそうに笑うと、思っていたよりずっと柔らかい。
(……オリバーって、こんなに可愛い顔で笑うんだな)
また同じことを考えた途端、胸が小さく跳ねた。
――何だ、今の。
考えてみても、答えなど出るはずがない。ただ、今まで知らなかった一面を見て、少し驚いただけなのだろう。
きっと、それだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は紅茶へ手を伸ばした。
けれどその日の帰り道でも、オリバーのあの柔らかな笑顔だけは、なぜか何度も頭に浮かんだ。
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