第6話 明後日の作戦会議 ◇
オリバーと友人になってから、数日が経った。
前回、カフェで彼と別れて屋敷へ戻った俺を待っていたのは、妙に楽しそうな顔をしたレベッカだった。
「お兄様」
「……何だ」
返事をすると、レベッカは待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「あの、とても格好いい方はどなた?」
「……誰のことだ?」
「黒髪の騎士見習いの方よ。お兄様とカフェにいたでしょう?」
オリバーのことだ。
「……見ていたのか?」
「偶然よ。お兄様がいなくなったから探してたらお店の窓から見えたの。ものすごく目立っていたから、すぐに分かったわ」
「今日、街で少し困っていたところを助けてもらって、その流れで友人になったんだ」
「今日!?」
「ああ」
「今日知り合った方と、あんなに仲良くお茶していたの?」
「仲良くというか……普通に話していただけだ」
レベッカの目がますます輝く。
(……まさか、オリバーに興味を持ったんじゃないだろうな)
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、レベッカにはきちんと婚約者がいる。何より、この顔は恋をしたというより、面白いものを見つけたときの顔だ。
嫌な予感がした。
「それで? どこの方なの?」
「知らない」
「お名前は?」
「オリバー」
「家名は?」
「聞いていない」
「次はいつ会うの?」
「……どうしてそこまで聞くんだ」
呆れて言うと、レベッカは当然でしょうと言わんばかりの顔をした。
「だって気になるじゃない。お兄様がエリーの姿で、あんなに格好いい方と二人でお茶していたのよ?」
「ただの友人だ」
「分かってるわよ」
そう言いながらも、引き下がる気配はない。
結局、友人になった経緯から次に会う約束まで、ひと通り聞き出されることになった。
◇
――そして今日。
「はい。今日はこれにしましょう」
朝から俺の部屋へやってきたレベッカが、満足そうに一着のドレスを掲げた。
「……別に、前と同じものでいいんじゃないか?」
「だめよ」
「なぜだ」
「せっかくまたオリバー様に会うんでしょう? 少しくらい変えた方が楽しいじゃない」
「俺は別に、オリバーに見せるために女装するわけじゃないんだが」
「知ってるわよ」
まったく気にした様子もなく、レベッカは次に髪へ手を伸ばす。
「今日は髪も少し変えましょう」
「……楽しんでいないか?」
「もちろん」
即答だった。
三人の姉上たちはそれぞれ家を出ているため、今日こうして俺の身支度を手伝っているのはレベッカだけだった。
前回は姉上たちまで加わって大騒ぎだったが、どうやらレベッカ一人でも十分らしい。
もっとも、姉上たちがここにいたところで、状況はさらに悪化するだけのような気もする。
「――できたわ」
しばらくして、レベッカが満足そうに鏡越しに笑った。
淡い色のドレスに、前回とは少し雰囲気を変えた髪型。胸元には、もちろん黄色いブローチがある。
鏡に映っているのは、今日もどう見ても一人の令嬢だった。
「似合ってるわよ、エリー」
「……どうも」
複雑な気分で返事をしながら立ち上がる。
「オリバー様によろしくね」
「なぜお前が言うんだ」
「今度はちゃんと紹介してもらおうかしら」
「やめてくれ」
即座に断って、俺は屋敷を出た。
◇
待ち合わせ場所へ向かいながら、俺は何となく今日のことを考えていた。
ただ友人と会うだけだ。
それなのに、今日を少し楽しみにしていた自分がいる。
オリビアと会う日とは、少し違う。
彼女に会える日は、もちろん嬉しい。むしろ、約束が決まったその日から楽しみで仕方がないくらいだ。
けれど、いざ当日が近づくと、今度は胸が落ち着かなくなる。
ちゃんと格好よく見えるだろうか。何を話せばいいだろうか。沈黙したらどうしようか。少しでもオリビアによく思われたくて、余計なことまで考えてしまう。
一緒にいたいと思うほど、いざ彼女を前にすると平静ではいられなくなる。
我ながら、どうしようもない。
けれど、オリバーを相手にするときには、そういう緊張がほとんどなかった。
好きなものをどう思われるかと気にする必要もないし、少しでも格好よく見せようと構える必要もない。
(……こういう気楽さは、悪くないな)
待ち合わせ場所へ着くと、オリバーはすでに来ていた。
少し離れたところでは、年頃の令嬢が二人、何やら小声で話しながら何度も彼の方を見ている。
やがて片方が意を決したように一歩踏み出した、そのときだった。
「エリー」
こちらに気づいたオリバーの表情が、ふっと綻ぶ。
それまでの落ち着いた顔とは違う、思わずこちらまで嬉しくなるような柔らかな笑みだった。
その瞬間、歩き出しかけていた令嬢がぴたりと止まった。
「……っ」
隣にいた令嬢も、なぜか胸元を押さえている。
(……どうしたんだ?)
オリバーの笑顔に足を止めた二人は、その視線の先を追うように俺を見た。
そして今度は、そろって目を見開いた。
「…………」
二人はもう一度オリバーへ目を向け、それからこちらを見た。
片方が何かを言いかけ、もう片方の腕をそっと掴む。
「……行きましょうか」
「……そうね」
なぜか二人そろって、すべてを悟ったような顔で去っていった。
(……本当に何だったんだ?)
「オリバー。お待たせしましたか?」
「いいえ。僕も今来たところです」
自然にそう答える姿を見て、やはり落ち着いているなと思う。
俺なら、オリビアの姿を見つけた瞬間から、自分が変な顔をしていないか気になって仕方がないというのに。
「少し歩きますか?」
「はい」
二人で並んで大通りを歩き始める。
前回とは違う道を選び、何となく店先を眺めながら進んでいたときだった。
「あ……」
思わず足が止まった。
小さな店の軒先に、色とりどりの布小物が並んでいる。
中でも目を引いたのは、淡い水色の布に小さな白い花が刺繍されたハンカチだった。
細い糸で丁寧に縫われた花びらが、何とも可愛らしい。
(……いいな)
思わず足を止め、もう少し近くで見ようとした、そのときだった。
「あのハンカチですか?」
「え?」
隣から声がして顔を上げると、オリバーはすでに俺の視線の先を見ていた。
「淡い水色の、小さな花が刺繍されているもの」
「……よく分かりましたね」
「さっきから、そこを見ていたので」
何でもないことのように言われて、少し驚く。
(……こういうところなんだよな)
相手が何を見ているのか、何を気にしているのかを自然に察して、それを大げさにすることもない。
俺なら、オリビアを前にした途端、そんな余裕はどこかへ消えてしまう。
「可愛いなと思って」
「綺麗ですね。細かく刺繍されてる」
「そうなんです。こういう小さな花の模様って、つい見てしまって」
「エリーは花の模様が好きなんですね」
「……はい」
こんなふうに、自分の好みを誰かに素直に話すのは久しぶりだった。
家族は俺の好みを知っている。
けれど、外ではあえて口にしないし、可愛らしいものに目を留めること自体、なるべく避けてきた。
まして、オリビアの前ではなおさらだ。
(……やっぱり、不思議だな)
エリーの姿だからなのか。
相手がオリバーだからなのか。
おそらく、その両方なのだろう。
結局ハンカチは買わず、再び二人で歩き出した。
それからもしばらく街を歩いていたが、慣れない靴のせいか、少しずつ足に疲れを感じ始めていた。
とはいえ、まだ休みたいと言い出すほどではない。
そんなことを考えていると、隣を歩いていたオリバーがこちらを見た。
「エリー」
「はい?」
「僕、少し疲れてしまって。よかったら、お茶に付き合ってもらえない?」
「え? もちろんいいですけど……」
少し意外に思いながら頷く。
けれど、数歩進んだところで、ふと引っかかった。
(……あれ?)
騎士見習いのオリバーが、この程度歩いただけで疲れるだろうか。
息が上がっている様子もないし、足取りだって変わっていない。
そこでようやく、自分の足が少し重くなっていたことを思い出す。
(……もしかして、俺に気を遣ってくれたのか?)
隣を見ると、オリバーは何事もなかったような顔で歩いている。
(こういうところか……)
疲れていないかと聞かれていたら、きっと「大丈夫です」と答えていた。
けれど、自分が休みたいと言われれば、こちらも気兼ねなく休める。
さっきのハンカチのことといい、こういう気遣いが自然にできるところは、本当にすごいと思う。
そのとき、ちょうど見覚えのある通りまで戻ってきていた。
自然と、一軒の店へ目が向く。
「せっかくだし、この前のカフェにしませんか?」
「いいですね。私もまた行きたいと思っていました」
どうやら、考えることは同じだったらしい。
二人で店へ入ると、すぐに店員が近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
店員は俺たちの顔を見るなり、一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐにぱっと表情を明るくする。
「先日はありがとうございました」
「え?」
思わずオリバーと顔を見合わせた。
彼も同じように驚いたらしく、わずかに目を見開いている。
「……覚えていてくださったんですか?」
「もちろんでございます。これほど目を引くお二人を忘れるはずが――……いえ、失礼いたしました」
「?」
「前回と同じお席が空いておりますが、いかがなさいますか?」
「では、お願いします」
案内されながら、思わず感心する。
(すごい記憶力だな……)
たった一度来ただけの客を、座っていた席まで覚えているらしい。
席へ着くと、オリバーも感心したように店員の背中を見送った。
「よく覚えていましたね」
「本当に。こういうところが、常連のお客さんを増やすのかもしれません」
「なるほど……確かに」
顔を覚えてもらえていると思えば、また来ようという気にもなる。
(人気の店には、ちゃんと理由があるんだな)
そんなことを考えながら、二人でメニューを開いた。
それぞれ菓子と飲み物を注文し、店員が離れていく。
何となく店内へ目を向けると、少し離れた席に若い男女が二人で座っていた。
楽しそうに話しながら、同じ皿の菓子を眺めて笑っている。
何気なくその二人を見てから、向かいに座るオリバーへ視線を戻した。
黒髪の若い男と、淡い色の髪の若い女。
(…………あれ?)
今さらながら、妙なことに気づく。
俺にとっては、男友達と二人でお茶をしている感覚だった。
けれど、オリバーから見れば、今の俺は女性だ。
当然、周囲の人間から見てもそうだろう。
つまり俺たちは今、婚約者のいる男女が二人きりでお茶をしているようにしか見えないのではないか。
俺たちにそんなつもりはなくても、婚約者に余計な誤解をさせるようなことをしているのだとしたら、それは申し訳ない。
「……あの、オリバー」
「はい?」
「今さらなのですが、一つ確認してもいいですか?」
「もちろんです」
「私たち……こうして二人で会っていて、大丈夫でしょうか」
オリバーがきょとんとしたように目を瞬かせた。
こちらの言いたいことがまだ分からないのか、少しだけ首を傾げている。
「大丈夫、とは?」
「その……お互いに婚約者がいるでしょう?」
「あ」
そこでようやく意味が伝わったらしい。
オリバーが目を瞬かせた。
「もし、こうして二人で会っていると婚約者に知られたら、不快に思われたり……浮気だと誤解されたりしないでしょうか」
「…………」
オリバーは少し考えるように視線を落とし、そのまま黙り込んだ。
すぐに答えるのではなく、何かを確かめるように考えている。
俺も改めて考えてみた。
もしオリビアが、俺とオリバーが二人でこうして会っていると知ったら、どう思うだろう。
不快に思うだろうか。あるいは、浮気だと疑ったりするのだろうか。
(…………うん)
何も問題ないな。
俺は男で、オリバーも男だ。
少なくとも俺の中では、男友達と街へ出てお茶をしているだけである。
オリビアを裏切るようなことなど何一つしていない。
(……ただ)
逆は嫌だ。
できることなら、オリビアにはオリバーと会ってほしくない。
落ち着いていて、堂々としていて、女性への気遣いも自然にできる。
困っている人を見れば迷わず助け、そのうえ顔まで整っている。
(……こんな男に惹かれない女性なんているのか?)
ましてオリビアは、こういう男性が好みらしいのだ。
(…………絶対に会わせたくないな)
想像しただけで嫌だった。
そこで、向かいから声がする。
「大丈夫です」
顔を上げると、オリバーが妙にきっぱりとした表情をしていた。
「婚約者が気にすることはありません」
「……そうなんですか?」
「はい。絶対に」
あまりにも迷いなく言い切るので、思わずオリバーの顔を見つめた。
(……それは、それで少し寂しくないか?)
婚約者が異性と二人で会っていても、絶対に気にしないと言い切れる。
もしかするとオリバーも、婚約者からあまり想われていないと思っているのだろうか。
そう考えると、何だか少し気の毒になってきた。
だが、それを言うなら俺も同じだった。
「……実は、私も大丈夫です」
「エリーも?」
「はい。絶対に問題ありません」
「…………」
今度はオリバーが、何とも言えない顔でこちらを見た。
「……どうしました?」
「いえ。その……何でもありません」
なぜだろう。
ほんの少し、同情されたような気がする。
(……気のせいか?)
「……ずいぶん自信があるんですね」
「オリバーこそ」
「「…………」」
どうやらお互い、相手がなぜそこまで自信を持って言い切れるのかは分からないらしい。
けれど、追及すれば自分も同じことを聞かれる。
結局、どちらからともなく笑ってしまった。
「では、大丈夫ということで」
「そうですね」
何とも妙な確認になってしまったが、これで今後も気兼ねなく会える。
そう思うと、少し安心した。
ちょうどその頃、注文した菓子と飲み物が運ばれてきた。
カップを手に取り、一口飲んだところで、オリバーが口を開く。
「そういえば、この前、婚約者のことで相談し合おうって話をしましたよね」
「はい」
「次に会う予定は、もう決まっているんですか?」
「あ……はい」
オリビアと会うのは明後日だ。約束が決まってから、何度その日を思い浮かべたか分からない。
「明後日です」
「え?」
「……どうしました?」
「……僕も明後日なんです」
「まあ」
思わず目を見開いた。
婚約者と会う日まで重なるなんて、ずいぶん不思議な偶然だ。
「ここまで重なると、何だか可笑しいですね」
「僕も今、同じことを思っていました。それならちょうどいいですね」
「ちょうどいい?」
「今日、作戦を考えてみませんか? 明後日、どうしたら少しでも婚約者とうまく話せるか」
「なるほど……」
一人で考えれば、どうせまた同じところをぐるぐると悩むだけだ。
それなら、誰かの意見を聞いた方がいい。
「ぜひお願いします」
「では、どちらからにしましょうか」
「オリバーから聞いてもいいですか?」
「僕ですか?」
「はい。この前、婚約者の前だとうまく話せなくなると言っていましたよね」
「ああ……」
オリバーは少し困ったように笑うと、手元のカップへ視線を落とした。
普段は何事にも動じなさそうな彼が、婚約者の話になると少しだけ歯切れが悪くなる。それが何だか意外だった。
どうやら、婚約者を前にして平静でいられないのは俺だけではないらしい。
「……普段なら気にしないようなことまで、あの人の前だと急に気になってしまって」
「例えば?」
「ちゃんと笑えているかとか、話し方がおかしくないかとか。もっと柔らかく話した方がいいんじゃないか、とか……」
「そこまで考えているんですか?」
「はい」
オリバーが少し照れくさそうに答える。
「その人は、明るくて愛嬌のある人が好きらしいんです。だから、僕ももう少しそういうふうになれたらいいのかなと思って」
俺は少し考える。
――明るくて愛嬌のある男性。
(……人懐っこくて、よく笑うような男だろうか)
何人か知り合いの顔を思い浮かべてみたものの、どうにもぴったりくる相手はいない。
(……少なくとも、俺の周りにはいないな)
改めて目の前のオリバーを見る。
確かに、彼は明るく愛嬌を振りまくようなタイプではない。
けれど、一緒にいて話しづらいとは思わない。
むしろ逆だ。
「……でも、無理に変える必要はないんじゃないでしょうか」
「え?」
「婚約者の方に好みがあるとしても、それがそのまま、好きになる相手の条件とは限らないと思います」
「……そういうものですか?」
「少なくとも、私はそう思います」
少なくとも俺は、好みと実際に好きになる相手が、必ずしも同じだとは思っていない。
俺がオリビアを好きになったのだって、彼女が何か自分の理想に当てはまっていたからではない。
六歳で初めて会ったとき、ただ目を奪われた。
理想だとか好みだとか、そんなことを考えるより先に、好きになっていた。
だから、たとえオリバーの婚約者が明るくて愛嬌のある人を好むのだとしても、それだけで今のオリバーが好かれない理由にはならないはずだ。
――もっとも、そう思っている俺自身は、オリビアが落ち着いていて堂々とした格好いい男性を好むと聞いてから、少しでもその理想に近づこうと振る舞ってきたのだが。
「それに、今のオリバーは話しづらくありません」
「僕が?」
「はい。無理に笑おうとしなくても、ちゃんと笑っていますし。一緒にいて落ち着きます」
言ってから、少し気恥ずかしくなった。
普段なら胸の内で思うだけで終わるようなことまで、今は不思議と素直に口にできた。
「だから……明後日は、いつもと違う自分になろうとしなくてもいいんじゃないでしょうか」
オリバーは少し驚いたように俺を見つめた。
それから、ゆっくりと表情を緩める。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「何だか、少し気が楽になりました」
その言葉に、俺もほっとする。
自分の考えが正しいかどうかは分からないけれど、少なくともオリバーの気持ちを少し軽くすることはできたらしい。
そう思うと、相談相手になれたことが何だか嬉しかった。
「じゃあ明後日は、一つだけでも、思ったことをそのまま口にしてみようかな」
「それがいいと思います」
オリバーが頷いたあと、今度はこちらを見る。
「では、次はエリーですね」
「私ですか」
「もちろんです。相談し合う約束でしょう?」
そう言われると逃げられない。
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「私も……似たようなものなんです」
「似たような?」
「婚約者の前だと、どうしてもよく見られたいと思ってしまって」
これは本当だ。
格好悪いとも、頼りないとも思われたくない。
だから、可愛いものが好きなことも、甘い菓子に目がないことも、オリビアの前ではずっと隠してきた。
そんな自分を見せれば、彼女が思い描いている理想の男から、ますます遠ざかってしまう気がしていた。
「本当は好きなものがあっても、相手がどう思うか気になって、言えなくなることがあるんです」
「好きなものを?」
「はい」
「どうしてですか?」
あまりにもまっすぐ聞かれて、少し言葉に詰まる。
理由を尋ねられると、自分でもずいぶん臆病なことをしているような気がした。
ただ好きなものを好きだと言うだけなのに、それすらオリビアの前では怖いのだ。
「……自分には似合わないと思われるかもしれないからです。その……がっかりされたり」
言っているうちに、だんだん情けない気持ちになってきた。
こんなことで悩んでいる自分を、オリバーならどう思うだろう。
けれど、彼は笑わなかった。
むしろ真剣に考えるように視線を落とし、少ししてから口を開いた。
「――僕なら、話してほしいです」
「え?」
「その人が何を好きなのか知れたら、嬉しいと思います」
迷いのない言葉だった。
そこには、俺がずっと恐れていたような戸惑いも、否定するような響きも少しもない。
好きなものを知られれば、がっかりされるかもしれない。ずっとそう思っていた俺にとって、その考え方はひどく新鮮だった。
「好きなものについて話しているときって、きっと普段とは違う顔をするでしょう?」
「……そうでしょうか」
「エリーはしますよ」
「えっ」
「さっき、花の刺繍を見ていたとき、すごく楽しそうでした」
「見ていたんですか?」
「隣にいたので」
オリバーが可笑しそうに笑う。
その表情を見ているうちに、さっきまで平気で話していたことが急に恥ずかしくなってきた。
「だから、婚約者の方も、そういうエリーを知ったら嬉しいんじゃないですか?」
「…………」
オリビアが俺の好きなものを知ったら、嬉しいと思ってくれるだろうか。
今までは、そんなふうに考えたことがなかった。
ただ、幻滅されないだろうか、格好悪いと思われないだろうかと、そればかり気にしていた。
「……一つくらいなら、話してみてもいいでしょうか」
「もちろんです。いきなり全部話す必要はないと思います。一つだけでも、本当に好きなものを話してみたらどうですか?」
「一つだけ……」
それなら、できるかもしれない。
「では、決まりですね」
「決まり?」
「明後日、お互い一つだけ、いつもより素直になってみましょう」
オリバーが少し楽しそうに笑った。
どうやら、この小さな約束を俺と同じように前向きに受け取っているらしい。
「僕は、無理に相手に合わせようとせずに、一つだけ思ったことをそのまま言ってみます」
「では私は……好きなものを一つ、隠さず話してみます」
「はい」
何だか子どもの約束のようで、少し可笑しい。
けれど、一人で悩んでいたときよりも、ずっと心強かった。
「次に会ったとき、報告し合いましょう」
「……うまくいかなかった場合も?」
「もちろん」
「それは少し嫌ですね」
「僕だって同じです」
二人で顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
うまくいかなかったときのことまで心配しているあたり、どうやら似た者同士らしい。
婚約者のことで、こんなふうに誰かと気軽に話せる日が来るとは思わなかった。
しかも、出会ってまだそれほど経っていない相手と。
それなのに、不思議なくらい話しやすい。
◇
カフェを出てオリバーと別れたあとも、俺は明後日のことを考えていた。
(好きなものを、一つか……)
甘いものに、小さな花柄、それから繊細なレース。好きなものはいくつも思い浮かぶのに、どれもオリビアに話すとなると急に難易度が上がる。
(…………どれからだ?)
考えれば考えるほど迷ってしまう。
けれど、オリバーは一つだけでいいと言っていた。いきなり何もかもさらけ出す必要はない。
ほんの少しだけ、いつもより素直になればいいのだ。
(甘いものくらいなら……いけるか?)
そこまで考えたところで、先ほど見た小花の刺繍が脳裏に浮かぶ。
(いや。あれくらいなら、むしろ自然か……?)
悩み始めると、また何がいいのか分からなくなってくる。
明後日、オリビアに会ったら、いつものように格好よく見せようとするだけではなく、ほんの少しだけ本当の自分を見せてみよう。
そう決めたはずなのに、いざ何を話すかとなると、なかなか一つに決められない。
(……一つ選ぶだけで、こんなに難しいのか)
早くも、先行きが不安だった。




