第3話 理想の令嬢
いつもより高い視線から見る街は、不思議なくらい違って見えた。
歩いているのは、いつもと同じ道だ。並んでいる店も、行き交う人々も、見慣れたものばかりである。
それなのに、黒いかつらを被り、騎士見習いの服をまとっているだけで、まるで知らない街を歩いているような気分になった。
足元の底の厚いブーツには、まだ少し慣れない。けれど、その重さも腰に下げた剣の感触も、今はむしろ心強く感じた。
何より、ドレスの裾を気にする必要もなければ、令嬢らしく小さな歩幅で歩く必要もない。
(……楽だわ)
思わずそんなことを考える。
誰も私をオリビア・ルメイン侯爵令嬢だとは思っていない。
道を歩いていても、いつものように視線を向けられることはないし、知り合いに見つかって挨拶をする必要もない。
ただの若い騎士見習い。
そう思うだけで、肩から何かが降りたような気がした。
気の向くままに歩いているうち、いつの間にか富裕層向けの店が集まる商業地区まで来ていた。
考えてみれば、普段買い物をするときも大抵この辺りへ来る。何も考えずに歩いていたせいで、自然と足が向いたのだろう。
店先には色とりどりの菓子が並び、向かいの服飾店では春物のドレスが飾られている。
普段なら足を止めるところだけれど、今の格好でじっくり眺めるのも妙な気がして、そのまま通り過ぎた。
代わりに目についたのは、道行く人々だった。
楽しそうに話しながら歩く若い男女。
夫らしき男性の腕に手を添え、笑っている女性。
店先で何かを選びながら顔を見合わせる老夫婦。
(……いいなぁ。私もエリック様とあんなふうに……)
何気なくそう思ったあとで、胸の奥が少しだけ痛んだ。
そうなれたらいいと、昔は何度も夢見ていた。
二人で街を歩き、お互いの好きなものを知り、くだらないことで笑い合う。
婚約者だからではなく、一緒にいたいから隣にいる。
そんな関係になれたなら、と。
けれど、十年経っても私たちはまともな会話すら続かない。
(……何を考えているのよ、私は)
もう期待しないと決めたはずだ。せっかく気分転換に出てきたのに、またエリック様のことで落ち込んでいては意味がない。
私は軽く頭を振り、目の前の景色へ意識を戻した。
そのとき、少し離れたところから男の声が聞こえてきた。
「ねえ、君。さっきから一人?」
「……人を待っていますので」
続いて聞こえた女性の声は落ち着いていたけれど、明らかに迷惑そうだった。
何となく気になってそちらを見ると、二人組の若い男に、一人の令嬢が囲まれている。
「じゃあ、その子が来るまででいいからさ。俺たちとお茶しない?」
「結構です」
「そんなこと言わないで。すぐそこだから」
「お断りします」
令嬢ははっきり断っているが、それでも男たちは退く様子がない。しかも、一人が令嬢の進路を塞ぐように立った。あれでは、彼女がその場を離れたくても離れられない。
私は小さく息を吐いた。
本物の騎士ではない。もちろん、警邏の権限があるわけでもない。
けれど――
(見て見ぬふりをするのも、嫌だわ)
何より、今の私は騎士見習いの格好をしている。少なくとも、あの男たちを怯ませる程度には役に立つかもしれない。
そう考えたときには、もう足が動いていた。
「感心しないね」
男たちと令嬢の間へ入る。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「この子の声で分かるでしょう? 迷惑だってこと」
「なんだ、おま……」
二人の男が、ぎょっとしたようにこちらを見る。
しかし私の顔を見た途端、一人が不自然に言葉を切った。もう一人もこちらをまじまじと見つめたあと、隣の男へ小声で囁く。
「……顔、よすぎだろ」
「今それ関係ねえだろ」
(……何の話?)
よく聞き取れなかったけれど、少なくとも出鼻をくじくことはできたようだ。騎士見習いの格好というのは、思っていた以上に効果があるらしい。
「な、なんだよ。俺たちはただ誘ってるだけだろ」
「誘うだけなら、一度断られたところで終わりにするものじゃないかな」
「は?」
「嫌がっている女性に無理強いするのは、あまり感心しないと言っているんだ」
言いながら、腰の剣へさりげなく手を添える。もちろん抜く気などない。ただ、騎士らしく見せるには十分だったようだ。
二人の視線が、私の剣へ落ちる。
「それとも、このまま話を続ける?」
「……ちっ。なんだよ、お高くとまりやがって」
「お前なんかこっちから願い下げだ」
どうやら諦めたらしい。二人は最後にそんな捨て台詞を残し、人混みの中へ消えていった。
(……よかった)
少しだけ肩の力を抜く。大騒ぎになって本物の騎士が来るようなことになれば、こちらも困るところだった。騎士見習いの格好をしているとはいえ、身分を尋ねられれば説明に困る。
ひとまず穏便に済んだことに安心しながら、私は後ろにいた令嬢を振り返った。
「ご令嬢、ご無事ですか? もう大丈夫――」
そう続けようとして、言葉が止まった。
(――可愛い)
目の前にいた令嬢を見た瞬間、頭の中に浮かんだのはそれだけだった。
華奢な身体に、柔らかな色合いの髪。大きな瞳と、整った愛らしい顔立ち。淡い色のドレスもよく似合っていて、立っているだけで周囲の空気まで柔らかくなるような少女だった。
先ほどまで男たちに囲まれていたからだろうか。少しだけ困ったような表情まで、妙に庇護欲を掻き立てる。
「大丈夫です。助けてくださってありがとうございま――」
なぜか、令嬢の言葉も途中で止まった。大きな瞳をさらに見開き、こちらをじっと見ている。
(……?)
どうしたのだろう。かつらでもずれているのかと一瞬心配になったけれど、彼女は驚いているというより、何かを見つけたような顔をしていた。
そのまま、しばらく二人で見つめ合う。先に我に返ったのは私だった。
「あの……本当に怪我はありませんか?」
「あっ……はい! 大丈夫です。すみません。助けていただいたのに、じろじろ見てしまって」
「いえ。それならよかったです」
彼女がにこりと微笑む。
その瞬間、柔らかな雰囲気がいっそう増して、周囲まで明るくなったような気がした。
(……やっぱり可愛い)
何なのだろう、この可愛さは。
学園には王都近郊の貴族子女が多く通っていたし、侯爵家の娘という立場上、私も同年代の令嬢の顔はそれなりに覚えている。
社交の場にも出ていたから、これほど目立つ容姿の令嬢なら、一度でも見かければ記憶に残っているはずだ。
けれど、彼女を見た覚えはなかった。
それに――
(こういう方なのかしら)
ふと、以前耳にした話を思い出した。
エリック様は、明るくて愛嬌のある女性が好みらしい。誰が言い出した話なのかも分からないし、本当かどうか確かめたこともない。
それでも、その噂を聞いてからというもの、私は何度も自分なりに努力してきた。できるだけ柔らかな色のドレスを選び、仕草にも気を配り、笑顔の練習までした。
けれど、元々さっぱりした性格なのだ。いざエリック様を目の前にすると緊張してしまうこともあり、愛嬌のある可愛らしい女性になれている自信などまるでない。
でも、目の前の令嬢は違った。
立ち姿も、話し方も、少し困ったように笑う表情も、何もかもが自然に可愛らしい。
(……こういう女性が、エリック様の好みなのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥がほんの少しだけちくりとした。
けれど同時に、別の考えが浮かんだ。
(この方と仲良くなれたら……)
少しくらい、愛嬌のある振る舞いを学べるのではないだろうか。
そうすれば――
……いや。今さらエリック様との関係をどうこうしようというわけではない。もう期待しないと決めたのだから。
(でも、少しくらい参考にするだけなら……)
なぜか自分自身へ言い訳をしながら、私は目の前の令嬢をもう一度見た。すると彼女もまた、なぜかじっとこちらを見ている。
「「あの……」」
「「はい!」」
「「…………」」
今度は二人揃って黙り込む。先ほどまでの緊張が嘘のように、何だか少し可笑しくなった。
令嬢も同じだったらしい。ふっと表情を緩めると、楽しそうに小さく笑った。
その笑いにつられて、私の頬も自然と緩む。
その笑顔を見て、私はまた思った。
(可愛い……!)
「先ほどは、本当にありがとうございました」
「いえ。当然のことをしただけです」
「それでも、助かりました。何かお礼をさせてください」
「お礼なんて、そんな」
断ろうとして、私は言葉を止めた。
――お礼。
もし本当に何か一つ、お願いをしていいのなら――
頭に浮かんだのは、自分でも随分と突拍子のない考えだった。
初対面の相手だ。普通なら、そんなことを頼むものではない。けれど、ここで別れてしまえば、おそらく二度と会うことはないだろう。
(……聞くだけ、聞いてみようかしら)
「あの」
「はい?」
「それなら、一つだけお願いしてもいいですか?」
「もちろんです。私にできることなら」
令嬢が素直に頷く。
私は少しだけ躊躇ったあと、思い切って口を開いた。
「……僕と、友人になってはもらえませんか?」
「……え?」
大きな瞳が、さらに丸くなる。
ぽかんとしたまま私を見つめるその顔を見て、胸の奥にじわじわと後悔が広がっていく。
(やっぱり変だったわよね!?)
助けた相手に突然「友人になってほしい」など、冷静に考えれば相当おかしい。
(というか、これでは私までナンパしているみたいじゃない……!)
「すみません。突然こんなことを言われても困りますよね。今のは忘れて――」
「なります!」
「……え?」
「ぜひ、友人になってください!」
今度は私が目を丸くする番だった。令嬢はなぜか、とても嬉しそうに笑っている。
「本当に?」
「はい!」
あまりにも迷いのない返事に、こちらまで嬉しくなった。
「それなら……改めて。僕は……オリバーです」
本当の名を名乗るわけにはいかない。一瞬迷った末に、オリビアから少しだけ変えた名前を口にする。
「オリバー様……」
令嬢は確認するようにその名前を繰り返してから、柔らかく微笑んだ。
「私はエリ……」
そこで彼女は不自然に言葉を切り、小さく咳払いをした。
「……エリーです。エリーと呼んでください」
「エリー嬢」
「はい」
こうして私は、ほんの少し気分転換をするために男装して出かけた街で、とても可愛らしい一人の令嬢と友人になった。
――目の前の“エリー”が、十年間想い続けている婚約者本人だとも知らずに。




