第2話 エリック・ウィルモア ◇
ウィルモア公爵家は、代々宰相を務めてきた歴史ある家門だ。
政治と外交を担い、ときには言葉ひとつで国の行く末すら左右する。
そんな家の嫡男として生まれた俺、エリック・ウィルモアにも、幼い頃から決められた婚約者がいる。
オリビア・ルメイン侯爵令嬢。
淡いシャンパンゴールドの髪に、春の若草を思わせる黄緑色の瞳。陶器のように白い肌に、小さな鼻と柔らかそうな唇。
可憐という言葉をそのまま人の形にしたような少女で、社交界では『妖精姫』などと呼ばれている。
初めてその呼び名を耳にしたときは、ずいぶん大げさなものだと思った。
だが、本人を見れば誰も否定できないだろう。
……少なくとも、俺には無理だ。
そんな彼女に、俺は六歳の頃からずっとどうしようもないほど惚れている。
始まりは、一目惚れだった。
ある日、ルメイン侯爵とともに我が家を訪れた少女を、「お前の婚約者だ」と父上から紹介された。
その姿を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
(……天使か?)
当時の俺は、本気でそう思った。
窓から差し込む光を受けて輝く淡い金色の髪も、大きな黄緑色の瞳も、緊張してほんのり頬を赤くしている姿も、何もかもが可愛かった。
「エリック・ウィルモアです。よろしくお願いします」
「……オ、オリビア・ルメインです」
どうにか挨拶だけはすると、小さな声でそう返してくれたオリビアがあまりにも可愛くて、そのあとの記憶はほとんどない。
父上たちが何か話していたような気はするし、俺も何か答えたのかもしれない。
ただ覚えているのは、目の前の少女をこれ以上見ていたら、何かおかしなことを口走りそうで、必死に視線を逸らしていたことくらいだ。
――そして十年。
状況は、ほとんど変わっていない。
いや、正確には悪化している気さえする。
俺とオリビアは、家同士の取り決めで月に一度、必ず二人で過ごす時間を設けられている。
それが十年間も続いているのだ。
普通なら、もう少し仲良くなっていてもいいはずだ。
少なくとも、婚約者の好きな食べ物くらいは知っていて当然ではないだろうか。
だというのに、俺は未だにオリビアの好物ひとつ、自信を持って答えられない。
なぜなら――
「……今日は、いいお天気ですね」
ある日の茶会で、オリビアがそう言った。
窓の外には、今にも雨が降り出しそうな分厚い雲が広がっている。
(可愛い)
真っ先に浮かんだ感想が、それだった。
言ったあとで間違いに気づいたらしく、オリビアの目がわずかに泳いでいる。
(どうしよう。可愛い)
本当なら、そこで笑って、『そうですね。ですが午後からは雨になるそうですよ』くらい言えばよかったのだ。
そこから天気の話でもして、次に好きな季節でも聞けばいい。話題など、いくらでも広げられたはずだった。
しかし、実際に俺の口から出たのは、
「……そうですね」
それだけだった。
「…………」
「…………」
――会話終了。
(何をしているんだ、俺は)
毎回これだ。
オリビアと会う前には、話したいことをいくつも考えている。
最近読んだ本や学園のこと。
城下に新しい菓子店ができたこと。
以前彼女が身につけていた髪飾りが、とても似合っていたこと。
それから――
『今日は会えて嬉しい』
たったそれだけでもいい。言えれば、きっと何かが変わる。
そう思っているのに、いざ目の前にオリビアが座ると、考えていたことは全部消えてしまう。
髪が綺麗だ。今日のドレスもよく似合っている。
睫毛が長い。手も小さい。
(……こんなに近くにいていいのか)
そんなことばかりが頭を埋め尽くし、結局何も言えなくなるのだ。
しかも、以前どこかでこんな話を聞いてしまった。
『オリビア様って、落ち着いた方がお好みらしいわよ』
『騎士家のご令嬢ですもの。やっぱり堂々としていて、格好いい男性がお好きなのかしら』
たまたま耳にした令嬢たちの会話だった。
真偽など分からない。本人に聞けば済む話だ。
――もっとも、俺にそんな勇気があるはずもない。
(落ち着いた、格好いい男……)
落ち着いていて、堂々としていて、何があっても動じない――オリビアが好むのは、きっとそんな男なのだ。
その話を聞いてから、俺は自分の言動を必要以上に意識するようになった。
本当の俺がどんな人間なのか知られたら、幻滅されるかもしれない。
俺には姉が三人と、妹が一人いて、家族仲もかなりいい。
子どもの頃は姉たちや妹に囲まれて遊ぶことも多く、その影響なのか、俺は昔から可愛いものが好きだった。
小さな花柄の小物も、繊細なレースも、色とりどりの菓子も、動物を模したぬいぐるみも好きだった。
幼い頃など、姉たちに混ざってドレスを着せてもらい、遊んでいたことさえある。
別に、今だって嫌いになったわけではない。むしろ好きだ。新しい菓子店のショーウィンドウに、小さな花を散らしたケーキでも並んでいれば、つい目で追ってしまう。
服飾店の前を通れば、オリビアに似合いそうなものへ目が留まることもある。
以前、淡い色の布地に小さな花の刺繍を散らしたドレスを見つけたときなど、しばらくその場を離れられなかった。
(……絶対に似合う)
オリビアがそれを着た姿まで簡単に想像できたし、本気で贈ろうかとも思った。
けれど、いざ購入しようとしたところで急に不安になった。
(いや、待て。婚約者とはいえ、俺の好みでドレスを贈るのは重くないか?)
しかも、こんな可愛らしいものを好む男だと知られて、趣味が合わないと思われたらどうする。
散々悩んだ末、結局そのとき贈ったのは、似たような小花を刺繍したハンカチだった。
我ながら、ずいぶん規模が小さくなったと思う。
問題は、オリビアがそんな俺をどう思うかだった。
(オリビアは、こういう男を好きではないかもしれない)
そう考えてしまって以来、オリビアの前ではできるだけ落ち着いて、堂々として、余裕のある男でいようと努めた。
その結果、喋らない、笑わない、ひたすら格好をつけているだけの――そんな婚約者が完成した。
我ながら、どうしてこうなった。
「お前、本当に見た目詐欺だな。このヘタレ」
「……ほんと、妖精姫が可哀想だ」
容赦なくそう言ってくるのは、幼馴染でもある王太子ジークフリートと、同じく公爵家のジョゼフだ。
二人とは幼い頃からの付き合いで、俺とオリビアの関係についても嫌というほど知られている。
だから、今さら取り繕ったところで意味はない。
「分かってる……俺だって、どうにかしたいとは思ってる」
「十年間そう言ってるだろ、お前」
「話しかけるだけだぞ?」
ジークフリートが呆れた顔をして、ジョゼフまで追い打ちをかけてくる。
「それができたら苦労してない……」
「お前、普段は王族相手でも平然と意見するくせに、なんで婚約者一人を前にするとそうなるんだよ」
「オリビアは王族より尊い」
「……お前、それ俺の前で言うか?」
「事実だから仕方ない」
「意味が分からん」
「俺も自分で分からない」
二人が揃って深いため息をついた。
ここまでが、もはやいつもの流れだった。
しかも、オリビアは年を重ねるにつれて、ますます綺麗になった。
十年前はただただ可愛らしい少女だったのに、今では幼い頃の可憐さをどこかに残しながらも、ふと息を呑むほど美しい令嬢になっている。
背筋を伸ばして歩く姿も、誰かに挨拶するときの微笑みも、すべてが洗練されていた。
当然、そんな彼女を見ているのは俺だけではない。
「おい、見ろよ。妖精姫だ」
「本当、可愛いよな。婚約者がいなかったら立候補するのに」
学園では、そんな会話を何度聞いたか分からない。
(……見るな)
反射的にそう思う。
いや、見るなというのはさすがに横暴だ。
オリビアが綺麗なのだから、目を奪われるのは仕方がない。俺だって毎回見ている。
とはいえ、だからといって平然としていられるわけでもない。
廊下ですれ違ったあとに振り返る者。
食堂では、離れた席から何度も彼女の様子を窺っている者。
夜会では、声をかける機会を狙っている男までいる。
誰かがオリビアに笑いかければ気になるし、オリビアがそれに微笑みを返せば、もっと気になる。
誰かが彼女との距離を少し詰めただけでも、すぐに目についてしまう。
(……近くないか?)
婚約者がいる令嬢に何を考えているんだ、と腹が立つことさえある。
……しかし、その婚約者である俺自身がまともに彼女へ話しかけることすらできていない。
(俺が言えたことじゃないな……)
オリビアのそばへ行って、ごく自然に『婚約者なので』と隣に立てばいい。
たったそれだけのことなのにそれすらできず、少し離れたところから気にしているだけだ。
情けないにもほどがある。
以前はそんな俺を見かねてか、オリビアの方から何か話そうとしてくれていた。
月に一度の茶会でも、会話が途切れるたびに次の話題を探そうとしてくれていたように思う。
それに、ときどき以前より柔らかく笑おうとしているように見えることもあった。
けれど俺にはそれが好意からではなく、婚約者として最低限愛想よくしてくれているだけのように思えていた。
そして最近では話題を探してくれることさえほとんどない。
必要なことだけ話して、静かに微笑んで帰っていく。
(……嫌われたかもしれない)
いや、十年もまともに話せていないのだから、むしろ今まで嫌われていなかったと思う方がおかしいのかもしれない。
学園でも、二人の関係についてこんな声が聞こえてくることがあった。
「本当にエリック様とオリビア様って婚約されているの?」
「一緒にいるところ、ほとんど見ないわよね」
そのたびに、どうにかしなければと思った。
――思うだけで、結局何もできなかったのだが。
そういえば以前、一度だけ友人の妹と話していて、思わず笑ったことがある。
あとから遠くにオリビアらしき後ろ姿を見つけ、少し嫌な予感がした。
(……まさか、あれも何か勘違いされてないだろうな)
そう思ったものの、『さっき見ていましたか』などと聞けるはずもない。
結局、それも確かめられないまま時間だけが過ぎた。
そして先日、俺たちはとうとう学園を卒業した。
つまり、そろそろ結婚の話が本格的に進み始める。
俺はオリビアと結婚したい。
できることなら、明日にでもしたい。
だが、今の状態のまま結婚して、オリビアは幸せなのだろうか。
俺と夫婦になることを望んでいるのだろうか。
考えれば考えるほど、自信がなくなる。
彼女のためにも、この婚約を解消してやった方がいいのではないか。
そう考えたことも、一度や二度ではない。
オリビアには、俺よりずっと彼女を幸せにできる男がいるかもしれない。
俺のように十年間もまともに会話すらできない男ではなく、自然に笑わせてやれて、好きなものを聞いて、手を取って――
(…………)
そこまで考えたところで、知らない男がオリビアの隣に立っている光景が頭に浮かんだ。
結婚式で、その男に微笑むオリビア。
男がオリビアの手を取る。
オリビアが幸せそうに笑う。
(……無理だ)
ものすごく嫌だ。
婚約を解消した自分を一生呪う自信がある。
しかも、学園で彼女を見ていた男たちの誰かがその場所に立つかもしれないと考えた瞬間、さらに嫌になった。
下手をすれば、その男を見ただけで殴りたくなるかもしれない。
いや、場合によっては――
(……やめよう)
俺は考えるのをやめた。
少なくとも、オリビアのために身を引くという美しい選択肢は、俺には無理らしい。
諦めることを、諦めた。
ならば、残された道は一つ。
どうにかして、オリビアとの仲を改善するしかない。
……その方法が分かるなら、十年もこんなことにはなっていないのだが。
「はぁ……」
自室の机に頬杖をつき、何度目になるか分からないため息を吐く。
そのときだった。
勢いよく扉が開いた。
「エリック兄様!」
「……レベッカ。ノックをしろ」
「しました!」
「聞こえなかった」
「それは兄様がずっと難しい顔をして考え込んでいるからです」
悪びれもせず部屋へ入ってきたのは、一番下の妹であるレベッカだった。
その腕には、なぜか何着ものドレスが抱えられている。
「……何だ、それは」
「ドレスです」
「見れば分かる」
嫌な予感しかしない。
そんな俺の心中など知ってか知らずか、レベッカは満面の笑みを浮かべた。
「エリック兄様。一緒に街へ行きましょう!」
「行かない」
「まだ何も説明してませんけど!?」
「そのドレスを見れば十分だ」
「もう。昔は一緒に着てくれたじゃないですか」
「昔はな」
幼い頃の話だ。
今の俺がそんな姿で人前に出たなどと知られたら、ただでさえ脈のないオリビアに完全に見限られるかもしれない。
「嫌だ。絶対に行かない」
「でも兄様、この数日ずっと部屋に籠ってオリビア様のことばっかり考えてるでしょう?」
「……なぜ分かる」
「分からないと思っていたんですか?」
……そんなに分かりやすいのか、俺は。
「ずっと同じことを考えていても、良い案なんて浮かびませんよ。気晴らしが必要です!」
「だからといって女装する理由にはならないだろう」
「私、兄様と姉妹みたいにお出かけしてみたいんです」
「姉上たちがいるだろ」
「エリック兄様ともしたいんです!」
「嫌だ」
「大丈夫です。兄様だと分からなければ問題ありません!」
「問題はそこじゃない」
まったく話が噛み合わない。
そんな俺をよそに、レベッカは待っていましたとばかりに掌を開いた。
そこには、小さな黄色いブローチが載っていた。
「……それ」
「はい!」
それは、ウィルモア公爵家に昔から伝わる魔道具だった。
黄色い宝石を嵌め込んだ、ごく普通のブローチにしか見えない。けれど、その効果は普通ではない。
身につけた者の性別による身体的な特徴を、一時的に反転させるのだ。
魔道具そのものは、別に珍しいものではない。
灯りを点けるものや温度を保つものなど、日常で使われる品も多い。
けれど、人の身体そのものへ作用する魔道具となれば話は別だ。
まして、ここまで違和感なく姿を変えられるものは滅多になく、同じものを簡単に手に入れられるような代物ではない。
「これを使えば、兄様だって絶対にバレません!」
「……待て。これ、仮にもウィルモア家に代々伝わるものなんだが」
「使わずにしまっておくより、使った方が魔道具も喜びます」
「絶対にそんな理由ではないだろ」
「髪型とお化粧も変えてしまえば完璧です!」
「レベッカ」
「可愛いドレスも選んであります!」
「話を聞け」
俺の抵抗など、最初から聞くつもりがなかったらしい。
しかも最悪なことに、その日はたまたま三人の姉上たちまで屋敷へ戻っていた。
「あら、楽しそうね」
「エリックが女の子になるの?」
「懐かしいわ。小さい頃はあんなに可愛かったもの」
「姉上、待ってください」
味方がいない。
それどころか、一瞬で敵が四人に増えた。
「ずっと部屋に籠って考え込んでるから、いい案が浮かばないんです!」
「そうね。気晴らしは必要よ」
「エリックだと分からないなら問題ないでしょう?」
「ほら、座って」
「ちょっと待て。本当にやるのか?」
「もちろん」
昔から身に染みて分かっていることがある。
女性――特に、ウィルモア家の女性たちに囲まれたときは、無駄な抵抗をしてはいけない。
こちらが疲れるだけだ。
――そして、数十分後。
「…………」
鏡の前に、一人の少女が立っていた。
身体つきはすっかり女性のものへ変わり、身長も普段より少し低くなっている。肩幅も狭まり、全体的に華奢な印象になっていた。
さらに、姉たちが用意した淡い色のかつらが、元の灰褐色の髪をすっかり覆っている。
顔立ちそのものには俺の面影が残っているはずなのに、身体つきも髪色も違えば印象はまるで別人だ。
そこへレベッカたちに施された化粧と淡い色のドレスまで加われば、どう見ても若い令嬢にしか見えない。
「すごい! やっぱりエリック兄様、可愛いです!」
「懐かしいわねえ」
「昔より綺麗なんじゃない?」
三人の姉上たちが、鏡越しに俺の姿を面白そうに眺める。
「それにしても、外では『紫薔薇の貴公子』なんて呼ばれているのよねえ」
「……その話は今関係ないでしょう」
「こんなにレースも可愛いお菓子も好きなのに」
「別に、好きでもいいでしょう」
「ええ。悪いなんて言ってないわよ?」
三人の姉上たちが、顔を見合わせて楽しそうに笑った。
「ただ、ずいぶん上手に隠しているのねと思って」
「…………」
「オリビア様に格好いいと思ってもらいたいものね?」
「……放っておいてください」
「でも、『紫薔薇の貴公子』なんて呼ばれるの、嫌ではないんでしょう?」
「……まあ。オリビアの婚約者として、みっともなく見られるよりはいいでしょう」
「はいはい」
「そういうことにしておきましょうね」
改めて自分の姿を見つめる。
このドレスの刺繍はかなり可愛い。
袖口の細いレースも繊細で、色合わせも悪くない。裾に散らされた小さな花も、よく見ると一つ一つ形が違っている。
(……可愛いな。…………いや、違う。そうじゃない)
思わずじっくり見てしまってから、我に返る。
確かに好みではある。かなり好みだ。
だが、自分が着て街を歩きたいかどうかは、まったく別の話である。
「……本当にこれで街へ行くのか?」
「もちろんです!」
レベッカが当然のように答えたのを聞きながら、俺はもう一度鏡の中の自分を見た。
少なくとも、一目でエリック・ウィルモアだと見破られることはなさそうだった。
最近ずっとオリビアのことばかり考えていたのも事実だ。
少しくらい頭を空っぽにする時間があってもいいのかもしれない。
「……分かった」
「本当ですか!?」
「ただし、知り合いに会いそうになったらすぐ帰るぞ」
「はい!」
妙に嬉しそうな妹に押されるようにして、俺は部屋を出た。
こうして俺は、女装した姿のままレベッカと街へ出ることになった。
――まさか、このあと見知らぬ令嬢だと思われ、男たちに声をかけられることになるとも知らずに。
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