第1話 オリビア・ルメイン
ルメイン侯爵家は、代々騎士団長を輩出してきた歴史ある家だ。
剣と忠義を重んじる家に生まれた私、オリビア・ルメインにも、当然のように幼い頃から決められた婚約者がいる。
ウィルモア公爵家の嫡男、エリック・ウィルモア。
落ち着いた灰褐色の髪に、アメジストのような紫色の瞳。整った容姿だけでなく頭脳も明晰で、王太子殿下とも親しく、いずれはその右腕になるだろうと噂されている。
社交界では『紫薔薇の貴公子』などという、少々大げさにも思える呼び名までついているけれど――彼を知る者なら、誰もそれを笑わない。
それくらい、エリック様は完璧な人だった。
そして私はというと、そんな自分の婚約者に、六歳の頃からずっと恋をしている。
……一目惚れだった。
今でも、初めてエリック様を見た瞬間のことはよく覚えている。
騎士団長を務めるお父様に連れられて訪れたウィルモア公爵家で、「将来、お前の夫になる方だ」と紹介されたのがエリック様だった。
まだ幼かった私は、政略結婚というものがどういうものなのか、よく分かっていなかったと思う。
ただ、お父様の隣から恐る恐る顔を上げた私は、そこに立っていた少年の姿に息を呑んだ。
(……天使?)
本気でそう思った。
もちろん、今となっては彼が天使ではないことくらい分かっている。
けれど六歳だった私にとって、長い睫毛に縁取られた綺麗な瞳でこちらを見つめるエリック様は、本当に絵本から抜け出してきた何かのように見えたのだ。
「エリック・ウィルモアです。よろしくお願いします」
「……オ、オリビア・ルメインです」
どうにかそれだけは答えた……はずだ。
その後に何を話したのかは、ほとんど覚えていない。
ただ胸が苦しいくらいに鳴っていて、顔が熱くて、まともに彼の顔を見ることさえできなかった。
まさか自分が一目惚れなんてするとは、思ってもいなかった。
それから十年。
私たちは今も婚約者である。
――ただし、十年も婚約しているとは思えないほど、仲はよろしくない。
婚約してからは、家同士の取り決めで、月に一度は必ず二人で過ごす時間が設けられていた。
幼い頃は、次に会える日を指折り数えながら、いつも楽しみに待っていた。
今度こそ、何か話そう。
エリック様の好きなものを聞いて、できれば私のことも少しくらい知ってもらいたい。
そんなことばかり考えていた。
けれど、あるとき社交の場で、こんな話を耳にした。
「エリック様って、明るくて愛嬌のある女性がお好きなんですって」
「ああ、なんとなく分かるわ。いつもにこにこしていて、そばにいるだけで周りまで明るくなるような方でしょう?」
(……明るくて、愛嬌のある女性)
その言葉が、妙に心に残った。
容姿についてなら、ありがたいことに褒めてもらう機会は多い。
幼い頃から『妖精姫』などという、少々気恥ずかしい呼び名までつけられていたし、昔は「可愛らしい」と言われることも多かった。
けれど、成長するにつれてどちらかといえば「綺麗」「美しい」と言われることの方が増えた。自分でも、いわゆる「可愛らしいタイプ」ではないと思っている。
まして、愛嬌となると話は別だった。
私は元々、どちらかといえばさっぱりした性格をしている。
いつもにこにこと笑い、そばにいるだけで周囲まで明るくするような――そんな“ひだまりのような女性”とは、どう考えても程遠い。
(でも、少しくらいなら……)
性格そのものを急に変えることはできなくても、振る舞いなら少しくらい近づけるかもしれない。
そう思って以来、できるだけ柔らかく笑うよう心がけたり、声の調子を意識したりするようになった。
鏡の前なら、それなりにできる。
けれど、エリック様を前にすると、途端にうまくいかなくなってしまう。
いざ本人を目の前にすると、どうしてだか頭の中が真っ白になるのだ。
笑おうと思えば思うほど顔が固まり、何か話さなければと焦るほど、言葉が出てこない。
ある日など、ようやく絞り出した言葉がそれだった。
「……今日は、いいお天気ですね」
言ってから窓の外を見ると空は分厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。
(全然よくないわ……!)
それでもエリック様は私の間違いを指摘することなく、静かに答えてくれた。
「……そうですね」
「…………」
「…………」
そして、会話は終わった。
だいたい、いつもこんな調子である。
十年間、月に一度は顔を合わせてきた。積み重ねればそれなりの回数になるはずなのに、私たちは未だにお互いの好きなものさえ満足に知らない。
誕生日には贈り物を交換するけれど、それも婚約者として当然の範囲を出るものではなかった。
私など毎年何か月も前から悩みに悩んで、結局は無難な品物に落ち着いてしまう。
こんな物を贈ったら困るだろうか。
趣味に合わなかったらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、何も選べなくなるのだ。
エリック様からいただくものも、いつも上品で控えめな品ばかりだった。
以前、小さな花の刺繍が入ったハンカチをいただいたことがある。派手ではないけれど繊細で、私はとても気に入っていて、今でも大切に使っている。
(エリック様は、こういう落ち着いたものがお好きなのかしら)
そんなふうに思ったこともあった。
それでも、以前の私はまだ希望を捨てていなかった。
エリック様は元々あまり口数の多い方ではないのだと思っていたし、表情もそれほど変わらない人なのだと思っていたからだ。
だから、私に対してだけ特別そっけないわけではない。
きっと誰に対してもこうなのだ。
そう思っていた。
――学園で、あの光景を見るまでは。
それは、何でもない日のことだった。
授業を終えて廊下を歩いていた私は、中庭にエリック様の姿を見つけた。
声をかけようかと足を止める。
けれど彼の前には、すでに一人の令嬢がいた。
知り合いなのだろう。二人は何かを話していて、私は邪魔をしてはいけないと思い、そのまま通り過ぎようとした。
そのときだった。
令嬢が何かを言い、エリック様が笑った。
ほんの少しだけ目元を和らげた、穏やかな笑顔だった。
私は思わず、その場に立ち尽くした。
(……笑うんだ)
当たり前だ。
人間なのだから、笑うに決まっている。
そんなことは分かっている。
けれど私は、十年も彼の婚約者をしていて、その顔をほとんど見たことがなかった。
私の前ではいつも静かで、どこか緊張したように口数が少なく、笑いかけてくれることなどない。
なのに今、彼はごく自然に他の令嬢と話している。
(……そっか)
妙に、納得してしまった。
エリック様は無口なのではなかった。
笑わない人でもなかった。
――私といるときに、話したくないだけだったのだ。
そう考えれば、何もかも辻褄が合った。
十年間、一向に縮まらない距離も。
会話が続かないことも。
いつまで経っても他人行儀なことも。
「本当にエリック様とオリビア様って婚約されているのかしら」
「学園でもほとんど一緒にいないものね。不仲だって噂、本当なのかしら」
そんな声を聞くことも、一度や二度ではなかった。
それまでは聞こえないふりをしていた。
いつかは仲良くなれると思っていたから。
お父様とお母様のように、お互いを大切に思い合える夫婦になれたらいいと、ずっと憧れていたから。
けれど、相手から嫌われているのなら話は別だ。
私一人がいくら頑張ったところで、どうしようもない。
その日を境に、私はエリック様との距離を縮めようとするのをやめた。
心が折れた、と言ったほうが正しいのかもしれない。
そして先日、とうとう学園を卒業した。
つまり、このまま何事もなければ――近いうちに私はエリック様と結婚する。
「……どうしたものかしら」
自室の長椅子に寝転がりながら、私は何度目になるか分からないため息をついた。
もちろん、私は今でもエリック様が好きだ。
自分から距離を縮めるのをやめたからといって、十年も抱えてきた気持ちまで綺麗になくなってくれるはずもない。
問題は、エリック様が私を好きではないことだ。
この婚約は、そもそも恋愛感情で結ばれたものではない。ルメイン侯爵家とウィルモア公爵家、軍事と政治、その双方の結びつきを強めるための政略結婚だ。
だから、私たちの気持ちだけで簡単に解消できるものでもない。
とはいえ、嫌いな女と一生を過ごせというのも、あまりにエリック様が気の毒である。
(婚約解消……は、私一人ではどうにもならないし)
いっそ別に好きな人でもできれば、話は早いのかもしれない。
――駆け落ち。
……相手がいない。
――浮気。
……それも相手がいない。
正確には、私に好意を寄せてくれる男性がまったくいないわけではない。
けれど、誰を見ても心が動かなかった。
少しでもそういう目で見ようとすると、必ず頭の中にエリック様が浮かんでくるのだ。
「もう期待しないって決めたのに……」
恋とは、なんとも融通が利かない。
そんな調子でここ数日、暇さえあれば部屋に籠もって考え込んでいたからだろう。
とうとう見かねたお兄様が、私の部屋を訪ねてきた。
「お前、まだ悩んでるのか?」
「……放っておいてください」
「卒業してからほとんど屋敷にいるだろう。少しくらい外へ出たらどうだ」
「令嬢が一人でふらふら街を歩くわけにもいかないでしょう?」
護衛を連れて出かければいい話ではある。
けれど今は、誰かに気を遣いながら歩きたい気分ではなかった。
すると、お兄様は少し考えたあと、何でもないことのように言った。
「だったら、騎士にでも扮して行けばいいんじゃないか?」
「…………はい?」
「お前、そこらの男より強いだろ」
「それは……まあ」
騎士団長の娘として育った以上、護身術程度は身につけている。
というより、お父様やお兄様に混ざって剣を振っているうちに、護身術と呼んでいいのか少々怪しいところまで来てしまった気もする。
一人で街へ出たところで、よほどのことがなければ自分の身くらいは守れるだろう。
問題なのは侯爵令嬢が護衛もなく一人で出歩いている、という外聞だけだ。
「変装してしまえば、オリビア・ルメインが一人で歩いているとは誰も思わないだろ」
「……なるほど」
その発想はなかった。
騎士見習いくらいなら剣を下げていても不自然ではないし、一人で街を歩いていてもそうおかしくは見えない。
少なくとも、普通の若い男に扮するよりは、妙な相手に絡まれる可能性も低そうだ。
そう考えると、思った以上に理にかなっている。
お兄様はどうやら半分冗談で言ったらしい。
けれど、数日間部屋に籠もって悶々としていた私には、その提案が天啓のように聞こえた。
「お兄様。騎士見習いの頃の制服、まだあります?」
「……まさか本当にやる気か?」
その日のうちに、お兄様の古い騎士見習い用の服を借りた。
さすがに現在使っている正規の騎士服を借りるわけにはいかないけれど、見習い時代のものなら問題ないらしい。
髪は黒いかつらに隠し、顔立ちも化粧で少し男性らしく見えるよう整える。
最後に底の厚いブーツを履けば、普段より視線が高くなった。
「……思ったより、それっぽい」
鏡の前で身体の向きを変えてみる。
そこに映っているのは、少なくとも一目見ただけでオリビア・ルメインだと分かる姿ではなかった。
少し華奢ではあるけれど、若い騎士見習いだと言えば通りそうだ。
お兄様の服ということもあって肩幅には多少余裕がある。それがかえって体の線を隠してくれていた。
剣帯にいつも使っている剣を下げると、不思議なことに気持ちまで少し軽くなった。
令嬢としてどう振る舞うべきか。
エリック様との婚約をどうすべきか。
そんなことばかり考えていた数日間が、急に馬鹿らしく思えてくる。
何も今日、人生の答えを出す必要はない。
少しくらい息抜きをしたって、罰は当たらないだろう。
私は鏡の中の見慣れない自分をもう一度確認すると、小さく頷いた。
「よし。街へ行こう」
――このときの私は、もちろん知らなかった。
ほんの少し気分転換をするだけのつもりで出かけた街で、まさか本当に騎士のように誰かを助けることになるなんて。




