第16話 友人に会えないだけなのに ◇
オリバーから手紙が届いたのは、討伐から二日ほど経った日のことだった。
夕食を終えて自室へ戻ろうとしていたところで、廊下の向こうからレベッカが小走りで近づいてくる。
「お兄様、ちょっといい?」
「どうした?」
問い返すと、レベッカは周囲に人がいないことを確かめるように一度だけ視線を巡らせてから、手にしていた封筒を差し出した。
「手紙よ」
「……エリー宛てか?」
「そう。いつものお店に預けてあったの」
誰からなのか聞くまでもなかった。エリー宛てに手紙を寄越す相手など、一人しかいない。
無意識に表情が緩んだらしく、レベッカがじっとこちらを見る。
「……何だ?」
「別に。嬉しそうな顔しちゃって、と思っただけ」
「していない」
「はいはい」
指摘されたことが妙に気恥ずかしくて、俺は何でもないような顔を作りながら封筒を受け取った。レベッカが離れていくのを待ってから、自室へ入る。
扉を閉めると、俺は机へ向かうより先に封を切った。
『エリーへ』
書き出しを見ただけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
『急で申し訳ありませんが、しばらく身内の用事が立て込むことになり、いつものように街へ出るのが難しくなりそうです。
少しの間、お会いできないと思います。
落ち着いたら、またこちらからご連絡します。
そのときは、またいつものお店でお話しできれば嬉しいです。
オリバー』
最後まで読み終えても、すぐには手紙を畳めなかった。
しばらく忙しくなるから会えない。落ち着いたら、また連絡する――書かれているのは、ただそれだけだ。
(身内の用事……)
先日の討伐でも、オリバーは親戚であるヴィクトル殿から頼まれて、騎士団の手伝いをすることになったと話していた。
もともと騎士見習いだと聞いているし、今回もまた何か頼まれたのかもしれない。
そう考えると、自然と先日の二人の様子が頭に浮かんだ。
あの日もヴィクトル殿はオリバーと随分親しげに話していた。頭に手を置く仕草も、あまりにも自然だった。
(……親戚なのだから、あれくらい普通なのかもしれないが)
そう思うのに、なぜか胸の奥が少しだけざらつく。
(……何なんだ、これは)
考えたところで理由は分からず、俺は小さく息を吐いて手紙へ視線を戻した。
俺の方もしばらくはジークフリートの執務を手伝う予定が入っているため、騎士団へ顔を出す機会は減る。
つまり、いつもの店で会えないだけでなく、偶然オリバーと顔を合わせる可能性もほとんどなくなるということだ。
(……本当に、しばらく会えないのか)
そう考えた瞬間、思っていた以上に胸の奥が沈んだ。
どのくらい会えないのだろう。一週間程度なのか、それとももっと長いのか。わざわざ手紙を寄越すくらいなのだから、数日ということはないのかもしれない。
そこまで考えてから、俺は我に返った。
(……何を気にしているんだ、俺は)
オリバーは友人なのだから、少し会えなくなるくらいで何か困るわけではない。
これまでにも、ジークフリートやジョゼフと何週間も顔を合わせなかったことなど何度もある。
それなのに、オリバーとしばらく会えないと聞いただけで、妙に物足りなく感じてしまう。
いつもの店で向かいに座って、婚約者について相談したり、菓子を食べたり。
何でもない話で笑ったり。
そんな時間が思っていた以上に自分の中で大きなものになっていたことに、今さら気づかされたような気がした。
(友人に会えないだけで、こんなに残念に思うものなのか?)
答えは出ないままだった。けれど、手紙の最後にはちゃんと続きがある。
『そのときは、またいつものお店でお話しできれば嬉しいです』
そこを読み返すと、ほんの少しだけ胸の重さが和らいだ。
会えなくなるわけではない。しばらく待てば、また会える――それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は手紙を丁寧に畳んだ。
◇
翌日。
王城の執務室で、俺は地方から届いた報告書の整理を進めていた。
先日の討伐とは違い、完全に俺の得意分野だ。
午前中の仕事がひと段落した頃、ジークフリートが何気ない調子で口を開いた。
「そういえば、エリック。お前とオリビア嬢、結婚の話は進んでるのか?」
思ってもいなかった話題に、俺は瞬きをする。
「……結婚?」
「そうだ。日取りはまだ決まっていないのか?」
「ああ……まだ正式には何も聞いていない」
「そうなのか?」
ジョゼフが意外そうに眉を上げる。
「もう少し話が進んでると思ってた」
「俺もだ。十年も婚約していて、学園も卒業したんだろう。両家なら、そろそろ具体的な日取りを決めてもよさそうなものだが」
「……確かに」
言われてみれば、その通りだった。
婚約について何か問題があるという話は聞いていない。父もオリビアとの結婚に反対しているわけではないし、ルメイン侯爵家から婚約を見直したいという話が出たこともない。
それなのに、まだ具体的な日取りの話までは聞かされていなかった。
(……まさか、オリビアが先延ばしにしたがっているわけじゃないよな? ……いや、違うはずだ)
一瞬そんな考えが浮かんだものの、すぐに打ち消す。
少なくとも最近の俺たちは、以前よりずっと自然に話せるようになっている。
だとすれば、日取りが決まっていないのは彼女の気持ちの問題ではなく、単に両家の都合なのだろう。
そう理解はしていても、できることなら早く具体的な話を聞きたいと思ってしまう。オリビアと結婚することを、俺は昔から望んでいるのだから。
そう思うと、改めて彼女と結婚したあとのことまで意識してしまう。
オリビアと結婚する未来は、ずっと前から決まっている。けれど以前の俺にとっては、そこにどうしても不安がつきまとっていた。
オリビアは俺を好いていないのではないか。婚約者だから仕方なく結婚するだけなのではないか――そんなふうに思っていたからだ。
今も、彼女の気持ちを自分に都合よく決めつけるつもりはない。それでも、以前よりは少しだけ希望を持てるようになっている。
甘いものが好きだと打ち明けても嫌な顔はされなかったし、俺が選んだ贈り物も、驚きながらではあったが受け取ってくれた。
少なくとも、俺が思っていたほど嫌われているわけではないのかもしれない。
(結婚したら……)
同じ屋敷で暮らすことになる。
朝になれば顔を合わせ、仕事から戻ればまた彼女がいる。食事も、今よりずっと一緒に取ることになるだろう。
そんな生活を思い浮かべると、自然と胸の奥が温かくなった。
休日には、二人で出かけることだってあるかもしれない。
そこまで考えてから、不意に別の考えが浮かぶ。
(……いや、結婚してからでなくてもいいのか)
今度は俺から、どこかへ出かけようと誘ってみてもいいのではないだろうか。
これまでの俺なら、断られることばかり考えて、きっとそんなことは思えなかった。
けれど今なら、少しくらいは期待してもいい気がする。
オリビアの好きそうな場所を考えて、俺から誘う。もし受けてもらえたなら、二人でゆっくり話してみたい。
そんなことを想像しているうちに、知らず知らずのうちに口元が緩んでいたらしい。
「……エリック」
「何だ?」
「顔、崩れてるぞ」
「は?」
「さっきまでと全然違う」
「気のせいだ」
「オリビア嬢のこと考えてただろ」
ジョゼフに指摘され、俺は慌てて表情を引き締めた。
「……放っておいてくれ」
それだけ返すと、ジョゼフは「図星だろ」とでも言いたげに笑い、ジークフリートも何も言わず口元を緩めた。
「別にいいだろう。婚約者との結婚を考えて嬉しいなら、それで」
「……まあ、それは否定しない」
オリビアとの結婚が嬉しいことまで否定する必要はない。
俺はずっと彼女が好きだったのだから。
(……今度、本当に誘ってみるか)
そう考えた瞬間、なぜか黒い髪の青年の姿が脳裏に浮かんだ。
灰牙狼を前に、迷いなく俺の前へ飛び出したオリバーの姿が、やけに鮮明に蘇る。
剣を振るう姿は、周囲の騎士たちとは明らかに違っていた。
力任せではなく、相手の勢いを利用するように身をかわし、崩れた隙へ正確に剣を滑り込ませる。
あの瞬間、確かに俺は格好いいと思った。
『大丈夫ですか?』
そう言ってこちらを見た緑の瞳まで思い出し、俺は眉を寄せた。
(……なぜ今、オリバーが出てくるんだ)
考えていたのはオリビアとのことだ。彼女をどこかへ誘ってみようかと、そう考えていたはずなのに、なぜそこでオリバーの姿が浮かぶのか、自分でも分からなかった。
(……ああ。オリビアのことを、何度も相談していたからか)
そう考えれば、不自然ではない気がした。
これまでも婚約者のことで悩むたび、オリバーには何度も話を聞いてもらっている。
だから、オリビアとのことを考えた瞬間に、相談相手だったオリバーの顔まで浮かんだだけなのだろう。
しかも昨日、しばらく会えないという手紙を受け取ったばかりだ。
それなら、頭に浮かんでも不思議ではない。
そういうことなのだろうと自分に言い聞かせ、俺は手元の書類へ視線を戻した。
「……今度は急に真顔になったな」
「ジョゼフ。仕事をしろ」
「してるって。……まさかとは思うけど、他に好きな相手でもできたわけじゃないよな?」
「エリックに限って、そんなわけ――」
「そんなわけないだろ!!」
思った以上に大きな声が出て、執務室が一瞬しんと静まり返った。
ジョゼフが目を丸くし、ジークフリートも言葉の途中でこちらを見る。
「……何だよ」
「いや……」
ジョゼフが何とも言えない顔をした。
「冗談だったんだけど」
「なら、くだらないことを言うな」
俺はそれだけ返すと、これ以上何か言われる前に手元の書類へ視線を戻した。
向かいでジークフリートがわずかに首を傾げたことには、気づかなかった。
ただ、ほんの少し前まで浮き立っていた胸の奥には、説明のつかない引っかかりだけが残っていた。
◇
その日の夜。
自室へ戻った俺は、着替えを済ませたあとで机の引き出しを開いた。
昨日受け取った手紙は、そこにしまってある。内容はもう覚えているのだから、わざわざ読み返す必要などないはずだった。
それでも、気づけば手を伸ばしていた。
『少しの間、お会いできないと思います』
やはり、その一文を見ると少し寂しくなる。けれど、視線をそのまま下へ滑らせれば、そこにはちゃんと再会を約束する言葉が続いていた。
『落ち着いたら、またこちらからご連絡します。
そのときは、またいつものお店でお話しできれば嬉しいです』
そこまで読むと、少しだけ肩の力が抜けた。
(……また会える)
当たり前のことなのに、その言葉に安心している自分がいる。
オリビアと結婚する未来を想像すれば、今でも素直に嬉しいし、彼女を好きな気持ちは何も変わっていない。
むしろ以前より、これから先のことを楽しみに思えるようになっていて、今度は自分から出かけようと誘ってみたいとさえ思っている。
それなのに、オリバーに少し会えなくなるというだけで、どうしてこんなにも寂しく感じるのだろう。
(……友人に会えないだけなのにな)
答えは出ないまま、俺はもう一度だけ手紙へ目を落とした。




