第17話 お互いしか見えていない
外出禁止が解かれたのは、あの討伐から何日か経った頃だった。
「……本当に、もうよろしいのですね?」
朝食の席で恐る恐る尋ねると、お父様は手元の新聞から顔を上げた。
「何だ。不満なのか?」
「まさか!」
思わず即答すると、向かいに座っていたお兄様が小さく吹き出した。
「随分元気になったな」
「お兄様は黙っていてくださいませ」
「はいはい」
数日前まで一緒に外出禁止を言い渡されていたくせに、どうしてそんなに余裕そうなのだろう。
じろりと睨むと、お兄様は何でもない顔でパンへ手を伸ばした。
お父様はそんな私たちを一度見比べてから、静かに息を吐く。
「いつまでも屋敷へ閉じ込めておくつもりはない。それに、もうすぐウィルモア家との茶会もあるだろう」
「……はい」
お父様はそこで一度言葉を切ると、少しだけ気まずそうに新聞へ視線を落とした。
「……結婚の話については、こちらの都合で待たせている部分もある。せめて茶会くらいは、きちんと予定どおりにさせなければな」
「――あなた」
それまで静かに紅茶を飲んでいたお母様が、呆れたようにお父様を見る。
「“こちらの都合”ではなく、ほとんどあなたの都合ではなくて?」
「……」
お兄様が吹き出すのを堪えた。
月に一度の、エリック様とのお茶会。
以前なら、何を話せばいいのかと考えるだけで気が重くなっていた時間だ。もちろん今でも緊張はするけれど、最近は少しずつ以前とは違うものになり始めている。
甘いものが好きだというエリック様のことも知ったし、私が甘すぎるものをあまり得意ではないことも伝えられた。
贈り物を渡し合ったときだって、以前よりずっと素直に嬉しいと思えた。
そして何より――
『……助かった。ありがとう』
あの日、オリバーとして見たエリック様の柔らかな表情が、ふいに頭をよぎる。
思い出しただけで口元が緩みそうになり、私は慌ててカップへ視線を落とした。
「ただし。無茶はするな」
「……はい」
お父様の声に、ぴたりと背筋が伸びる。
「魔物を見つけても飛び出すな」
「普通、街中に魔物はいませんわ」
「例えだ」
「分かっています」
「本当に?」
「本当です!」
「ならいい」
何度目になるか分からない確認へ力強く頷くと、お父様はようやく納得したらしい。
こうして、私の短い謹慎生活はようやく終わった。
その日のうちに、私はエリー宛ての手紙を書いた。
外へ出られるようになったことと、都合のいい日があればまた会いたいことだけを簡単に記し、いつものように届けてもらう。
返事が届いたのは、その翌日だった。
どうやらエリーの方も会いたいと思ってくれていたらしく、思っていたより早い日を指定してくれていた。
◇
そして二日後の午後。
久しぶりに黒いかつらを被り、オリバーの姿で街へ出た私は、いつもより少しだけ足早に約束の場所へ向かっていた。
(やっと会える……!)
数日しか経っていないはずなのに、随分長く感じた。
屋敷で過ごすこと自体が嫌いなわけではない。けれど、外へ出るなと言われた途端、不思議なくらい街が恋しくなった。
何より、今日はずっと会いたかった相手と会える。
「オリバー!」
聞き慣れた声に顔を上げると、少し離れたところからエリーがこちらへ向かってくるところだった。
「エリー」
思わず頬が緩む。
エリーの方も同じだったらしく、こちらへ近づいてくる足取りがいつもより少しだけ速い。
「お久しぶりです」
「久しぶり……と言っても、そこまで経ってはいないんですけどね」
「でも、いつ会えるか分からないと思うと、すごく長く感じました」
「……僕もです」
素直にそう答えると、エリーが嬉しそうに笑った。
今日は淡いクリーム色のドレスに、小さな花を模した髪飾りをつけている。胸元にはいつもの黄色いブローチが留められていて、柔らかな色合いが彼女によく似合っていた。
(やっぱり可愛い……)
久しぶりに会ったせいなのか、いつも以上にそう思う。
けれど、エリーは私の姿を上から下まで確認するように見たあと、わずかに眉尻を下げた。
「それより、オリバー。大丈夫だったんですか?」
「え?」
「騎士団のお手伝いをしていたのでしょう? その……魔物の討伐もあったと聞きましたし」
思わず瞬きをする。
どうやら、私が騎士団の補助へ行っていたことを心配してくれていたらしい。
「怪我はありませんでした?」
「あ……はい。全然」
「本当に?」
「本当ですよ」
そう答えても、エリーはまだ少し心配そうにこちらを見上げている。
紫色の瞳が真っ直ぐこちらへ向けられ、眉尻までわずかに下がっていた。
(…………可愛い)
胸の奥を撃ち抜かれたような気がした。
どうしてこの子は、こんなに可愛らしい顔で人を心配するのだろう。
「……オリバー?」
「い、いえ。何でもありません」
慌てて顔を逸らす。
このまま見つめられていたら、何か余計なことまで口走りそうだった。
「本当に怪我はありませんから。心配してくださってありがとうございます」
「よかった……」
ようやく安心したらしく、エリーの表情がふっと和らぐ。
その笑顔を見ただけで、今度は私まで安心してしまった。
いつもの店へ入ると、今日も店員は迷うことなく窓際の席へ案内してくれた。
「本日もこちらのお席へどうぞ」
「ありがとうございます」
もはやすっかり定位置だ。
外の景色もよく見えるし、明るくて落ち着くので私たちとしてもありがたい。
注文を済ませると、久しぶりだからなのか話したいことはいくらでも出てきた。
最近できた店のことや、新しく並び始めた菓子のこと。
そして当然のように、話題は互いの婚約者へ移っていった。
「そういえば、オリバーは次に婚約者の方と会う予定は?」
「もうすぐです」
そう答えると、胸の奥がふっと明るくなる。
楽しみな気持ちと少しの緊張が入り混じって、無意識に背筋が伸びた。
「月に一度、必ず会うことになっているので」
「そうでしたね。今度は、何か話したいことがあるんですか?」
「それが……」
少し考えてから、私は正直に答えた。
「今度は、もう少し普通にお話しできたらいいなと思っています」
「普通に?」
「はい。何か特別なことをしようとするのではなくて……婚約者の好きなものを聞いたり、僕のことも少し知ってもらったり」
口にしながら、自分でも少し驚いた。
以前の私は、エリック様に好かれるためにはどう変わればいいのか、そればかり考えていた。
もっと明るく、もっと愛嬌があって、少しでも彼の好みに近い女性にならなければ――と。
けれど最近は、ほんの少しだけ考え方が変わっている。
無理に別の誰かになろうとするより、私自身のことを少しずつ知ってもらえればいい。
そして私も、今まで知らなかったエリック様のことをもっと知りたい。
「それ、すごくいいと思います! 私も、最近そう思うようになったんです」
「エリーも?」
「はい」
そう答えたあと、エリーはカップへ視線を落とした。
何か言い出しにくそうに、取っ手へ指をかけては離している。
「どうしたんです?」
「実は……私も今日は、オリバーに相談したいことがあって」
「もちろんです。何ですか?」
尋ねると、エリーは少し迷ってから顔を上げた。
「婚約者を……今度、どこかへ誘ってみようかと思っているんです」
「本当ですか? エリーから?」
「はい」
少し恥ずかしいのか、その頬はすでにうっすら赤い。
「今までなら、断られたらどうしようと考えて、そんなこと絶対にできなかったと思います。でも最近は、以前より少しだけ話せるようになってきて……」
そこまで話したところで、エリーの言葉がわずかに途切れた。
紫色の瞳が、ほんの一瞬だけどこか遠くを見るように揺れる。
何かを思い出しているのだろうか。
やがてエリーは少しだけ頬を赤くしたまま、照れくさそうに視線を伏せた。
(……可愛い)
婚約者のことでも思い出したのかもしれない。
頬を染めながら好きな人のことを話すエリーは、どうしようもなく可愛らしかった。
「それなら、誘ってみた方がいいですよ」
「やっぱり、そう思います?」
「もちろんです。今の話を聞く限り、少なくとも嫌がられることはないと思いますよ。それに……僕なら、婚約者から誘われたら嬉しいです」
そう言ったところで、自分の言葉がそのまま胸へ返ってきた。
(……私なら、嬉しい)
もしエリック様から、一緒にどこかへ行きませんかと言われたら――
想像した瞬間、胸が大きく跳ねた。
(……絶対、嬉しいわ)
断る理由などない。
むしろ、その日まで何を着ていくか悩み続ける自信すらある。
「……オリバー? 少し、顔が赤くありません?」
「そ、そんなことありません!」
慌てて否定すると、エリーは少し意外そうに目を瞬いた。
けれど、私の様子を見ているうちに何か思い当たったらしく、やがて楽しそうに口元を緩めた。
「もしかして、婚約者の方に誘われたところを想像しました?」
「……少しだけ」
「やっぱり」
楽しそうに笑われ、私はますます恥ずかしくなる。
「でも、ほら。やっぱり嬉しいんですよ」
「オリバーが?」
「僕がというより……!」
危ない。オリバーとして話しているのに、完全に自分の話になってしまっている。
「と、とにかく。誘われて嫌な相手なら別ですけど、そうでないなら嬉しいと思います」
「そう、ですよね」
エリーは少し安心したように頷いた。
「どこへ誘うかは決めているんですか?」
「まだなんです。それも悩んでいて」
「婚約者の方は、どんな場所がお好きなんです?」
「……それが、よく分からなくて」
二人で一瞬黙り込み、それからほぼ同時に苦笑した。
「僕たち、まだそこなんですよね」
「ですね……」
長く婚約しているのに、お互い相手の好きな場所ひとつ自信を持って答えられない。
以前なら、その事実に落ち込んでいたかもしれない。
けれど今は、知らないならこれから知ればいいと思える。
「だったら、最初から特別な場所じゃなくてもいいんじゃないですか?」
「特別じゃなくていい?」
「はい。街を歩いて、気になる店があれば入って……そういう普通のお出かけでも」
そうすれば、どんな店に目を留めるのか、何に興味を示すのかも自然と分かるかもしれない。
「一緒に歩いているだけでも、相手の好きなものって少しずつ見えてくると思います」
何か大きな目的がなくても、ただ隣に並んで歩いて話すだけでいい。
「一緒に過ごすこと自体が目的なら、それで十分だと思います」
「……一緒に過ごすこと」
エリーはその言葉を小さく繰り返したあと、ふっと柔らかく笑った。
「いいですね、それ」
「でしょう?」
「はい。何だか、誘える気がしてきました」
そう言ってから、エリーはほんの少しだけ首を傾げた。
「オリバーなら……どう誘います?」
頬にはまだ淡い赤みが残っている。
紫色の瞳で、少し見上げるようにこちらを見つめられた瞬間、別の紫色の瞳が一瞬だけ記憶の奥から浮かんだ。
『君は……怪我していないのか?』
あの日、少し頬を赤くしながらこちらを見上げていたエリック様。
(……まただわ)
エリーにこんなふうに見上げられると、どうしてかあのときのエリック様を思い出してしまう。
けれど、なぜそう思うのか考え始めるより先に、エリーの声が意識を引き戻した。
「オリバー?」
「……っ、すみません。少し考えていました」
不思議そうに覗き込まれ、私ははっと我に返る。
さらにじっと見つめられて、危うくまた固まりかける。
(やっぱり可愛い……!)
結局、浮かんだ疑問はそのまま頭の隅へ追いやられた。
「僕なら……あまり考えすぎずに、『今度、一緒に街へ行きませんか』くらいでいいと思います」
「そんなに普通でいいんですか?」
「普通だからいいんじゃないですか?」
気合いを入れすぎれば、それだけ言い出しにくくなる。
「まずは一度誘ってみて、行きたい場所はそのあと二人で決めてもいいでしょうし」
「……なるほど」
エリーは本気で参考にしているらしく、何度も頷いている。
その真剣な顔を見ていると、私も自然と身を乗り出していた。
「それに、エリーならきっと大丈夫ですよ」
「どうしてです?」
「こんなに一生懸命考えているんですから。婚約者の方だって、きっと嬉しいと思います」
そう言うと、エリーは一瞬目を丸くしたあと、少し照れたように笑った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
その笑顔を見ているうちに、こちらまで嬉しくなる。
次のお茶会では、私ももう少し頑張ってみよう。
エリック様のことをもっと知りたいし、できることなら私のことも少しずつ知ってもらいたい。
そんなことを考えながら、目の前のエリーと次の作戦について話し続ける。
店内の客が時折こちらを見ていることにも、窓の外を通る人々が足を緩めていることにも、私たちはまるで気づかなかった。
互いに、目の前の相手から婚約者との距離を縮める方法を学ぶことに夢中だったからだ。
◇◇◇
最初に目に入ったのは、黄色いブローチだった。
王城へ戻る途中、少しだけ街を歩いていた俺は、通りに面した店の窓際で光を反射した黄色い宝石を見つけ、何気なく視線を向けた。
その瞬間、足が止まる。
(……あれは)
見覚えがあった。
もちろん、実物を間近で見たことがあるわけではない。
王太子として教育を受ける中で、高位貴族が代々所有する家宝や、特別な効果を持つ魔道具について学ぶ機会があった。
それぞれの家が所有する品は、単なる装飾品とは限らない。中には外交や軍事にも関わりかねないほど珍しいものもあるため、王家の人間として最低限その特徴を把握しておく必要がある。
その授業で使われていた資料の中に、今目の前にあるものと酷似したブローチがあった。
黄色い宝石を嵌め込んだ、小ぶりな意匠。
――ウィルモア公爵家に代々伝わる魔道具。
身につけた者の性別による身体的特徴を、一時的に反転させるものだったはずだ。
(……いや、まさか)
世の中に黄色い石のブローチなどいくらでもある。
そう思いながら、俺は改めて窓越しの令嬢へ目を向けた。
淡い色の長い髪に華奢な身体、そして可愛らしいドレス。少なくとも見た目だけなら、どこからどう見ても若い令嬢だった。
だが、こちらへわずかに顔を向けた瞬間、その瞳の色が見えた。
(……紫?)
見慣れた色だった。
そこで初めて、俺は令嬢の顔そのものを注意深く見る。目元も、鼻筋も、考え事をするときにわずかに伏せられる視線も、見れば見るほど知っている誰かに重なっていく。
そして、先ほどまでは自然に見えていた淡い色の髪も、正体を疑ってから改めて見れば、光を受けたときの質感が地毛とは微妙に違うように思えた。
(……かつらか?)
そこまで気づいた瞬間、ばらばらだったものが一気につながった。
(…………まさか、エリック?)
一度そう思ってしまえば、もうエリックにしか見えなかった。
姿形はまるで違う。
それでも、困ったときに少し眉尻が下がるところも、考え事をするときの目の動きも、知っている男そのものだ。
(何をしているんだ、あいつは)
いや。なぜ女の姿をしているのかも十分気になる。
だが、それ以上に目を引いたのは、その向かいに座っている黒髪の青年だった。
騎士見習いらしい服装をした、かなり整った顔立ちの男だ。
二人はひどく親しげに話していて、周囲の視線など気にも留めていないようだった。やがて黒髪の青年が何かを言うと、エリックは頬をわずかに赤くし、どこか照れたように相手を見上げた。
思わず息を呑む。
青年の方も、その顔を見た途端に一瞬固まり、少ししてから慌てたように視線を逸らした。
(……何だ、あれは)
会話の内容までは聞こえない。
けれど、少なくとも二人が互いをかなり気にしているように見える。
(いや。俺が変な見方をしているだけか?)
さすがにそう思い、一度二人から視線を外して周囲を見回した。
すると、今度は別の意味で言葉を失った。
店の中では、近くに座る令嬢たちが黒髪の青年をちらちらと見ている。
通りを歩いていた若い男は、窓際の令嬢――エリックらしき人物を見たあと、一度通り過ぎたにもかかわらず、わざわざ振り返っていた。
別の女性など、連れへ何か囁きながら窓際の二人へ視線を向けている。
店員まで、二人の席を見て妙に満足そうな顔をしていた。
(……目立ってるじゃないか)
どうやら、周囲から見ても二人は相当目を引くらしい。
それなのに、当人たちはそんな視線にまるで気づいていない。
互いの顔ばかり見ている。
まるで、本当に二人だけでそこにいるようだった。
そこで、先日の執務室でのやり取りが頭をよぎった。
『……まさかとは思うけど、他に好きな相手でもできたわけじゃないよな?』
『エリックに限って、そんなわけ――』
『そんなわけないだろ!!』
あのときは、ただジョゼフの冗談へ強く反応しただけだと思った。
エリックがオリビア嬢をどれほど好きなのかは、幼い頃から嫌というほど知っている。
だからこそ、俺自身が「エリックに限って」と否定しかけたのだ。
だが――
もう一度、窓際へ目を向ける。
エリックらしき令嬢は、黒髪の青年へ何か尋ねたらしい。
頬を赤くしたまま、少し首を傾げて見上げている。
その表情に、俺は見覚えがあった。
先日、オリビア嬢との結婚後の生活を想像していたエリックが、無意識に浮かべていた顔。
ジョゼフに「顔が崩れている」と指摘されたときの、あの柔らかな表情。
(…………同じじゃないか)
背中に妙な汗が流れた気がした。
そんなはずはないと思う一方で、目の前の光景が、その考えを簡単には許してくれない。
『そんなわけないだろ!!』
やけに大きかったあの声が、もう一度頭の中で響く。
俺はしばらく窓際の二人を見つめたあと、ゆっくりと視線を逸らした。
(……ジョゼフに相談しよう)
――もちろん、友人の話として。




