第15話 知らなかった一面
――可愛かった。
討伐を終えたあとの慌ただしい空気の中で、私は先ほどから何度も同じことを考えていた。
もちろん、エリック様は格好よかった。
魔物が後方へ抜けてきたと分かった瞬間、周囲へ的確に指示を出し、逃げ遅れた人を庇って剣を抜いた姿は、私が昔から知っているエリック様そのものだった。
落ち着いていて、頼もしくて、何が起きても簡単には取り乱さない。
けれど、どうしても頭から離れないのは、そのあとの姿だった。
『……助かった。ありがとう』
灰牙狼を受け止めた拍子に姿勢を崩し、少し見上げるようにして私を見たエリック様。
いつもより柔らかな声で礼を言われただけでも十分だったのに、なぜか頬までほんのり赤くなっていた。
しかも、私が離れようとした途端、服の裾まで掴まれてしまったのだ。
『君は……怪我していないのか?』
あのときの声まで鮮明に思い出してしまい、私は思わず口元を手で覆った。
(……可愛かったわ)
本人にそんなことを言えば、きっと困らせてしまうだろう。
助けられたことが少し恥ずかしかったのかもしれないし、突然私が目の前へ飛び込んできたせいで驚いていただけという可能性もある。
どちらにしても、婚約者として十年近く傍にいる私でさえ、あんな表情を見た記憶はなかった。
(エリック様って、あんなお顔もなさるのね……)
そう思うと、胸の奥がくすぐったくなる。
普段はあんなに落ち着いていて格好いいのに、ふとした瞬間には、思いがけないほど可愛らしい顔をする。
(これが、いわゆる“ギャップ”というものなのかしら)
少し前までの私なら、エリック様の格好いいところばかりを見ていた気がする。
けれど今は、あの少し赤くなった頬も、柔らかくなった声も、裾を掴んだまま心配そうにこちらを見上げてきた姿も、どうしようもなく愛おしく思えてしまう。
(……反則だわ)
オリビアとしてではなく、オリバーとして見た顔だということだけが少し複雑ではあるけれど、それでも知らなかった一面を一つ見つけたようで、どうしても嬉しかった。
「――オリバー」
低い声に呼ばれ、私は慌てて顔を上げた。
少し離れたところで、お兄様が腕を組んでこちらを見ている。
「ちょっと来い」
「はい」
周囲にはまだ騎士たちが大勢いる。
ここでうっかり「お兄様」と呼ぶわけにはいかない。
私はオリバーらしく振る舞うことを意識しながら、お兄様のもとへ向かった。
「さっきも言ったが、お前は補助で連れてきたんだ。前に出るなと言っただろ」
「……分かっています」
「本当に?」
「本当です。でも、あのままではウィルモア様が危なかったので」
「エリックだって剣くらい使えるぞ」
「それは知っています。でも本職の騎士ではありませんし」
エリック様を頼りないと言われたような気がして、つい少しだけむきになって言い返した。
すると、お兄様はそんな私の反応に気づいたのか、小さく息を吐く。
「別にあいつが弱いって言ってるわけじゃない。向いてる仕事が違うってだけだ」
「……はい」
「エリックは頭を使う側だ。お前みたいに魔物相手に剣振り回す立場じゃない」
「……剣を振り回してはいません」
「そこじゃない」
思わず少しだけ唇を尖らせる。
お兄様はそんな私を見て、呆れたように眉を上げた。
「別に、夫になる男が何でも一人でできる必要はないだろ」
「……夫?」
「何だよ。お前ら、そのうち結婚するだろ」
あまりにも当然のように言われて、胸が跳ねた。
「得意な方が補えばいい。エリックが頭を使うなら、お前は剣を使えばいい。妻が夫を守ったって別にいいだろ」
「――っ」
(つ、妻……っ!)
その一言で、頬が一気に熱くなった。
婚約しているのだから、いつか結婚すること自体はずっと分かっていた。けれど、「妻」と言われた途端、急にその未来が現実味を帯びてくる。
(そして私が、エリック様を守る……)
つい先ほど、実際に彼の前へ飛び出したばかりだ。
けれど今、お兄様に改めてそう言われると、急に別の意味を持った言葉のように聞こえてしまう。
いつか本当にエリック様と結婚して、その先で彼に危険が迫ることがあれば、そのときも私は、きっと今日のように迷わず前へ出る。
(……だって、お守りしたいもの)
好きな人なのだから。
それはとても自然なことのはずなのに、考えれば考えるほど頬の熱が引かなくなっていく。
「……何で赤くなってるんだ?」
「なっていません」
「なってるだろ」
「気のせいです」
「その顔で言われてもなあ」
からかわれているような気がして、私はますます不満げに唇を尖らせた。
するとお兄様は、昔からそうするように、私の頭をぽんぽんと二度軽く叩いた。
「まあ、無事ならいい」
「……子ども扱いしないでください」
「はいはい」
その気安い返事がまた腹立たしい。
私はじろりと睨み上げたものの、お兄様はまったく気にしていない。
当たり前だ。
この人にとって私は、男装していようが何をしていようが、昔から変わらずただの妹なのだから。
「とにかく、お前は先に馬車へ乗ってろ」
「でも、僕だけ馬車というのは少し……」
「いいから」
お兄様は周囲へちらりと目を向け、声を少し落とした。
「俺も指示出したら乗る。帰りに書類片づけたいし」
「それならいいですけど……」
「それに今日は朝早かったから、親父ももう戻ってるかもしれない」
「……それが何か?」
お兄様の顔が、わずかに引きつった。
「朝はもう出てたからよかったけど、今帰ったらいる可能性高いだろ」
「そうですね」
「お前を朝から騎士団の手伝いに使って、挙げ句に魔物の前まで出したって知られたら、俺が殴られる」
「…………」
「何だ、その顔」
「いえ。自業自得では?」
「おい」
「そもそも私を連れてきたの、お兄――」
「声」
「……ヴィクトルさんでしょう」
「だから今さら責めるな」
「責められて当然では?」
「いいから先に乗ってろ!」
ほとんど追い払われるようにして馬車へ向かっている途中、ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れたところにエリック様の姿があった。
けれど今の私はオリバーだ。エリック様を前にして足を止めるわけにもいかず、何事もなかったように軽く会釈だけ返して、そのまま馬車へ向かった。
それでも胸の奥では、先ほどのやり取りがまた鮮やかに蘇ってくる。
(……本当に、可愛らしかったわ)
思わず緩みそうになった口元を引き締めながら、私はそのまま馬車へ乗り込んだ。
◇
馬車へ乗り込んでしばらくすると、外から人の話し声が聞こえてきた。
「隊長。あの……オリバーとは、どういったご関係なんですか?」
「あ? 親戚だっつっただろ」
「いえ、そういう意味ではなくて……」
「じゃあどういう意味だよ」
「その……かなり親しいというか」
「親戚なんだから親しいだろ」
「いや、でも……」
「意味分かんねぇな。とりあえず帰るぞ!」
結局、よく分からないまま会話は終わったらしい。ほどなくして扉が開き、お兄様が書類の束を抱えたまま乗り込んできた。
「お待たせ」
「先ほど、何か聞かれていませんでした?」
「ああ。お前との関係」
「親戚でしょう?」
「俺もそう言った」
「では何が分からなかったんです?」
「俺が聞きたい」
そこまで話したところで、お兄様がぴたりと動きを止めた。
そして、向かいに座る私をじっと見る。
「……何です?」
「いや」
お兄様の視線が、黒いかつらから男物の服、そして底上げされた靴へと順番に下りていく。
数秒の沈黙のあと、何とも言えない顔をされた。
「その格好でその話し方、気持ち悪いな」
「……誰のせいです?」
「俺」
「分かっていらっしゃるなら黙ってくださいませ」
「いや、さっきまで普通に男っぽく喋ってたのに、馬車乗った途端それだからな」
「二人きりなのに、わざわざオリバーのふりを続ける必要がないでしょう?」
「それはそうなんだけど」
お兄様はまだ笑いを堪えるような顔をしている。
「もう一度言いますけれど、この格好をさせたのはお兄様ですからね」
「分かった分かった」
「分かっていない顔ですわ」
「その言い方がもう駄目だ」
「失礼ですわね!」
笑い始めたお兄様を睨みつけながら、私は腕を組んだ。
まったく腹立たしい。
けれど、久しぶりにこうして兄と二人でくだらない話をしていると、どこか昔へ戻ったような気もした。
お兄様は一通り笑ったあと、ようやく書類を膝の上へ置いた。
「でも、腕は鈍ってなかったな」
「……そうですか?」
「ああ。最近はあんまり剣を握ってないだろ」
その言葉に、私は少しだけ視線を落とした。
幼い頃は、もっと頻繁に剣を握っていた。
お父様は騎士団長を務めていたこともあり、子どもであっても最低限、自分の身を守れるようにしておくべきだという考えを持っていた。
――というのが、表向きの理由だったらしい。
『こんなに可愛い娘なんだから、誘拐でもされたらどうするんだ! いや、されるに決まっている!』
後になってお母様から聞いたところによると、私に剣術を習わせると決めた日のお父様は、本気でそんなことを言っていたという。
要するに、娘の身を案じすぎた結果だったようだ。
もっとも、始めてみれば私は剣術そのものが嫌いではなかった。
力ではお兄様や男性の騎士たちに敵わない。
けれど、相手の動きを見て、力を正面から受けずに流し、その勢いを利用して体勢を崩すことは昔から得意だった。
お父様からも何度か、「力で勝とうとするな。お前は技で勝て」と言われてきた。
けれど、エリック様が『明るくて愛嬌のある女性を好むらしい』という噂を耳にしてからは、以前ほど剣を握らなくなった。
剣術が得意な令嬢より、もっと可愛らしく、おしとやかな女性の方が好まれるのではないかと思ったからだ。
完全にやめたわけではない。
ときどき身体を動かしたくなったときや、考え事を振り払いたいときには、今でも屋敷の訓練場へ足を運ぶ。
だから今日も、思っていた以上に自然に身体が動いたのだろう。
「たまには続けていますもの」
「たまにであれなら十分だろ」
「でも、お兄様ほど力はありませんから」
「お前、昔から力でどうにかするタイプじゃないだろ。今日だって、まともに受けずに流してたし」
お兄様はそう言ってから、少し呆れたように眉を寄せた。
「だからって、飛び出していいとは言ってないからな」
「……分かっていますわ」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ次からは――」
「でも、エリック様が危なければ助けます」
「分かってないじゃないか」
即座に返され、私は少しだけ肩をすくめた。
「だって仕方ないでしょう?」
「まあ……エリックは将来、宰相になるような男だしな。別に剣で全部解決できる必要はない」
「それは分かっています」
「なら、さっき言った通り、お前が守ればいいじゃないか。妻が夫を守ったっていいんだ」
またその言い方をされ、ようやく落ち着きかけていた頬にじわりと熱が戻ってきた。
「……お兄様、わざと言っています?」
「何が?」
「もういいですわ」
しれっとした顔をされ、私はそっぽを向く。
けれど、「エリック様を守る」という言葉を聞けば、どうしても先ほどの光景まで思い出してしまう。
『……助かった。ありがとう』
少し見上げるようにして、頬を赤くしたエリック様。
(……もしまたお守りすることがあったら)
あんなふうに気を許した顔を、もう一度見られることもあるのだろうか。
そこまで考えた瞬間、思わず頬が緩んだ。
「……お前、何にやけてるんだ?」
「にやけていませんわ!」
「いや、にやけてた」
「気のせいです!」
「エリックのこと考えてただろ」
「――っ!」
図星を突かれ、思わず言葉に詰まった。
お兄様が面白そうに眉を上げる。
「やっぱり」
「違います!」
「何が?」
「……違わなくはありませんけれど」
「どっちだよ」
私は顔が熱くなるのを感じながら、窓の外へ視線を逃がした。
もちろん、エリック様が危険な目に遭えばいいなどとは一度だって思っていない。
ただ、あんなふうに気を許した顔をまた見てみたいだけだ。
(……可愛かったんだもの)
普段はあれほど格好いいのに、あんな表情まで見せられてしまったら、気にならない方が難しい。
お兄様はそんな私をしばらく眺めていたが、やがて呆れたように笑って書類へ視線を落とした。
「まあ、仲良くやってるなら何よりだ」
「……まだ、そんなにでは」
「十年婚約しておいて?」
「それとこれとは別です」
「難しいな」
「お兄様には分かりませんわ」
「はいはい」
適当に返され、私はまた少し唇を尖らせた。
◇
屋敷へ戻った時点で、嫌な予感はしていた。
玄関へ入った途端、執事が私たちを見て、ほんの一瞬だけ何とも言えない顔をしたからだ。
「旦那様がお戻りです」
その一言で、お兄様の足が止まった。
「……いつ?」
「少し前に」
「そうか……」
明らかに声が沈んだ。どうやらお兄様の中では、すでに何か嫌な予感がしているらしい。私は横目でその顔を窺った。
「殴られないといいですわね」
「他人事みたいに言うな。原因お前だからな」
「連れていったのはお兄様でしょう?」
「お前も嬉々としてついてきただろ」
「それとこれは別です」
「さっき俺に言ったやつそのまま返すな」
そんなやり取りをしながら、それぞれ着替えを済ませる。
いつものオリビアの姿へ戻った頃には、お父様の執務室へ来るようにと呼び出しがかかっていた。
執務室に行くと、お父様は机の向こうで静かにこちらを見ていた。その表情は穏やかだったが、なぜかそれが余計に怖い。
「……それで? なぜ私の可愛い娘が、灰牙狼の前へ飛び出したんだ?」
お父様の声も、恐ろしいほど静かだった。
隣に立つお兄様の肩が、わずかに強張る。
「いや、父上。それは俺も止めたんだ」
「止めた?」
「前には出るなって何度も言った」
「それで?」
「……出た」
「止められていないではないか」
「結果だけ見ればそうだけど!」
普段は軽口の一つでも返すお兄様が、今ばかりはすっかり言葉を失っている。
さすがに申し訳なくなり、私は口を挟んだ。
「お父様。お兄様は悪くありません。私が勝手に――」
「オリビア」
「はい」
「お前の話もあとで聞く」
「……はい」
お父様の声音に逆らえるはずもなく、私は素直に口を閉じた。その途端、隣から小さく「ほらな」と呟く声が聞こえ、私はじろりとお兄様を横目で睨んだ。
「ヴィクトル」
「はい!」
今度はお兄様が背筋を伸ばした。
その様子に、お父様は深く息を吐き、疲れたように眉間を押さえる。
「私は、オリビアなら多少の護身術があった方が安全だと思って剣を習わせた」
「はい」
「騎士団長の娘で侯爵令嬢。ましてやこんなに可愛いんだ。誘拐を企む馬鹿がいないとも限らない。いや、いるだろう」
「……お父様。そこは断定なさるところではないかと」
「こんなに可愛い娘を見て、悪いことを考える人間が一人もいないと思う方がおかしい」
「…………」
どうやらお父様の中では、そこに疑問の余地はないらしい。
「だから、自分の身を守れるに越したことはないと思って剣を習わせたんだ」
お父様はそこで一度言葉を切ると、私をじっと見た。
「だが、それは魔物の前へ自分から飛び出すためではない」
「それは……」
「ただでさえ私は、こんなに可愛い娘をいずれエリック君に渡さなければならないことすら、まだ完全には納得していないんだぞ」
「お父様!?」
思わぬ方向へ話が飛び、思わず声が裏返った。
隣では、お兄様が笑いを堪えるように顔を伏せていた。けれど、わずかに震える肩を見れば分かる。
――笑っている。
「十年前から決まっている婚約でしょう!」
「十年経っても惜しいものは惜しい」
「エリック様に失礼ですわ」
「エリック君が立派な青年なのは認めている。だがそれと娘をやるのが惜しいことは別問題だ」
「……そういうものですの?」
「そういうものだ」
あまりにも真顔で答えられ、私はそれ以上何も言えなくなった。
「しかも、お前」
今度はお兄様へ矛先が向く。
「妹を朝から騎士団へ連れていき、補助とはいえ仕事をさせたのか?」
「……人手が足りなかったんだよ。だからって、素性も実力も分からない部外者を連れていくわけにもいかないだろ」
「それでオリビアを?」
「剣も使えるし、俺がどれくらい動けるかも分かってる。後方の補助だけなら一番安心だったんだ」
「その結果、魔物の前に出たが?」
「……それは俺も想定してなかった」
「しかも、男装したオリビアを連れていったのか」
「本人も行くって言ったし……」
そこで私は、お父様の言葉にわずかに目を見開いた。
(……男装のこと、ご存じだったのね)
これまでお父様の前で、わざわざ男装について話題にしたことはなかった。
お兄様と街へ出るときも、特に報告した覚えはない。
けれどお父様は、私の反応を見て当然のように眉を上げた。
「私が知らないとでも思っていたのか?」
「……少しだけ」
「この家の当主を何だと思っている」
「いえ、その……」
「ヴィクトルが一緒なら、そう危険なことにはならないだろうと思って黙っていただけだ」
お父様はそこで、改めてお兄様を見据えた。
その静かな視線に、お兄様も何を言われるのか察したのか、わずかに姿勢を正す。
「だが。その信頼を今日裏切ったのがお前だ」
「……はい」
お兄様が今度こそ完全に項垂れた。その姿を見ていると、本当にこのあと殴られるのではないかという気がしてきて、さすがに少しだけ気の毒になる。
そこで私は恐る恐る口を開いた。
「ですが、お父様。エリック様が危なかったんです。あの場では、私が動くのが一番早くて――」
「それは聞いている」
お父様は私を見ると、先ほどより少しだけ表情を緩めた。
「エリック君を助けたこと自体を責めるつもりはない」
「では――」
「だが、お前まで危険な目に遭っていい理由にはならない」
ぴしゃりと言われ、続きの言葉を失った。
「お前がそういう娘なのは知っている。目の前で誰かが危険なら、放っておけないのだろう」
「……はい」
「だからこそ、もう少し自分の身も大事にしなさい」
怒っているというより、本気で心配しているのだと分かる。
そう思うと、反論する気持ちは少し萎んだ。
「分かりました」
「本当に?」
「……たぶん」
「オリビア」
「分かりました!」
慌てて言い直す。
お父様はまだ何か言いたそうだったが、やがて一つ頷いた。
「では、しばらく外出は禁止だ」
「…………え? お父様? 今、何と仰いました?」
「外出は禁止だと言った」
「しばらく、とは?」
「私が安心できるまで」
「期間が決まっていませんわ!」
「当然だ」
「当然ではありません!」
思わず身を乗り出し、そのまま父へ食い下がる。
「お父様、私には予定もありますし――」
「必要な用事なら屋敷で済ませなさい」
「ですが」
「駄目だ」
「まだ何も言っておりません!」
「どうせ外へ出たいと言うんだろう」
その通りなので言葉に詰まり、何となく横を見ると、お兄様が顔を伏せていた。わずかに震える肩を見れば、笑いを堪えているのは明らかだ。
「……お兄様?」
「何だ」
「笑っていません?」
「笑ってない」
「ではこちらを見てくださいませ」
「今は無理だ」
「笑っていますわね!?」
私に指摘され、お兄様は慌てて笑いを引っ込めた。
「それからヴィクトル、お前もしばらく仕事以外の外出は禁止だ」
「俺まで!?」
「当然だ。オリビアを連れ回す余裕があるなら、少しは反省しろ」
「いや、連れ回したわけじゃ……」
「口答えするな」
「……はい」
お兄様がとうとう黙り込み、私は横目でその様子を見やった。
「あなたがさせたんですものね?」
「今それ言う?」
「事実でしょう?」
「オリビア」
「はい」
今度は私までお父様に止められた。
結局、その日の話し合い――というより一方的な通告によって、私はしばらく屋敷から出られないことになった。
◇
その夜。
自室の机に向かった私は、便箋を前にして長いこと悩んでいた。
外出を禁じられてしまった以上、オリビアとして出かけられないだけでなく、オリバーとして街へ行くこともできない。つまり、しばらくエリーに会えないということだ。
(……エリーに会えないのよね)
そう思った途端、胸の奥がしゅんと沈んだ。
今ではエリーと会って話す時間は、私にとってかなり楽しみなものになっている。
婚約者について相談したり、可愛らしい菓子を一緒に眺めたり、ときには何でもない話をして笑ったり。
自分でも驚くほど気楽に話せる、大切な友人だ。
何も知らせないまましばらく姿を見せなくなれば、心配させてしまうかもしれない。
そう思って手紙を書くことにしたものの、もちろん本当の理由を書くわけにはいかなかった。
『魔物の前へ飛び出したことが父に知られて、外出禁止になりました』
などと書けば、オリバーの設定がおかしなことになる。
「……どうしましょう」
小さく呟きながら、しばらくペン先を止める。
結局、無難な言葉を選ぶしかなかった。
『エリーへ
急で申し訳ありませんが、しばらく身内の用事が立て込むことになり、いつものように街へ出るのが難しくなりそうです。
少しの間、お会いできないと思います。
落ち着いたら、またこちらからご連絡します。
そのときは、またいつものお店でお話しできれば嬉しいです。
オリバー』
最後まで書いてから、私はその文章をしばらく見つめた。
(……本当に、残念)
エリーに会いたい。
また一緒に話したい――そんなふうに素直に思える友人ができたこと自体、以前の私なら想像もしていなかった。
そう思いながら手紙を畳もうとしたところで、ふと別の顔が頭に浮かぶ。
『君は……怪我していないのか?』
少し頬を赤くして、私の服の裾を掴んだエリック様。
そして、わずかに見上げるようにこちらを見つめていた紫の瞳。
(…………可愛すぎたわ)
思い出しただけで、また頬が緩みそうになる。
助けられたことが恥ずかしかったのか、それとも突然のことで驚いただけなのか。
結局、その理由は分からない。
ただ、あの柔らかな表情が可愛らしかったということだけは、何度思い返しても変わらなかった。
(……そういえば)
そこでふと、別の顔が浮かんだ。
エリーも、ときどきあんなふうに少し見上げるようにこちらを見ることがある。
可愛らしい菓子を前にしたときや、何か言いたげにこちらを見つめるとき。
あの紫の瞳で上目遣いに見られると、思わず何でも聞いてあげたくなってしまうほど可愛らしい。
(エリーも、上目遣いがとても可愛いのよね……)
そこまで考えて。
私はふと首を傾げた。
(……ん?)
頭の中で、二人の顔が一瞬だけ重なる。
(なんだか少し……似ているような?)
けれど、すぐに自分でその考えを打ち消した。
エリーとエリック様では、背丈も顔立ちもまるで違う。
ただ、二人とも紫色の瞳をしていて、少し見上げるような仕草が可愛らしいというだけだ。
(……上目遣いが可愛らしい人は、似て見えるものなのかしら)
そんな妙な結論に落ち着きながら、私は小さく笑った。
エリーに会えないことを考えていたはずなのに、気づけば今度はエリック様のことまで思い出している。
もっとも、エリック様は私の婚約者なのだから、会えないことを寂しく思うのは当然だ。
そう結論づけて、私は手紙を封筒へ収めた。
明日、お兄様に頼んで届けてもらおう。
しばらく会えなくなるのは寂しいけれど、外出禁止が解ければまた会える。
(早く、お父様のご機嫌が直りますように)
そんなことを願いながら、私は少しだけ名残惜しい気持ちで、エリー宛ての封を閉じた。




