第10話 贈り物は難しい ◇
――本来なら、次にオリビアと顔を合わせるのはもう少し先のはずだった。
けれど今回は、互いに都合がついたこともあり、いつもより少し早く会うことになった。
もちろん、俺としては異論などあるはずもない。むしろ、予定が早まったと聞いたときには、平静を装うのに少し苦労したくらいだ。
こうして今日は、ルメイン家の庭園に面した小さな応接室で、オリビアと二人きりのお茶の時間を過ごしている。
向かい合って座ってから、俺はすでに何度目になるか分からないほど、上着の内側に入れた小さな包みの存在を意識していた。
窓から差し込む午後の光が、オリビアの淡い金色の髪を柔らかく照らしていた。
今日は淡いクリーム色のドレスを着ていて、襟元には小さな花の刺繍が施されている。
――よく似合っている。
というより、何を着ていても似合うのではないかと思う。
「エリック様?」
「……何でもない」
どうやら見すぎていたらしい。
不思議そうにこちらを見つめる若草色の瞳と目が合った瞬間、心臓が妙に大きく跳ねた。
十年も婚約しているのに、どうしていまだにこれだけで落ち着かなくなるのだろう。
少しくらい慣れてもよさそうなものだが、最近はむしろ以前よりひどくなっている気さえする。
「今日は少しぼんやりしていらっしゃいますね」
「そう見えるか?」
「はい。何かありました?」
「いや、その……」
言いながら、また包みの存在が気になった。
数日前、エリーの姿でオリバーと一緒に選んだ銀細工のブローチ。
細長い葉が重なったような意匠で、中央には若草色の小さな石が嵌め込まれている。
『上品なのに、少し格好いい。こういう意匠、僕は好きです』
あのとき、オリバーは明らかに嬉しそうだった。
あれほど分かりやすく気に入っていたのだから、きっと良いものなのだろう。
それに、若草色の石を見た瞬間、俺は自然とオリビアの瞳を思い浮かべた。
だからこそ、彼女に贈りたいと思った。けれど、いざ本人を前にすると、包みを取り出すだけのことがひどく難しく思える。
「エリック様?」
「……ああ」
また呼ばれてしまった。
これ以上ぐずぐずしていても仕方がない。
何より、オリバーとも約束したのだ。
次に婚約者と会うとき、二人とも贈り物を渡してみる。
どちらか一人だけ逃げるのはなし。
そう言ったのはオリバーだが、俺も確かに頷いた。
「オリビア」
「はい」
「今日は、その……君に渡したいものがあるんだ」
意を決して包みを取り出す。
すると、オリビアの瞳がわずかに見開かれた。
「……私に、ですか?」
「ああ」
「でも、今日は誕生日でも何でも……」
「分かっている」
少し早口になってしまった。
慌てて咳払いをしてから、できるだけ平静を装う。
「何でもない日に贈るのも、たまにはいいかと思って」
「……そうなんですね」
オリビアはそう答えながら、なぜか俺の手元の包みをじっと見つめていた。
想像していた反応と少し違う。
もっと驚くとか、困るとか、そういうものを考えていたのだが。
「どうした?」
「いえ、その包み……」
オリビアは何かを言いかけて口を閉じると、今度は自分の鞄へ手を伸ばした。
「あの、実は……私もあるんです」
「……俺に?」
「はい」
今度は俺が驚く番だった。
オリビアが鞄から取り出した小さな包みを見た瞬間、思わず目を瞬かせる。見間違いかと思ってもう一度確かめたが、やはり見覚えがあった。
包み紙の色も、細い紐も、端に押された小さな金色の印も、数日前にエリーの姿でオリバーと訪れた店のものだった。
何とも言えない沈黙が落ちる。
そんな空気の中、先に口を開いたのはオリビアだった。
「……同じお店、でしょうか」
「……そう、みたいだな」
どうやらオリビアも気づいたらしい。
だが、それ以上のことは何も分からない。
商業地区には数えきれないほど店があるとはいえ、あの店は品揃えもよかった。
贈り物を探す人間が偶然同じ店を選ぶことくらい、あるだろう。
――きっと、それだけだ。
「なんだか、少しおかしいですね」
「……そうだな」
偶然同じ店を選んでいたことが可笑しかったのか、オリビアがくすりと笑う。
その笑顔を見た瞬間、先ほどまでの妙な緊張が少しだけ和らいだ。
(……可愛い)
そんなことを考えたせいで、今度は別の意味で落ち着かなくなる。
「せっかくですし、一緒に開けませんか?」
「一緒に?」
「はい」
「……そうしよう」
二人で包みを交換すると、俺の手元にはオリビアからの贈り物が、オリビアの手元には俺からの贈り物が残った。
自分が贈ったものを開けられるのを見ながら、同時に自分も相手からの贈り物を開けるというのは、思っていた以上に心臓に悪い。
「では……」
「ああ」
ほとんど同時に紐を解き、包み紙を開く。
「…………」
俺の手が止まった。
現れたのは、深い紫紺の布地に銀糸で小さな花が刺繍されたハンカチだった。
見覚えがある。いや、あるどころではない。
数日前、エリーの姿だった俺が店で目を留めたものだ。
『……こういう細かい花の刺繍、好きなんです』
そう言った俺の横で、オリバーがそのハンカチを手に取った。
『……やっぱり、これにします』
確かに、婚約者への贈り物にすると言っていた。
そのハンカチが、なぜ今オリビアから俺へ渡されているのか。
頭が理解を拒む。
いや、待て。同じ店なのだから、同じものを選ぶことくらい――
そこまで考えたところで、はっと顔を上げた。
オリビアは――
「…………」
彼女も動いていなかった。
俺が贈ったブローチを手にしたまま、まるで時が止まったように固まっている。
視線だけがブローチへ落ちたまま、ぴくりとも動かない。
「……オリビア?」
「……はい」
返事はあったものの、明らかにぎこちなかった。
少ししてようやく顔が上がったけれど、その動きまでどことなく不自然で、俺の顔を見るまでに妙な間がある。
――気に入らなかったのか?
その可能性が頭をよぎった瞬間、胸の奥が一気に冷えた。
俺はもう一度、オリビアの手元へ視線を落とす。銀細工に、若草色の小さな石。
オリバーはあれを見た瞬間、明らかに気に入っていた。けれど、オリバーとオリビアは別人なのだ。
オリバーが好きなものを、オリビアまで好きとは限らない。そんな当たり前のことに、なぜ俺は今さら気づいているんだ。
「……気に入らなかったか?」
「えっ?」
オリビアが勢いよく顔を上げた。まるでその言葉だけはすぐに否定しなければならないとでもいうように、若草色の瞳がまっすぐ俺を捉える。
「違います! そうではなくて……」
「そうなのか?」
「はい。とても素敵です」
そう言いながらも、まだどこか戸惑っているように見える。
本当に?
疑うような顔をしてしまったのか、オリビアが少し困ったように眉を下げた。
「本当です」
「……なら、よかった」
心底ほっとした。
オリビアはもう一度ブローチへ視線を落とし、若草色の石を指先でそっと撫でる。
「この石も、とても綺麗ですね」
「ああ。見たときに、君の瞳を思い出したんだ」
「……っ」
オリビアが息を呑み、やがて頬がほんのりと赤く染まっていく。
(……しまった。また言いすぎただろうか)
そう思ったものの、オリビアはブローチを大切そうに掌へ載せたまま、小さく笑った。
「……嬉しいです」
「本当に?」
「はい、本当に。ありがとうございます、エリック様。大切にします」
今度は先ほどまでの戸惑いではなく、柔らかな笑みだった。
その一言だけで、胸の奥に溜まっていた不安が一気にほどけていく。
「そうか」
それ以上何か言えば、余計なことまで口にしてしまいそうだった。
だが、オリビアはまだ俺を見ている。
どうしたのかと思ったところで、今度はこちらの手元へ視線が移った。
「あの……エリック様は?」
「ん?」
「そのハンカチ……お気に召しましたか?」
そこで初めて、自分がずっとハンカチを握ったままだったことに気づいた。
どうやら俺も、オリビアと同じように妙な反応をしてしまっていたらしい。
「もちろんだ」
「本当ですか?」
「ああ」
迷わずそう答えた。
俺自身が好きだと言った意匠なのだから、気に入らないはずがない。
「とても綺麗だと思う。色も好きだし、その……花の刺繍も」
「花の刺繍も?」
「ああ。好きだ」
「よかった……」
オリビアの表情がふっと柔らかくなった。
その安堵した様子を見て、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「どうしてハンカチにしたんだ?」
何気なく尋ねると、オリビアは少しだけ照れくさそうに目を伏せた。
「以前、エリック様からいただいたハンカチが、とても嬉しかったんです」
「……以前の?」
「はい。小さな花の刺繍が入っているものです。今でも大切に使っています」
一瞬、言葉が出なかった。
ずいぶん前、何を贈ればいいのか散々悩んだ末に選んだものだ。
本当はもっと別のものを贈ろうかと迷って、それでも重すぎる気がして、結局あの小さなハンカチにした。
まさか、今でも使ってくれていたとは思わなかった。
もう以前のように、オリビアに嫌われているのではないかとまで思うことはない。けれど、だからといって自分が特別に好かれているとも思っていなかった。
それでも、ずっと前に贈ったものを今も大切にしてくれていると知れば、ほんの少しくらい期待したくなる。
もしかしたら、俺が思っているよりは――
そこまで考えて、思考を止めた。まだ早い。少しずつ話せるようになったからといって、都合よく期待するには早すぎる。
「だから私も、エリック様に普段使っていただけるものを贈れたらと思って」
「…………」
――普段使ってもらえるもの。
それはつまり、使うたびに少しくらいオリビアのことを思い出してほしい、という意味なのだろうか。
……いや。
さすがに都合よく考えすぎだ。
それなら、オリビアも俺が贈ったハンカチを使うたびに、少しは俺のことを思い出してくれていたのだろうか。
そこまで考えて、さらに自分で恥ずかしくなる。
……何を期待しているんだ、俺は。
オリビアはそんなこと一言も言っていない。
以前もらったものが嬉しかったから、自分も実用的なものを贈りたかった。それだけだ。
分かっている。
分かっているのだが。
「エリック様?」
「……何でもない」
危うくまた考え込んでしまうところだった。
オリビアが不思議そうに首を傾げる。その何気ない仕草まで可愛いと思ってしまうのだから、やはり俺は相当どうかしている。
けれど、そんな自分を呆れる気持ちよりも、今は嬉しさの方がずっと大きかった。
自分が昔贈ったものを今も大切にしてくれていることも、それを覚えていて、今度は自分から同じ種類のものを贈ろうと思ってくれたことも。
「俺も、本当に嬉しい」
「……はい」
「ありがとう、オリビア。大切に使う」
今度こそ、できるだけまっすぐ伝えた。
するとオリビアは少し驚いたように目を見開いたあと、嬉しそうに笑った。
「はい」
その笑顔を見ていると、先ほどまで抱いていた不安など、もうどうでもよくなりそうになる。
――なりそうには、なるのだが。
俺は改めて手元のハンカチを見下ろした。やはり、オリバーが婚約者への贈り物として選んでいたものとどう見ても同じだ。
気になってオリビアの様子を窺うと、彼女もまたブローチを眺めながら、どこか難しい顔をしていた。
「……オリビア?」
「はい?」
「どうかしたか?」
「いえ。何でもありません」
答えながら、彼女の視線が再びブローチへ落ちる。
やはり、あのときの固まり方が気になる。
言葉では「本当に嬉しい」と言ってくれたけれど、もしかすると俺に気を遣ってくれただけなのではないだろうか。
いや、あの笑顔まで嘘だったとは思いたくない。
そう考えていると、今度はオリビアがこちらを窺うように視線を向けた。
「エリック様」
「何だ?」
「その……本当に、使ってくださいます?」
「ああ。もちろん」
「本当に?」
「本当に」
「……そうですか」
「……そうだ」
何だろう。どうにも会話がおかしい。
互いに一度は「嬉しい」と伝えたはずなのに、少し妙な間ができるだけで、途端に相手の反応が気になってしまう。しかも、それはどうやら俺だけではないらしい。
そう思って顔を上げると、ちょうどオリビアもこちらを窺うように見ていた。
二人そろって言葉を失った。
同時に目が合ったかと思えば、次の瞬間には二人そろって視線を逸らしていた。
何をしているんだ、俺たちは。
ほんの少し前までは、以前より自然に話せるようになったと思っていたはずなのに、贈り物を渡した途端、少し前に戻ったようにぎこちなくなっている。
「……紅茶、冷めてしまいますね」
「ああ」
二人そろってカップへ手を伸ばした。その動きまで妙に重なってしまい、思わずオリビアを見る。
どうやら向こうも同じことを思ったらしく、こちらを見たところで、またぴたりと目が合った。
今度はオリビアが先に表情を和らげ、どこか照れくさそうに小さく笑った。張りつめていた空気が、その笑顔で少しだけほどけた気がした。
「なんだか、今日は少し変ですね」
「……そうだな」
俺もつられて笑うと、その笑顔を見ただけで胸の奥が少し軽くなった。
少しくらい変でも、ぎこちなくてもいい。こうして少しずつ何かが変わっているのなら、それで十分なのかもしれない。
俺の手元にはオリビアが選んでくれたハンカチがあり、彼女の手元には俺が選んだブローチがある。互いにきちんと「嬉しい」と言葉にすることもできた。
以前の俺たちなら、何でもない日に贈り物を渡そうと考えることすらなかったのだから、それだけでも十分に前へ進んでいるのだろう。
――ただ、あの妙な間についてだけは、どうにも気になった。
◇
その日の夜。
自室へ戻った俺は、机の上に広げた紫紺のハンカチをじっと見つめていた。
見れば見るほど、あの店でオリバーが選んでいたものと同じに見える。
あの店には、色違いも意匠違いもかなりの数が並んでいた。
その中から、オリバーとオリビアがまったく同じ一枚を選んだ。
偶然にしては、少し出来すぎている。
――とは思う。
けれど、それ以上の説明がつくわけでもない。
「……偶然、だよな」
口にしてみる。
別に疑う理由などない。オリビアとオリバーでは髪の色も雰囲気も違うし、身長だって違う。そもそも、オリバーは男なのだ。
何を考えているんだ、俺は。
自分で自分に呆れながら、俺はハンカチを丁寧に畳み直した。
それでも、オリビアが以前贈ったハンカチを今も大切に使ってくれていると知れたことは、素直に嬉しかった。
『だから私も、エリック様に普段使っていただけるものを贈れたらと思って』
その言葉まで思い出してしまい、また少し頬が熱くなる。
……あまり都合よく考えるのはやめよう。
今日だけで何度、自分に都合のいい解釈をしようとしているのだろう。
だが、それとは別に気になることがある。
俺がブローチを渡した瞬間の、オリビアのあの不自然な固まり方だ。本当に、ただ驚いただけだったのだろうか。
言葉では「嬉しい」と言ってくれたし、笑顔も見せてくれた。だから、贈り物そのものを嫌がっていたわけではないはずだ。
それでも、最初のあの反応だけは妙だった。俺自身もハンカチを見た瞬間に固まってしまったのだから、オリビアもきっと、何か引っかかるものがあったのだろう。
「……失敗、ではないよな」
誰もいない部屋で呟く。
以前なら、こんなことを誰かに相談しようなどとは思わなかっただろう。
けれど今は、一人だけ思い浮かぶ相手がいる。
黒髪に若草色の瞳を持つ、俺と同じように婚約者との距離に悩み、それでも少しずつ前へ進もうとしている友人――オリバーだ。
「……オリバーに相談するか」
そう呟くと、不思議と少しだけ気が楽になった。
彼ならきっと、率直な意見を聞かせてくれる。何しろ今回の贈り物も、オリバーと一緒に選んだものなのだ。
それに彼も、もう婚約者へ贈り物を渡しているかもしれない。もしかすると、向こうも何か報告したいことがあるかもしれない。
次に会ったら聞いてみよう。
オリビアへ贈ったブローチが本当に悪くなかったのか。そして、オリビアからもらったハンカチを見た瞬間に固まってしまった俺の反応を、どう取り繕えばいいのか。
――その相談相手こそが、今日目の前でブローチを手に固まっていた本人だとは、もちろん知る由もなかった。




