女たちの視線
男に好かれることには、代償があった。
田中の部署に、女性社員たちの冷たい空気が漂い始めたのは、あの給湯室の一件が噂として広まった頃からだった。「取引先の営業を誘惑した」「男好き」「ぶりっ子」――事実無根の陰口が、給湯室で、トイレで、田中の背中で囁かれるようになった。
理不尽だった。誘ったのは向こうで、田中はただ迷惑していただけだ。だが、女性たちの目には、「男を引き寄せる女」がすべて悪、と映るらしかった。
嫌がらせは、じわじわとエスカレートした。田中の机の上の書類が、いつの間にか順番を変えられている。ランチに誘われなくなる。挨拶を無視される。第1部で田中を苦しめた「男からの視線」とは、まったく質の違う攻撃だった。男の視線は「暑さ」だったが、女たちの視線は「冷たさ」だった。
(……こっちのほうが、よっぽど堪える)
田中は、初めて「女が女の敵になる」構造の中に、当事者として放り込まれていた。男だった頃、こんな世界があることすら知らなかった。会社の中に、こんな見えない戦場があったのか。
「気にすることないよ」
三宅は、いつものように淡々と言った。だが、その声には、田中への同情とは別の、何か苦いものが混じっていた。
「あの人たちは、あなたが憎いんじゃない。"自分が我慢して守ってるルール"を、あなたが軽々と破ってるように見えるのが、許せないの。……"女らしく、慎ましく、出しゃばらず"。そのルールを守って損してる人ほど、破ってる人が憎い」
「あんたは、そのルール、守ってないだろ」
「だから、私も嫌われてるよ。ずっと」
三宅は、初めて自嘲めいた笑みを浮かべた。田中は、この同志が抱えているものの輪郭に、少しだけ触れた気がした。この女もまた、田中とは違う形で、「女という檻」の中で戦い続けてきたのだ。
その日の帰り、田中は誰もいない給湯室で、机を拭きながら、ぽつりと呟いた。
「男でいるのも、女でいるのも、しんどいんだな。……どっちも」
二ヶ月前の田中には、絶対に言えなかった言葉だった。




