一線
その男は、取引先の営業だった。
商談の席で田中に一目惚れしたらしく、以来、何かと理由をつけて会いに来るようになった。強引で、自信家で、断られることを想定していないタイプ。田中がやんわり距離を取っても、まるで通じなかった。
「今夜、二人で飯でも」を何度もかわし続けた末、その男は、強引な手に出た。商談後、田中を人気のない給湯室の隅に追い詰めたのだ。
「なあ、いい加減、素直になれよ。お前も満更でもないんだろ」
男の手が、田中の腕を掴む。距離が、詰まる。
その瞬間――田中の体が、反応しかけた。追い詰められ、強い視線に晒され、力で圧される。この二ヶ月で体が「快」として拾うようになった状況の、最悪の組み合わせ。背筋を、あの痺れが走ろうとした。
(――違う)
だが、今回ばかりは、田中の意思が、体を上回った。
体が反応しかけたことに、猛烈な嫌悪が湧いた。ぞくりとしかけた自分を、心が全力で殴りつけた。冗談じゃない。この体がどう反応しようが、俺は――俺は、男に抱かれたいなんて、絶対に思わない。それだけは、この体に明け渡さない。ここが、最後の一線だ。
「――離せ」
田中の声は、低く、はっきりしていた。第1部の頃の、竦んで声も出せなかった自分とは違った。掴まれた腕を振り払い、田中は男を正面から睨みつけた。二十五年間、男として生きてきた人間の、本物の拒絶の目だった。
男が、一瞬ひるんだ。その隙に、
「そこの人、何してるんですか」
凛とした声が割って入った。三宅だった。いつの間に来たのか、給湯室の入口に立ち、スマホをこちらに向けている。
「今の、録画してます。会社に報告してもいいですし、しなくてもいい。――どっちがいいですか?」
男は舌打ちして、逃げるように去っていった。
二人だけになった給湯室で、田中は壁にもたれて、大きく息を吐いた。手が、少し震えていた。だが、それは恐怖の震えではなかった。
「……体は、反応しかけた。でも、俺が、嫌だった。心の底から、嫌だった」
田中は、絞り出すように言った。
「よかった。俺は、まだ、俺だ」
三宅は、スマホをしまいながら、静かに頷いた。
「うん。あなたは、あなただよ。ちゃんと」
体がどれだけ変わっても、快感をどれだけ拾っても、譲れない一線がある。それを守り抜けたことが、田中に、この二ヶ月で初めての「自分への信頼」をくれた。俺は、まだ、俺でいられる。その確信だけが、この体と生きていくための、たった一つの支えだった。




