勝手に動く体
異変は、じわじわと日常を侵食していた。
田中は、認めたくなかったが、認めざるを得なくなっていた。――この体は、快感を、覚え始めている。
最初は電車の中だけだった。だがそれは、次第に日常の様々な場面に染み出していた。人前で話すとき、視線が集まると、ほんの少し声のトーンが変わる。誰かに褒められると、無意識に髪を触る。そして――そういう「無意識の仕草」をした後の反応が、周囲の男たちを、さらに引き寄せる。
悪循環だった。体が注目を「快」として拾う→無意識に注目を集める仕草をする→さらに注目される→さらに反応する。田中の意思は、その輪の外側で、ただおろおろしているだけだった。
決定的だったのは、部署の飲み会でのことだ。
酔いも手伝って、田中はいつもより口が軽くなっていた。同僚に褒められ、調子に乗って、少し体をくねらせるような、あるいは上目遣いで相手を見るような――そんな仕草を、無意識にしていた。場の男たちが、明らかに沸いた。その「沸いた」空気を、田中の体は、ぞくりと心地よく受け取った。
(――あ)
気づいた瞬間、血の気が引いた。
今、俺は、何をした。男たちの視線を集めて、それを「気持ちいい」と感じた。仕草も、反応も、全部、俺の意思じゃない。だけど――やったのは、俺の体だ。俺の顔で、俺の声で、俺は今、"媚びた"。
トイレに逃げ込み、鏡の前で、田中は自分の顔を睨みつけた。頬が上気している。目が、潤んでいる。知らない女の顔だった。いや、知っている。これは、俺が、注目に酔っているときの顔だ。
「……ふざけるな」
声が震えた。中身は男だ。男が、男の視線に媚びて、それを喜ぶわけがない。なのにこの体は、俺の一番許せない形で、勝手に「悦んで」しまう。羞恥よりも、快感よりも、その「自分で自分を制御できない」という事実が、何よりも田中を打ちのめした。
その夜、田中は三宅に電話をかけた。誰かに話さないと、潰れそうだった。
「……体が、勝手に、喜ぶんだ。見られて、注目されて、それを気持ちいいって感じる。俺の意思と関係なく。俺は、そんなの、望んでないのに」
電話の向こうで、三宅はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「体が喜ぶのと、あなたが喜ぶのは、別。……あなたが"嫌だ"って思ってる限り、あなたは、あなたのままだよ」
その一言に、田中は不覚にも、少し泣いた。
「体は勝手に反応する。それは止められない。でも、それを"嫌だ"と思える心があるうちは、あなたは男のままだから。――大丈夫」
大丈夫、なんて言葉、二ヶ月間、誰からもかけてもらえなかった。田中は電話を握りしめたまま、しばらく声を出せなかった。




