第4話 シャイン視点①
「リゼッタ様は、非常に覚えがお早いです。基礎課程も、もう間もなく終えられるでしょう」
執務机の向こうで、王太子妃教育を担当する教師が報告書を開いていた。
「だろうな」
俺は手元の書類から目を離さずに答えた。
リゼッタの覚えがいいことくらい、最初から知っている。騎士学校でも座学の成績は常に上位だったと聞いているし、実際、あいつは一度教えれば大抵のことを覚えた。
「ただ……」
歯切れの悪い声に、ようやく顔を上げた。
「何だ?」
教師は報告書を持ち直し、眼鏡の位置を指先で直した。
「覚えられた知識を、実際の事例に当てはめて判断していただく段階になりますと、少々時間を要することがございまして」
「……まあ、それも想定の範囲だ」
アシュレイと同じようにやれというのは無理だろう。
あいつの外交の勘は、そう簡単に培えるものではない。
だからこそ、側妃の地位を与えたのに。
一体、何が不満だというのだ。
「引き続き進めてくれ」
「承知いたしました」
教師は報告書を閉じ、深く一礼してから扉へ向かった。
俺は再び机へ目を落とした。
広い天板には、決裁を待つ書類が何段にも重ねられている。
リゼッタにもいくつか仕事を任せ始めたが、まだ基礎課程の途中だ。処理できている量は、アシュレイが引き受けていた仕事の一割にも満たない。
扉が閉まる音を聞いて、俺は机の脇に控えていた側近へ顔を向けた。
「それで、オルブライト公爵は本当に療養しているのか?」
「はい。調べさせましたが、どうやら本当のようです。ここ十日ほどで、医師が何度も屋敷へ出入りしております」
側近が差し出した報告書を受け取った。
「……使えないな」
ざっと目を通し、そのまま屑籠へ放る。
こんな時期に倒れられては困る。
公爵が動けないなら、ギルベルトが穴を埋めればいいだけの話だ。
だが、あいつは父親以上に面倒だった。
王太子府から距離を置けば、自分たちの影響力も落ちる。それが分からない男ではない。
分かったうえで、こちらから距離を取っている。
妹一人のために王太子府との関係まで弱めるなど、浅はかな奴だ。
俺は椅子の背に身体を預け、側近を見上げた。
「それより、レーヴェン侯爵家から返事は?」
「……それが、その」
「何だ。さっさと言え」
「今回は辞退したい、とのことでございます」
「何? 首席政務参事官の件か? 諸侯との調整を任せる話の方か?」
「どちらもです。大変ありがたいお話ではあるが、辞退申し上げたい、と」
今度は何だ。
年齢を理由にでもするつもりか。
俺は眉間を指で押さえた。
「侯爵を呼べ。直接聞く」
◆
数日後、昼食を終えた頃、レーヴェン侯爵が王太子府を訪れた。
政務室に隣接する応接室へ通すと、侯爵は俺の向かいにある一人掛けの椅子に腰を下ろした。
白髪交じりの髪は後ろへ撫でつけられ、年齢の割には背筋も伸びている。
「久しぶりだな。急に呼び立てて悪かった」
「いえいえ、とんでもございません。殿下からのお召しとあらば、いつでも参りますとも」
侍従が卓上へカップと焼き菓子を載せた皿を置いた。
淹れたてのコーヒーから、香ばしい匂いが立ち上る。
俺はカップへ手を伸ばした。
「奥方は元気か? 確か、しばらく腰を悪くしていたな」
「お心遣い、ありがとうございます。最近は杖なしでも庭を歩けるようになりまして」
「それはよかった。長男は昨年から西部行政院だったな」
「はい。まだ下っ端でございますが、どうにか務めているようです」
面会前に側近がまとめた相手の略歴や近況へ一度目を通せば、大抵のことは頭に入る。
これまでアシュレイが、相手の家族の近況や好みまで細かく揃えていたから任せていただけだ。
必要なら、俺にだってできる。
「次男は騎士学校だったか」
「今年で卒業です。バルト家のご子息に散々しごかれたおかげか、剣だけは随分上達いたしましてな。ははは」
「……そうか」
俺はコーヒーをひと口飲み、カップを受け皿へ戻した。
「それで、先日の話なんだが」
侯爵は目を瞬かせ、手に取った焼き菓子をひとかじりした。
「王太子府の首席政務参事官の件だ。もちろん、名目だけではない。俺が政策を決める前の政務会議にも加わってもらう」
俺は少し身を乗り出した。
「主要諸侯との事前調整も任せたい。各省との折衝が必要なら、俺の代理として動いて構わない」
王太子府で、これ以上の立場はそう多くない。
レーヴェン侯爵家は、地方諸侯の裁量を重んじ、中央の統制を主張するオルブライト家とは何度も衝突してきた。
そのオルブライト家が一歩退いたのだ。侯爵にとって、これほど都合のいい話もないだろう。
侯爵は焼き菓子をゆっくりと咀嚼し、コーヒーをひと口飲んだ。
「いやぁ、大変ありがたいお話ではございますが、やはり辞退させていただきたく存じます」
こめかみが強張った。
「なぜだ。オルブライト家が王太子府から一歩退いた今、貴家が中央でさらに存在感を増す好機でもあるはずだ」
「我が家には、いささか荷が重うございます」
「謙遜するな。貴家はこれまで、何度もオルブライト家と正面から渡り合ってきただろう」
「まあ、あの家とは気が合いませんな」
「そうだろう。なら、いつまでもオルブライト家の後ろに甘んじている必要もない。今こそ貴家が前へ出ればいい」
こちらからこれほどの席を用意してやっているんだ。
むしろ、ありがたく思ってもらいたいくらいだ。
侯爵はカップへ砂糖を一匙落とした。
「実はね、殿下。うちの娘がアシュレイ様に憧れておりまして」
「……は?」
「今、私が王太子府へ入ったら、口を利いてもらえなくなるかもしれません」
「お前は娘の機嫌で国政を決めるのか?」
「殿下も娘を持てば分かりますよ。いやぁ、娘を持つ父親というのは大変なものでして」
「御託はいい」
俺は指先でこめかみを押さえた。
「娘の話は方便だろう。いったい何が望みだ」
侯爵がスプーンでコーヒーをかき混ぜた。
カップの内側にスプーンが触れ、かすかな音が鳴る。
「確かに私は、オルブライト公爵をいけ好かない男だと思っております」
さらに砂糖を一匙落としながら、侯爵は続けた。
「ですが、あの男の政治勘だけは信用しております」
「オルブライト家は今、当主が療養し、娘も国外へ出た。ギルベルトまで領地へ引くと言っているのだぞ」
「ええ。傍から見れば、ずいぶん見事な逃げっぷりですな」
「それでも、まだあの家を評価するのか?」
「そうですねぇ……今、あの家の舵取りをしているのは、オルブライト公爵の息子なのでしょう? ええと、確か……」
「ギルベルトだ」
「そうそう、ギルベルト。あの家の息子は、まあ、生意気ですし、口も悪い」
侯爵は口元を緩めた。
「ですが、あの息子は馬鹿ではありません」
「ギルベルトも信用している、と?」
「まさか。倅一人の判断だけで決めるほど、私も若くありませんよ」
侯爵は残ったコーヒーを飲み干した。
「ただ、好かん家が席を立ったからといって、飛びつくほど若くもない、ということです」
そう言って膝に両手をつき、「よっこらしょ」と立ち上がった。
「というわけで、我が家は今回のお話、やはり辞退させていただきます」
深く頭を下げる。
俺は、その姿をしばらく見ていた。
「お前も、オルブライト家と同じか」
侯爵が頭を上げた。
「警戒する振りをして、逃げているだけだろう」
「さて、どうでしょうな」
侯爵は傍らに置いていた杖を取り、石突きを床へついた。
「では、失礼いたします」
そのまま踵を返し、扉へ向かう。
杖が床を叩く音が、侯爵の歩みに合わせて遠ざかっていった。




