第3話 リゼッタ視点
私は昔から、やれば大概のことはできた。
淑女教育もそうだ。
礼儀作法、外国語の基礎、主要な貴族家の家紋や系譜。教師から出された課題は、たいてい数回教われば覚えられた。
だから正直、分からなかった。
「この花弁、どうしても糸目が揃いませんの」
「分かりますわ。糸を引きすぎると、すぐ布がつれてしまって……」
そんなことで行き詰まりながら、それでも楽しそうに笑っている令嬢たちを見ていると、ぞわりとした。
――それくらいもできないの?
何度か練習すればできることを、できないまま笑っている。
そういう子たちと一緒にいるより、兄たちが庭で剣を振っている姿を眺めている方が、ずっと面白かった。
ある日、そんな私に兄が気まぐれに「やってみるか?」と木剣を差し出した。
いつの間にか兄たちと一緒に素振りをするのが日課になり、とうとう父に頼み込んで、本格的に剣術を習う許可までもらった。
そこからは夢中だった。
鍛えるほど剣を振る速度が上がり、技を覚えるたびに、兄にも一瞬なら本気を出させられるようになった。
こんなこと、普通の令嬢にはできない。
バルト家は代々、軍に多くの人材を送り出してきた家だ。
兄に倣って、私も騎士学校へ進みたいと言ったのだが、両親には当然反対された。
それでも、淑女教育をすべてきちんと修めることを条件に、最後には認めてもらえた。
そして騎士学校は、令嬢教育とは比べものにならないくらい大変だった。
朝から訓練場の外周を何周も走り、何百回と素振りを繰り返す。長距離の騎乗訓練もあれば、男たちに混じって筋力訓練をする日もある。
最初の頃なんて、訓練後に食べた昼食を全部吐いたこともあった。
それでも、仲間と笑い合いながら実力をつけていけるのは楽しかった。
「またリゼッタが一位かよ」
「お前、剣の試験も上位だっただろ。頭までいいとか反則だろ」
「何言ってるのよ。今回の計算問題なんて選択式だったじゃない」
「うわ、ムカつく」
「そんなこと言って。じゃあ、もう課題が分からなくても教えてやんない」
「げっ。す、すみません、リゼッタ様! お許しを!」
皆が笑い、私も声を上げて笑った。
試験の結果なんて当然だ。
この程度、授業を聞いて、数時間問題集を開けば十分だった。
ふと、仲間たちの向こうに目をやると、廊下で数人の女騎士がこちらを見ながらひそひそと話していた。
私と目が合うなり、慌てて顔を背ける。
どうせ、男と気安く話しているのが気に入らないとか、侯爵令嬢だから贔屓されているとか、そんなところだろう。
騎士学校へ入る前から、そういう女はいた。
くだらない。
近衛騎士になれたことも、特別意外ではなかった。
ただ一つ、シャインとの出会いだけは予想していなかったけれど。
最初はシャインの稽古相手として、何度か剣を合わせただけだった。
そのうち顔を合わせれば話すようになり、散策へ誘われることも増えた。訓練のあと、騎士仲間たちと一緒に街へ出かけたこともある。
騎士仲間とは武具や馬の話ばかりになりがちだけれど、シャインは話題が広い。
王都で始まった新しい芝居の話もしたし、外国から入ってきた絵画の話で盛り上がり、いつの間にか二人だけで笑い合っていたこともあった。
そんなシャインが婚約者のアシュレイと並んでいるところを見たときは、なるほどと思った。
いつも私に向けてくれる笑顔が、そこにはなかった。
アシュレイ・オルブライトは、確かに綺麗だった。立ち居振る舞いも、優雅という言葉がよく似合う。
ただ、それだけだ。
身体は細く、顔色もあまりよくない。
話せば丁寧だけれど、シャインから聞いた話では、今話題の女優の名前すら一人も知らないそうだ。
以前、私が一人でいるところへ、わざわざ注意しに来たこともある。
「リゼッタ様。あまり長くシャイン殿下とお二人で過ごされるのは……」
「なんで?」
「……殿下には婚約者がおります。お立場をお考えください」
だから何なのだろう。
別に抱き合っていたわけでも、口づけしていたわけでもない。
言いたいことがあるなら、はっきり言えばいい。
そういう遠回しな言い方が、私にはどうにも鼻についた。
そんな中、シャインから正妃になってほしいと言われたときは、さすがに驚いた。
けれど理由を聞けば、納得もした。
表舞台に立つなら、私の方がふさわしい、と。
騎士仲間たちからも祝福されたし、父の友人たちからは宝石やらドレスやら、山ほど贈り物が届いた。そして両親も「さすがバルト家の娘だ」と喜んだ。
――それなのに。
「あーもう、本当にムカつく」
肘をついたまま、問題用紙を睨んだ。
机の向こうでは、黒い上着を着た教師が背筋を伸ばして立っている。私が問題を解いている間、ずっとあの姿勢だ。
座ればいいのに。
カップを手に取ったが、いつもの紅茶の香りはほとんどしなかった。
ひと口飲んで、顔をしかめる。
「……苦い」
おまけに冷めている。
壁際に控えていた侍従が、慌てて部屋を出ていった。
「ええと……この地域は、ローデン地方」
私はペンを持ち直し、答案の最後の空欄を埋めた。
「できた」
答案を机越しに教師へ差し出す。
教師は一礼して受け取ると、机の向かいに置かれたテーブルへ移動し、椅子に腰を下ろした。
赤いインクをつけたペンが、紙の上に小さな丸を次々と描いていく。
私はそれを眺めながら、指先で自分のペンをくるくると回した。
やがて教師がペンを置き、顔を上げた。
「素晴らしいです、リゼッタ様。全問正解でございます」
「まあ、このくらいはね。正直、もっと難しいものだと思ってた」
騎士学校で習った歴史や法律、外交の基礎知識と重なる部分も多い。覚え直すほどのことでもなかった。
ちょうどそのとき、政務室の扉がノックされた。
「どうぞ」
扉が開き、シャインが入ってきた。
「あ、シャイン。見に来てくれたんだ」
「まあな」
シャインは脇に書類を抱えたまま、こちらへ歩いてくる。
教師がすっと立ち上がり、一礼した。
「終わったのか?」
「うん。全部正解」
教師は何も言わず、シャインへ答案を差し出した。
シャインはそれを受け取り、紙の上へ視線を走らせる。
私は冷めた紅茶をもうひと口飲み、思わず目を細めた。
「……当然だろう」
「は?」
カップを口元から離した。
「これは基礎中の基礎だ。アシュレイは十歳で終えている」
カップを置くと、受け皿がかちりと鳴った。
「……あのさぁ、それはそうでしょ? アシュレイはずっと勉強しかしてなかったんでしょう」
「そう思うなら、先へ進め」
シャインは教師の方を向き、顎で合図した。
教師は頷くと、壁際の本棚へ向かった。
取り出したのは、分厚い本だった。しかも、一冊や二冊ではない。
教師はそれらを抱えて戻ってくると、私の前に積み上げた。
どさり、と重たい音がした。
「ここまでが基礎課程でございます。王太子妃になられるのですから、こちらも修めていただく必要がございます」
目の前には、分厚い本が壁のように積み重なっていた。
「何言ってんの? こんなの全部覚えられるわけ――」
「アシュレイは覚えていたぞ」
私はシャインを睨みつけた。
「さっきからなんなの、シャイン! アシュレイと比較しないでよ!」
「なら、結果を出せ」
言い返そうとしたところへ、シャインが抱えていた書類の束を机の端に置いた。
「それと、今日からこれも頼む」
「……何よ、それ」
「王家が後援している事業の報告書だ」
シャインが書類を指で叩いた。
「内容に目を通し、継続に問題がなさそうなもの、再調査が必要なもの、支援の見直しを検討すべきものに分けておけ。最終判断はこちらでする」
「なんで私が……」
「王太子妃になるんだろう。今のうちから慣れておけ」
そう言って、シャインは踵を返した。
「ちょっ……待ってよ!」
私は机に手をつき、立ち上がった。
「今日は剣の打ち合いに付き合ってくれるんじゃ――」
言い終わる前に、扉が閉まった。
「……何なのよ。ほかに言うことないの?」
私は椅子に腰を落とした。
目の前には、右に書類、左に本の塔。
その隙間から、壁に立てかけた愛剣が見えた。
教師が分厚い本のうちの一冊を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
「では、続きを始めましょうか」
開かれた本が私の目の前に置かれ、思わず舌打ちしそうになった。
本当に腹が立つ。
――全部、アシュレイのせいだ。
これだから、ああいう女は嫌いなのだ。




